南紀旅行 4日目
南紀旅行 4日目
南紀旅行 4日目
帰京の途につく。
8/24
鳳950 → 東羽衣953
阪和線837H クハ103-192

東羽衣957 → 鳳1000
阪和線838H クハ103-192

阪和線撮影

鳳1038 → 天王寺1054
阪和線4136M 紀州路快速 クモハ224-5006

天王寺1102 → 京橋1115
大阪環状線2465E モハ201-269

京橋1122 → 放出1126
片町線5456M 快速 モハ320-22

放出1127 → 久宝寺1141
おおさか東線2440S クハ103-198

久宝寺1154 → JR河内永和1202
おおさか東線2447S クハ104-8

河内永和1210 → 生駒1237
近鉄奈良線4175 1077

帰省、生駒山など

生駒1925 → 大阪難波1947
近鉄奈良線4930 快速急行 1077

なんば1953 → 新大阪2008
大阪市営地下鉄御堂筋線526 21816

新大阪2017 → 新横浜2234
東海道新幹線60A のぞみ60号 786-548

大阪近郊
9時頃に起きる。旅行の日程を重ねるにつれて起床時刻が遅くなってゆく。熟睡しているとはいえ、わずかに残る疲労が徐々に蓄積していく影響だろう。さまざまな要素を盛り込み、より凝縮した旅程を実現しようとすれば、どうも遅寝早起きの傾向になりがちである。しかしながら、何もしない一日を敢えて設定するのもまた贅沢な選択かもしれない。そのためには、時間にゆとりが必要となる。

今日の午前中はその贅沢な選択、というわけではないが、のんびりと大阪圏のJRを観察しながら目的地、生駒へ向かうことにする。こういう機会でなければまず乗らないであろう阪和線の東羽衣支線を往復した後、鳳の構内にて適当に撮影を行う。駅撮りはいつ以来だろうか。高校の頃は京葉線、武蔵野線、南武線などをよく訪れたものだが、いつしか鉄道撮影の主眼が長期休暇中の旅行へとシフトした感がある。首都圏ではこの数年で国鉄型車両や寝台特急の淘汰が著しく、端的に言えば撮るものがなくなりつつある。では単純に遠征すれば良いかというと必ずしもそうではなく、485系雷鳥、高山本線キハ58などをはじめとする魅力的な被写体がどんどん姿を消していった。もはや純粋に車両や列車のみを追いかけるのが難しくなった今や、究極の非日常にして、自己の内面との対話の場である旅行、その中で目にした一期一会の一風景として、鉄道の姿を撮像素子に焼き付けることに新たなる愉しみを見出しつつあるというわけだ。カメラはいわば自己の感覚器の分身であり、主体と客体、支配と従属の関係ではありえない。シャッターが切れるたび、当然ながら光線は幾多もの電子データに変換されるけれども、逆に自分の脳内にも何らかの記憶が刻み込まれるものと思っている。まさにその蓄積こそが新たなる精神作用を生みだすのではないか。

次々とやって来るスカイブルーの103系はやはり新鮮な光景である。西日本の103系はいつまで走り続けるのだろうか。撮影後は天王寺まで紀州路快速で出て、その後環状線で京橋、片町線で放出(はなてん)、と乗り継ぎ、放出からはおおさか東線を乗りつぶすべく久宝寺を往復する。ここは城東貨物線を旅客化した路線で、真新しい高架の上をウグイス色の103系と201系が行き交う。城東貨物線といえば5年前にその北部区間を訪れたが、当時はまだDD51が健在であった。もしまた会えれば、と思っていたのだが、残念ながらこの春、電気機関車に置き換えられてしまったらしい。

正午を過ぎた頃、河内永和から生駒へ向かった。

帰途につく
2年ぶりに祖父母に会う。あの時は1年生の夏、大糸線と北陸本線を撮り歩いた末、母の実家にやって来たのだった。今回は約半日の滞在ではあったが、思うところは色々と大きい。この温かい感じ、それでいて心にぴたりと触れる冷たさは果たして何か。浮かび上がったものは頭の片隅にそっとしまっておき、然るべき時が来たら機会を改めて、糸を紡ぎ出すがごとく書き連ねるとしよう。

夜は新大阪から新幹線にて帰京する。のぞみの自由席は凄まじい混雑で、幸いにも着席することはできたもののあまり落ち着かなかった。容赦ないスピードであっという間に日常に引き戻されるこの感覚は新幹線独特である。航空機の場合はワープに近いので急に別の部屋に入ったような気分になるが、新幹線では辛うじて感覚がついてくるから、最初のうちは非日常を引きずりながら走り、しかしながら徐々に非日常が全身から引き剥がされていき、しまいには日常という名の雑然とした海に溺れてしまうのをまざまざと思い知らされることになる。

そんなことを考えながら新横浜に降り立つ。旅もまもなく終わりである。

写真
1枚目:阪和線(@鳳)
2枚目:おおさか東線(@久宝寺)
3枚目:生駒山頂より

2479文字
南紀旅行 3日目
南紀旅行 3日目
南紀旅行 3日目
南紀の海はコバルトブルー。
8/23
勝浦駅855 → 那智山920
熊野交通バス 和歌山200か268

熊野那智大社、那智の滝

那智の滝前1056 → 勝浦駅1120
熊野交通バス

紀伊勝浦1151 → 串本1232
紀勢本線2330M クハ104-7

串本1240 → 潮岬灯台1250
タクシー

潮岬灯台、潮岬(本州最南端の地)

潮岬1350 → 串本駅1407
熊野交通バス

串本1433 → 紀伊浦神1506
紀勢本線2333M クモハ105-5

2338M・78M・63M・2335M撮影

紀伊浦神1751 → 紀伊田辺1956
紀勢本線2342M クハ104-8

紀伊田辺2020 → 御坊2105
紀勢本線2374M クモハ112-2058

御坊2110 → 和歌山2213
紀勢本線394M クハ116-12

和歌山2230 → 日根野2301
阪和線3722H クハ103-162

日根野2302 → 鳳2319
阪和線5228M 関空快速 クハ222-2503

鳳泊
ビジネスホテル なか

那智山へ
強烈なにわか雨である。おさまるまで宿で待っていたら8時25分発のバスを逃してしまったが、まもなく雨雲が通り過ぎて晴れ間が広がってきた。水色の空にもくもくと雲が沸き立つ様は、暑い夏の一日を予感させる。那智山行のバスは30分後にもあるので、荷物を駅前の海産物センターに預けてからこれに乗車する。朝の勝浦の町は昨晩とは違っていくぶんか活気がある。港町というのは往々にして午前中の方が賑やかなのだろう。バスは那智川をさかのぼる形で山間部へ分け入る。「大門坂」バス停を過ぎると道路はつづら折りの山道となり、どんどん高度を稼いでいく。「大門坂」で降りれば杉並木に囲まれた熊野古道の石畳に入り、バスの終点である那智山観光センターまで登ることができたのだが、石畳は昨日の馬越峠で歩いたし、それに今日はあまり時間もないことだから今回はパスする。

まずは長い石段の道を登って熊野那智大社へ向かう。平日のはずだが、意外にも観光客が多い。本殿の近くから景色を見渡すと、なかなか高いところまで来たことが分かる。熊野那智大社のすぐ隣には那智山青岸渡寺が並んでいる。神道と仏教が那智山という同じ空間に共存しているのは不思議で、これがいわゆる修験道だろうか。那智山での滞在時間は1時間半ほどしかないので、最後は急ぎ目に那智の滝へと山道を下る。落差は133mで、見上げたところにある岩肌の崖からすらりとした白い瀑布が駆け下りる。せっかく来たことなので、神盃で滝の水を口に含む。帰りは11時前のバスで紀伊勝浦の駅前に戻る。バスの本数も比較的多いので、少し立ち寄るには最適な観光地であった。

潮岬
荷物を預けていた海産物センターで地酒「熊野三山」を買い、正午前の普通列車で勝浦を去る。105系の2両編成、車内はオールロングシートだが、左手に展開する車窓は息をのむ美しさである。下里~紀伊浦神にはコバルトブルーの海が、紀伊田原~古座には独特の岩畳が広がり、緩急に富んだ表情を見せてくれる。右手に鬱蒼たる緑の山々が迫る中、短編成の列車は海のすぐそばを快走する。トンネルを抜けて次の入り江に出るたびに新しい景色が待っていて、まるで心が洗われるかのようだ。

串本で下車。タッチの差で潮岬行のバスは行ってしまっているので、やむなくタクシーで岬を目指す。滞在時間は2時間ほどであるから、灯台と本州最南端の地だけを訪れて帰ることにする。潮岬灯台は岩場の崖の上に立つ白亜の建築で、上に登れば陽光に煌めく太平洋が眼下に広がり、逆に陸の方を見渡せば駅からタクシーで走ってきた小さな半島が串本の湾を輪郭している。ここは陸、海、空の三者が一堂に会する場所である。黄昏を迎え海に光が放たれる頃、陸は黒い影となり、海は灰色の闇に沈み、そして空はかすかな燃え残りを映して赤く染まることだろう。下から灯台を見上げると、白昼の日差しをまぶしく反射する姿が青空や緑と強烈なコントラストをなす。今日はじりじりと焼け焦げるような暑さだ。

灯台からは徒歩10分弱で最南端の地に至る。さして岬といった風情ではなく、道路からは広い芝生が続く。休憩所の建物のそばに「本州最南端」と彫られた味気ない石が置いてあるのみで、しばらくベンチに座って茫然と過ごす。海を見渡すと、何隻もの大きな船が行き交っている。大半は貨物船だろう。船がゆっくりと海を滑ってゆくのを眺めるのはなかなか楽しい。あのスピードは、落ち着いた時空間の流れにちょうど合っているような気がするのである。帰りは潮岬始発のバスで駅まで戻った。

紀伊浦神にて
元々は14時35分発の下り列車に乗り、黄昏時に初島~下津の石油コンビナートを撮影、夜は和歌山ラーメンでも食べようかと考えていたのだが、昼間に見た紀伊浦神の車窓が忘れられず、予定を変更し日の暮れるまで紀勢本線南部の撮影を行うことにする。14時33分発の新宮行で串本を去り、紀伊浦神へ向かった。島式ホームの小さなひなびた無人駅である。

国道を下里方面に向かうと、小規模な漁港が現れる。ここは玉の浦という入り江の最奥部にあたる。対岸を見渡せば小高い半島のふもとに集落があり、東方に目を向けると湾が太平洋に開いている。写真を撮りながら桟橋を歩いていると、魚の干物が並んでいるのを見つけた。胴体が正中断され、頭の残っている側とそうでない側が交互に整列して夕方の日差しをいっぱいに浴びている姿はなかなか面白い。その眼は死んでいるはずなのだが、何か言いたそうでもある。

昨日とは大違いでとくに撮影地の下調べもしていなかったため、海岸線を絡められそうなところから適当に撮ることにする。最初の下り普通は駅から1kmほど歩いたところ、国道が岩屋崎を回り込んだ先にて撮影。しかしながらここは線形上、列車の正面にしか日が当たらなかったので、次にやってくる上下の特急2本と上り普通1本は駅に近い漁港付近にて撮影することにした。先ほどの地点に比べるとどうしても障害物が多いので絶景とは言い難いが、一応海と一緒に撮った感は出る。桟橋に座り、のんびりと列車を待つ。天気は良好。海と空、性格の異なる二つの寒色に身を包まれながら、西日を背中に受け止める。だんだんと赤みがかかってきたこの光線状態はいつも旅愁を誘う。

合計4本を撮り終え、駅へ引き返す。辺りはそろそろ黄昏を迎えようとしている。18時前の普通に乗り、紀伊浦神を去った。

乗り継ぎ
あとはひたすらに普通列車を乗り継ぐのみである。日が沈んでしまうと車窓を眺めるわけにもいかない。こういう時のためにと思って『THE CASE-BOOK OF SHERLOCK HOLMES』を持参しておいた。一昨日のムーンライトながらの車中から読み始めたのだが、短編集なので細切れの時間に最適である。

紀伊田辺、御坊、和歌山、日根野と4回乗換えてようやく23時半頃に今宵の宿、鳳(おおとり)に到着。紀伊田辺では20分以上の時間があったので、駅前のラーメン屋で急いで夕食をとった。何より驚いたのは、和歌山から乗った阪和線の普通列車がいまだにスカイブルーの103系だったこと。首都圏ではすっかり過去の車両となってしまったが、関西ではまだまだ現役を続けているようだ。

これで紀伊半島をぐるりと回ったことになる。

写真
1枚目:那智の滝
2枚目:潮岬灯台
3枚目:玉の浦をゆく(@下里~紀伊浦神)

3623文字
南紀旅行 2日目
南紀旅行 2日目
南紀旅行 2日目
熊野古道を歩く。
8/22
紀伊長島613 → 伊勢柏崎635
紀勢本線322D キハ40 3001

2089レ・3002D撮影

大内山817 → 尾鷲901
紀勢本線327C キハ48 5805

熊野古道馬越峠、天狗倉山
3006D撮影

相賀1545(+10) → 二木島1620(+5)
紀勢本線331C キハ48 5302

2088レ・336C撮影

二木島1742 → 新宮1858
紀勢本線333C キハ48 5805

新宮1910 → 紀伊勝浦1935
紀勢本線2346M クモハ105-4

紀伊勝浦泊
ビジネスホテル くすもと

紀勢貨物を追う
目覚めると5時。窓を開けると、まだ日の出前の漁港が眼前に広がっている。少し曇ってはいるが、天気はすがすがしい。今日も暑くなりそうだ。有難いことに、こんな時間にもかかわらず朝食を用意して下さった。やはり魚が美味しい。紀伊長島6時13分発の上り列車に合わせて駅まで送って頂く。再び長島に来ることがあれば是非泊まりたい宿である。

列車は熊野市を4時48分に出ていて、紀伊長島までは単行のキハ40である。ここで4両を増結して堂々5両編成となり、朝の紀勢本線を上ることになる。車内には学生が多い。列車はエンジン全開で荷坂峠を登り切り、梅ヶ谷、大内山と停車していく。この辺りは完全に山あいの里といった風で、先ほどまでの長島の町とは表情がまったく異なる。低いところに霧が立ち込めていて、その切れ間から朝の日差しがさしこんでくる。

伊勢柏崎で下車。20分ほど阿曽方面に歩いて、有名な「イセカシカーブ」に到着。ここで2089レを狙う。線形は美しいS字カーブで、この時間帯は光線も極めて良好であるから、まさしくこのDD51貨物を撮るためにあるような撮影地といえる。そういえばS字カーブでの撮影、そもそも架線のない場所での撮影はあまり経験がない。当初は、変曲点での接線の上に立てば良いと勝手に思い込んでいたものの、冷静に考えてみればそれでは正面すぎる。長編成が「うねる」感じを出すためには、曲線に対して接線を引けないような場所に立たねばならない。かりにシグモイドをy=1/(1+e^(-x))とおけば、第3象限においてx軸からそう遠くないような位置に立つ、というのが妥当なところだろうか。

やがて列車は轟音と共に駆けて来た。編成をくねらせながらS字を疾走する姿はファインダー越しでさえ迫力満点。コンテナ満載の7両のコキを率いるのはDD51 1805。何と国鉄色である。更新色がかなりの頻度で充当されるとは聞いていたが、DD51自体が徐々に絶滅危惧の機関車になりつつあるので塗色へのこだわりは捨てていた。それでもやはり国鉄色が来てくれると気分が高揚するものである。唯一の心残りは、最後まで霧が晴れずに光が当たらなかったこと。通過直後にさっと晴れたので非常に悔しかった。

撮影後、たまたまご一緒した地元の方のご好意に甘え、いわゆる「追っかけ」に同行させて頂いた。並走する国道42号線を車で下ると、伊勢柏崎の隣の大内山にて停車中の2089レを抜かす。ここで上りの南紀2号と交換するダイヤのため、8分ほど停まるようだ。次なる撮影地は大内山から少し梅ヶ谷寄りに移動したところにある大カーブ。アウトからでもインからでも撮ることが出来るが、DD51の「凸」感を出すべくインカーブからの撮影を試みる。まずは南紀、次に貨物。今回は光線は完璧である。まぶしい朝日の中、DD51は朱色を煌めかせてカーブを駆け抜けてゆく。普段目の当たりにすることのないその鮮やかな姿には鳥肌が立つといっても過言ではない。

「まとまった休みの取れるうちに、悔いのない鉄道撮影をしておくこと」を教訓として拝受。編成はどこからどこまで入るといったような、撮影地に関する経験則的なアドバイスをもらうばかりか、最後は大内山の駅まで送って頂き、大変お世話になった。何より、同じ列車を2回撮れることの喜び。とくに後半の大内山のカーブは感無量であった。ありがとうございました。

熊野古道馬越峠
朝の撮影を終え、尾鷲へ向かう。昼間は熊野古道の馬越(まごせ)峠ルートを歩くことにする。水と食料を調達し、駅から歩くこと30分あまり。港にほど近い北川橋を渡ったところから馬越峠の道は始まる。始めは墓地や住宅地の中、舗装された道路を延々と登っていくのみであるが、途中から登山道に入る。不規則に敷かれた石畳の道が荘厳なヒノキ林の中に続いていて、ひたすらに山を登っていく。林の中は薄暗く、無数の石は昨晩の雨がまだ乾き切らないためかつやつやと黒光りしている。一見すると石は無言で並んでいるようにも見えるが、その一つ一つに長い歴史があり、先代の多くの旅人もこの石畳を踏みしめて往来していたのかと思いを馳せれば不思議な気分になるのだ。

上り坂はなかなかきつい。気がつけばすぐに耳がつまるということは、ぐいぐいと高度を稼いでいるということだろう。峠にたどり着いたのは登り始めてから1時間あまり経った10時40分頃であった。標高にして325m。少し開けた広場と石碑があるが、眺望はあまり得られない。かつてここには馬越茶屋という茶屋があり、明治の中頃まで多くの巡礼者や旅人をもてなしたそうだ。木立の合間からわずかに尾鷲市街を俯瞰する。石碑には桃乙の句が彫ってあった:

「夜は花の上に音あり山の水」

石碑の裏側には、峠から尾根づたいに東方の天狗倉(てんぐら)山へ登る山道が続いている。予定通り天狗倉山頂を目指す。道は簡素な階段が整備されているとはいえ相当な急勾配。ひたすら登り続けること25分ほど、ようやく山頂に到着である。標高522m。ここには巨大な岩が鎮座していて、腰かけながら昼食をとる。吹き抜ける風が汗を乾かしてゆき、快い達成感に浸る。眼下には尾鷲の街が展開し、まるで鳥になったかのような気分である。港湾の街は海と山に囲まれ、紀勢本線を下った大曽根浦近くの沿岸部には火力発電所も見える。熊野灘を見渡せば、濃緑色の半島が淡い青色の海に突き出していて、遠くには小島も浮かんでいる。空は少しどんよりしているが、やわらかい日差しが時おり降り注ぐ。

天狗倉山を降りた後は、峠を相賀方面へ下ってゆく。ここも風情ある石畳の道が続き、ファインダー越しに林の中を撮っていると時の経つのを忘れる。15分ほど下ったところで、左手からやってくる林道との十字路に至る。ここを右に曲がって林道に入り、しばらく歩いたところに相賀の町と紀勢本線を大俯瞰する撮影地があるらしい。そういうわけでひたすら歩き続けるが、つづら折りの上り坂がきつくなるばかりで一向に景色が開けない。おまけにある所から先は工事中とのことで立入が出来なくなってしまった。鉄道を撮りに来たと言うと、工事関係者の方が「こりゃ看板立てとかないかんなあ」と笑いながら、この道ではなくひとつ下の道を東進したところが撮影地だと教えてくれた。この道は今年になって造り始めた新しい道路らしい。下の道、と言われても今一つピンとこなかったが、今まで登って来た道を引き返してみると、最初に訪れた駐車場のような広場の奥からもう一本の林道が奥に続いているのを発見。結局、上り坂の方に目が行ってしまい、勝手に決め込んで間違った道を歩いていたことになる。本当は3003Dと328Cを撮る予定だったのだが、残念ながらもう通過してしまった。もっと聡明な観察力を養いたい。ようやく撮影地にたどり着いたのは13時10分頃。もっと天気がすっきりしていれば景色が冴えわたるのだろが、それでもリアス式海岸に抱かれた町の俯瞰は心が晴れ晴れする。3006Dを撮影して帰路についた。

ひたすら石畳を下っていき、国道42号線にぶつかったのは14時50分頃。ここからは国道を相賀駅まで歩き、駅に着いたのは15時20分頃。それにしても歩き回ってくたびれた。待合室で列車を待っていると急に大雨が降り出した。この雨のせいなのか、ダイヤは少し乱れている。南紀5号が遅れて通過した後、普通列車が10分遅れでやって来た。

二木島
今日の締めは二木島(にぎしま)である。奥まった穏やかな入り江に小さな漁港があり、辺りにはのどかな夕刻の時間が流れている。2088レと336Cをここで撮影する。2088レは漁港の風景を絡めて桟橋から、336Cは二木島の集落全体を俯瞰して高台にある国道の311号線の陸橋からとらえてみた。やがて太陽は山かげに姿を隠してゆき、空気は暖色とも寒色ともつかないような色に包まれ始める。夜の帳が下り始める前、黄昏の入口、この時間帯はいつも情緒的である。

二木島の付近には曽根次郎坂、太郎坂という熊野古道が残っている。紀勢本線は一つ手前の賀田(かた)から二木島に至るまで、曽根トンネルで半島の付け根を一直線に横断するが、国道と古道はその上をまたぐ形で峠を越える。昔は、二木島湾を境に志摩国と紀伊国が分かれていたらしい。穏やかな湾は風待港として帆船で賑わい、また二木島は交易の盛んな漁港や商港としてもとくに栄え、周辺とは異なった独特の文化を形成していたという。今となっては、ただただ穏やかな時間が流れるのみである。

勝浦へ
17時42分発の新宮行で二木島を去る。あっという間に日は暮れてしまい、終着の新宮に着く頃にはすっかり夜になってしまった。新宮から先はJR西日本管轄の電化区間となる。ホームには水色の105系電車が待っていた。今宵の宿、紀伊勝浦に着いたのは19時半を回った頃。駅前は既にひっそりと静まり返っていた。

夕食は、ホテル近くの「ますだや」でマグロとクジラを堪能する。一日の終わりに美味しい食事、まさしく至福の時間である。

写真
1枚目:大カーブを駆け抜ける(@大内山~梅ヶ谷)
2枚目:石畳の熊野古道、右に写るは一里塚
3枚目:二木島の港を横目に(@二木島~賀田)

4413文字
南紀旅行 1日目
南紀旅行 1日目
南紀旅行 1日目
今夏は紀勢本線を攻略する。
8/21
小田原031 → 名古屋521
東海道本線9391M 快速ムーンライトながら クハ189-509

名古屋540 → 亀山657
関西本線4303M クモハ313-1302

亀山700 → 多気808
紀勢本線3913D キハ11-2

3914C・3915D・5951D・3001D・3916Cなど撮影

多気943 → 新鹿1233
紀勢本線329C キハ11-112

3003D・3005D・330C・8004D・334C・2088レ撮影

波田須1647 → 紀伊長島1805(+12)
紀勢本線336C キハ11-304

紀伊長島泊
旅館 浜千鳥

雨の朝
早朝の名古屋に降り立ってみればしとしとと雨が降っている。空は薄青色、空気は肌寒い。予報では紀伊半島の天気は今日明日となかなかすぐれないようである。真っ青な海を撮りに来たというのに、これでは景色が一面鉛色に沈みそうで何とも残念だ。憂鬱な気分のまま関西本線の普通列車に乗り込む。終着の亀山では3分の接続で伊勢市行の列車に乗り換え、ひとまず多気まで向かった。

紀勢本線の旅
多気では新宮行の発車までずいぶんと時間があるので、すぐ近くの櫛田川の橋梁へ行って土手から数本の列車を撮影。いつ降り出してもおかしくない空模様ではあるが、早朝の雨はいつの間にか止んでいる。曇天なので冴えた感じは出ないものの、水鏡に映る単行列車は絵になる。

9時43分発の新宮行に乗り、紀勢本線を下る。しばらくは志摩半島の付け根を横断する形で列車は山間部を縫うように走る。ムーンライトながらの中ではさほど寝ていなかったためロングシートでうつらうつらしていたが、三瀬谷を過ぎ、伊勢柏崎を発車したあたりから日差しが出てきて目が覚めた。見上げれば、低く立ちこめていた雲にところどころ切れ間ができている。雨の予報ではあったが、この調子で行けばそう悪くもなさそうだ。梅ヶ谷を出ると列車は荷坂峠を下る。数々のトンネルが連続し、ルートはぐにゃぐにゃと湾曲する。時おり車窓にのぞく景色からは、列車が深い山懐に抱かれながら走っていることが窺い知れる。やがて、左手に熊野灘が広がる。ここは紀勢本線が初めて海と対面する長島の町だ。港湾を基幹とする小さな町で、造船所もある。紀伊長島では30分以上の長停。駅前をぶらついてみたが、とくに何もない。この列車はこの先の熊野市でも30分以上停車するので、始発の多気から終着の新宮まで4時間近くかかるダイヤとなっている。

尾鷲を過ぎてしばらく経った。この辺りの海岸線は複雑なリアス式の様相を呈していて、紀勢本線は半島の付け根をトンネルで横断するように走り、半島に挟まれた湾内に駅をもつ。湾内には小さな集落があり、その各々を鉄道が結んでいる形になる。国道はおおむね鉄道よりも高い海抜の山間部を走り、その途中でそれぞれの湾内に向かって降りる道が分岐しているという様子である。交通網が発達する以前は海路が重要な交通手段であったらしい。地形は陸路でのアプローチを阻むほど急峻であり、そもそもこれらの各集落は港湾を中心に栄えてきた経緯がある。

熊野灘
新鹿(あたしか)という駅で降りる。沿岸部には美しい砂浜が弓状に広がり、海水浴場にもなっている。新鹿湾は遠浅の海で、山の方から俯瞰すると、エメラルドグリーンに近い青色の海が、白砂の海岸線と深緑の半島によって見事に輪郭されている。国道と町の中心部は沿岸にあり、とくに川が流れる駅南東の甫本地区においては、山から海岸へ至るまでの斜面に棚田が展開している。

下り南紀を棚田から撮影し、この列車と熊野市で交換してやってくる上り南紀は農園より押さえる。いずれの場所も背景に新鹿の海が写り込む。およそ40分後の上り普通は、棚田と海を俯瞰する形で別の場所から撮影。2両編成でちょこちょこと走る普通列車は実に絵になる。キハ11の0番台と300番台の混結のため、白色と銀色の対比もでこぼこな感じがして面白い。懸念された天気であるが、快晴とまではいかないものの、薄い雲を透かして鈍い日差しが景色の全体にまんべんなく降り注いでいる。あと少し海の色が出ればもはや言うことはなかった。

海岸に出てしばらく所在ない時間を過ごした後、波田須(はだす)方面に向かって歩く。新鹿を出た紀勢本線はトンネルに入りほぼ一直線に波田須を目指すが、国道311号線は高度を稼ぎながらその南方を大きく回り込んでゆく。徒歩であればトンネルのポータル近くから山道に入ることができて、ここを登れば迂回してきた国道にショートカットできる。その後しばらく国道を歩けば、やがて左手に景色が開け、波田須の集落やその背後の熊野灘を俯瞰する所に至る。徐福茶屋という喫茶店のテラスから海をバックに紀勢本線を見下ろすことができるので、まもなくやって来る上りの臨時南紀はここで撮影した。茶屋のすぐそばには集落へと下ってゆくつづら折りの坂道がある(サルの親子が出たのには驚いた)。ぽつぽつと家屋が点在する小規模な集落である。少し時間があるので、徐福の宮という神社に立ち寄った。大きなクスノキが小高い塚に鎮座している。どこまでが史実で、どこからが後世の伝説なのか定かではないが、以下のような説明があった:
【徐福伝説】
秦の始皇帝の命により、徐福は蓬莱山にあるといわれる不老不死の伷薬を求めて、500艘の船団を組み、東方に向かって船出した。途中台風に遭い、徐福の船だけがこの地、矢賀(やいか)の郷に訪れ着いた。当時そこには3軒の家しかなく、与八、文吉、三郎兵衛が交代で世話をした。帰国を断念した徐福は紀州への永住を決意し、やがて窯を設け、焼物を3人に教えたという。今も残る窯所、窯屋敷という地名はこのことを伝えている。この他、徐福は土木、農耕、捕鯨、医薬などの中国文明を里人に教えたといわれている。このことから、この地は秦住(はたす)と呼ばれ、後に波田須という地名になったという。

波田須駅の方に向かって歩いて行くと、今月のコンパス時刻表の表紙にもなっている有名な撮影地にたどり着く。線路を見下ろしながら、背景には海とリアス式海岸の一角がのぞく。ここで上り普通と下り南紀を押さえるつもりだったが、普通は定刻で通過したものの、隣の新鹿で普通と交換して来るはずの南紀はいつまで待っても現れない。それどころか、上り貨物の2088レが定刻でやって来てしまった。貨物は先ほどの徐福茶屋に引き返して撮る予定だったから少し予定が狂う。ダイヤが乱れているのだろうか。

紀伊長島へ
なんとかもっていた天気だが、ちょうど撮影の終わった頃に雨が降り出して来たので、駅へ急ぐ。くねくねとした不規則な道を海に向かって下ると、ごくごく小さな単式ホームの波田須駅が姿を現す。案内によれば、この付近の山中には熊野古道が残っているらしい。まもなくやって来た上り普通で今宵の宿、紀伊長島へ向かう。トンネルを抜ければすぐに新鹿。昼間てくてくと歩いてきた道のりも鉄道ではあっという間である。紀伊長島を目前にした三野瀬ではしばらくの停車。どうやら、来なかった南紀5号が2時間以上遅れて走っているためその交換待ちらしい。関西本線内の雨の影響という。単線ではダイヤの乱れが一気に波及する。

紀伊長島に着いたのは18時を回った頃。すでに辺りは暗くなり始めていた。駅から歩くこと20分、途中で猛烈な雨が降り出してずいぶんと苦労したが、「浜千鳥」という旅館に到着。美味しい刺身と魚料理で今日の一日が報われた。風呂に入ってゆったりと回想に浸る。

写真(@新鹿~波田須)
1枚目:棚田と新鹿湾
2枚目:普通列車がゆく
3枚目:熊野灘を背に

3530文字

解剖明け

2011年7月22日 鉄道と旅行
解剖明け
解剖明け
解剖明け
夏解も終わったことなので、一週間遅れで今日から夏休み。解剖実習は思っている以上に体力を削がれるもので、勉強をしようにも毎晩寝落ちするという生活であった。

一気に暇になり、久々にカメラを携えて外出。起床が正午だったので、ピアノを弾いてから午後の田園都市線へ。人の多い撮影地はどうも気が進まないから、マイナーな二子新地の下り線へ。時刻表がなく運番が分からないが、来たのを適当に撮っていく。たまたま現れた珍編成は青帯の8637F。この他にも8500系が次々とやってくるので楽しい。折角沿線に住んでいてほぼ毎日乗るわけだから、長津田検車区の全編成をコンプリートするという試みも面白いかもしれない。

まあコンプリートのやり方にも色々あるだろう。定点撮影地をいくつか決めてまともな編成写真を揃えていくのか、それとも普段から適当に携帯のカメラで撮ったりしながら全編成が揃うのを待つのか。いずれにせよなかなかの時間がかかりそうである。今までに撮りためたのを整理することから始めねば。

夕方は信濃町に赴いて40射、夜はひと月ぶりに荒木町へ。ミント・ジュレップ、ブルー・ムーン、ANTIQUARY 12年。

写真
1枚目:8637F@二子新地
2枚目:8634F@二子新地
3枚目:四谷荒木町車力門通り

547文字
フランス・イタリア旅行 10日目
完結。
3/23
大阪・関空(KIX)1200 → 東京・羽田(HND)1300
スターフライヤー航空22便(SFJ292)

帰京
シャルル=ド=ゴール空港で「OSAKA KANSAI」の文字を見たときはほっとしたものだが、これから東京まで戻らねばならない。全日空とスターフライヤーの羽田行コードシェア便に空きがあった。この費用は、後日領収証を送ればエールフランスが負担してくれるらしい。黒塗りの機体はかなり小さく、機内は列車内とさほど変わらない狭さである。見渡すと満席。航行時間は1時間足らずで、うとうとしている間に羽田に着いてしまった。

靴を脱いで自宅に上がると、何やら不思議な気分である。10日間の旅行、ここに完結。

写真:関空にて

426文字
フランス・イタリア旅行 9日目
フランス・イタリア旅行 9日目
フランス・イタリア旅行 9日目
さらば。
3/22 → 3/23
パリ・シャルル=ド=ゴール(CDG)1340(GMT+1)
→ 大阪・関空(KIX)910(GMT+9)

エールフランス航空292便(AF292)

復路
ターミナル2Eに到着。まだ出発案内板には成田行AF276の表示はない。早く来すぎた感もあるので、しばし漫然と過ごす。ところが、13時40分発の関空行AF292は既に表示されているにもかかわらず、13時30分発のAF276は一向に現れる気配がない。それどころか、10時台あたりの表示に「TOKYO NARITA LAST CALL」の文字が見える。時刻も便名も書かれていないが何やら不穏な感じなので訊いてみると、何とAF276は東日本大震災の関係で10時50分発に変更になったという。空港にはだいぶ余裕をもって着いていたから出発時刻まではあと20分ほどあったが、荷物扱いは既に終了していてもう手遅れ。

幸い、13時40分発の関空行AF292に空席があり、この便に振り替えることができた。大阪に着くとは難儀な話だが、このさい日本に帰れれば何でも良い。アムステルダム(Amsterdam)まで飛べば成田行に乗り継げるという提案もされたが、これはさすがに却下である。

航行は順調。地球の自転と同じ方向に飛ぶので、あっという間に夜がやってくる。雲上より眺める黄昏の光景というのも独特。昼夜のバランスがそれなりに取れているので、圧倒的に復路の方が往路よりも身体的に楽である。航空機は淡路島を見下ろしながら高度を落としていき、泉佐野の関空に無事着陸。最後に日本人クルーが「この関空便のクルーはみな志願して乗ってきてくれた人たちで、私にとってみれば同僚というよりも同志です。私たちはこの路線を確保するために最大限の努力をいたします」と異様な放送を行った。

当初のAF276はソウル経由に変更になったために出発が早まったらしい。エールフランスのクルーはソウルで降り、成田には入らない方針のようだ。原発事故以来、フランス大使館は在日フランス人の国外退去をいち早く指示してきた。首都圏の放射能汚染を懸念してのことと思われる。したがって、「できれば日本には行きたくないが、大阪ならギリギリ行っても良い」という発想が「志願」という言葉に表れている。日本路線の確保も危ぶまれているのだろうか。たしかに、クルーがみな拒否したり、入国禁止の方針が打ち出されたりすればフライトは成立しない。現に、成田便は半分成立していないようなもので、何とも複雑な気分である。

写真
1枚目:空港
2枚目:黄昏
3枚目:日の出

1199文字
フランス・イタリア旅行 8日目
フランス・イタリア旅行 8日目
フランス・イタリア旅行 8日目
パリ鉄道駅巡り。
3/21
Tuileries → Gare de Lyon
メトロ【1】号線

リヨン駅(Gare de Lyon)
オーステルリッツ駅(Gare d’Austerlitz)探訪

Gare d’Austerlitz → Republique
メトロ【5】号線

Republique → Père Lachaise
メトロ【3】号線

ペール=ラシェーズ(Père Lachaise)墓地散策

Père Lachaise → La Chapelle
メトロ【2】号線

パリ北駅(Gare du Nord)
パリ東駅(Gare de l’Est)探訪

Gare de l’Est → Opéra
メトロ【7】号線

Opéra → St. Lazare
メトロ【3】号線

サン=ラザール駅(Gare St. Lazare)探訪
マドレーヌ(Madeleine)教会、チュイルリー庭園、ルーヴル宮散策

パリ泊
WESTIN PARIS

リヨン駅
今日はパリの鉄道駅を巡る。モンパルナス駅とベルシー駅は初日に訪れたので、残る5駅を反時計回りに探訪する。3日前にリヨン駅から戻るときはメトロ14号線から1号線にシャトレで乗り換えるという無駄なことをしてしまったが、実はチュイルリーから1号線で一本。リヨン駅は主として南仏方面のTGVが続々と発着するターミナル駅で、広大な建屋の下、頭端式ホームがずらりと並び、コンコースはたくさんの乗客で賑わう。高い天窓から差し込む日光が構内を明るく包み込み、TGVの銀色の車体は鈍く輝いている。さまざまな行先の長距離列車が出発案内板を埋め尽くし、同時に到着案内板にも多くの列車が表示される。日本では上野駅の地下ホームや阪急梅田駅などがターミナル駅の格好をしているが、それらとはまるで比較にならないほどの規模である。

オーステルリッツ駅
リヨン駅を出てシャルル=ド=ゴール橋からセーヌ左岸に渡ると、オーステルリッツ駅が見えてくる。リヨン駅に比べるとずいぶんとひっそりした駅で、発着する列車の本数も圧倒的に少ないからか構内は閑散としている。それでも、高い天井の建屋に覆われて長いホームが並ぶ様にはやはりターミナル駅の風情が感じられる。遅い朝の時間帯、ちょうど一段落した頃だろうか、回送列車が発車していく他は目立った動きはない。ぬるく緩慢な空気が漂っていて心地が良い。

ペール=ラシェーズ墓地
鉄道駅巡りの合間にペール=ラシェーズ墓地を訪れる。オーステルリッツ駅からメトロを乗り継いで到着。ここには数多くの著名人が眠る。敷地はなかなか広大で、あまり時間もないことなので、とりあえずショパンの墓だけ訪れて帰ることにする。辿り着くのにやや手間取ったが、意外にも質素な白い墓で、不思議と周りの景色に溶け込んでいる。墓前には多くの花束が置かれていて、おそらく尽きることはないのだろう。パリにて客死、39歳。いわゆる天才というのは不幸にして薄命である。せっかくなのでショパンを聴きながらショパンの墓参りをしよう。

墓地なので華やいだ雰囲気は感じられないが、白昼の日差しを受けて黙り込むような姿を見せる緑と石畳が美しい。マクロレンズを装着して花などを撮影。墓地はまるで市街地の中に放り込まれたカプセルのようで、その内部で濃密な異空間が完結している。秋の夕方などに訪れると、もっと面白いかもしれない。何だか『木枯らし』が聞こえてきそうである。

パリ北駅
再び駅巡りに戻る。次なる探訪は北駅で、英仏海峡を渡るユーロスター、ベルギー・オランダ方面のタリスなどが数多く発着する。国際列車のターミナル駅といえる。ユーロスターは入国審査を乗車前に済ませておく必要があるようで、ホームはガラスで仕切られていた。これまでのどのターミナル駅よりも構内は広く開放的で、おそらく建屋自体は古いのだろうが、ホームやコンコースなどは現代風に洗練されたデザインとなっている。

大勢の群衆が行き交い、案内板を見つめる。人々はカフェで軽食をとったり、座りながら列車を待ったり、駅員にものを尋ねたりなどしていて、少し観察するだけでも実にさまざまな表情と個々の日常があちこちに散らばっているのが分かる。それが駅というもの。ダイヤは日々変わらないかもしれないが、今この一瞬の人々の動き、表情、思い、そういったものは少なくとも集合的な形では二度と再現されない。再現されないのは、ひとえに見えないからである。別々の方向に走る無数の糸が乱雑に交差しながら、一瞬ごとに織り重なっていく。一度重なり見えなくなってしまったら、たとえ一つ前の瞬間のものであっても交差のパターンを思い出すことはできない。それと同じことではないか。しかしながら、糸が織り重なって形作られる厚みは「歴史」と呼ばれ、歴史は無数の「見えない記憶」に支えられている。そして、今も絶えることなく糸が織り重なっているのである。

駅前の「Hippopotamus」というステーキのチェーン店で遅い昼食をとる。値段のわりに美味い。北駅のファサードは「大聖堂」と称されるのも頷ける壮大な外観、堂々たる姿で、とても鉄道駅とは思えない。

パリ東駅
北駅から徒歩数分で東駅に至る。建屋がないせいか、先ほどの北駅とはずいぶんと異なった雰囲気。北駅ほどの人の賑わいはなく、ややひっそりとした雰囲気や昼下がりに漂う緩慢な空気は、午前中に訪れたオーステルリッツ駅を彷彿させる。TGVの他、ドイツ新幹線ICEも停まっていた。ちょうど列車の発着がない時間帯なのか、長距離列車のホームに人影はない。右手奥では近郊列車が発着しているようである。北駅に比べるとコンコースは質素な感じだが、入口からコンコースに至るまでの待合所はなかなか風格のある一空間となっている。外へ出てみると、東駅の駅舎もなかなか壮麗であった。

サン=ラザール駅
パリ最古の駅といわれる。残念ながら正面入口は完全に工事中で、新宿駅構内のような光景であった。主に近郊路線の列車が発着する駅で、頭端式ホームがコンコースに直角ではなく斜めに突き刺さっているのが趣深い。建屋の壁に掲げられた大きな時計、逆光にギラリと輝く車体、群衆の黒い影。思い描いていた異国のターミナル駅像とおおむね重なるが、それを目の前にしてみるとやはり感慨深い。テロをずいぶんと警戒しているのか、機関銃を携えた兵士が巡回している。東駅ではとくに何も言われなかったものの何やら今回は話しかけられて、フランス語で訳が分からなかったが、どうやら写真撮影をやめるよう言っているらしい。厳しい世情である。

散策
帰りはマドレーヌ広場、コンコルド広場、チュイルリー庭園、カルーゼル(Carrousel)庭園、ルーヴル宮を通って夕刻のパリを散策。結局、美術館を回る時間はなかったが、あと数日余裕があれば訪れたいところだった。パリ最後の夜はモリエール(Molière)通りの「Au Gourmand」にて夕食と相成った。

写真
1枚目:パリ北駅
2枚目:パリ東駅にて
3枚目:サン=ラザール駅にて

3457文字
フランス・イタリア旅行 7日目
フランス・イタリア旅行 7日目
フランス・イタリア旅行 7日目
パリ散策。
3/20
シャンゼリゼ(Champs Elysées)大通り散策
凱旋門観光

George Ⅴ → Châtelet
メトロ【1】号線

Châtelet → Cité
メトロ【4】号線

ノートルダム大聖堂観光
サン=ルイ島散策

Châtelet → Opéra
メトロ【7】号線

オペラ座近辺散策
パリ夜景撮影

パリ泊
WESTIN PARIS

シャンゼリゼ大通り
9時頃に宿を出発し、リヴォリ(Rivoli)通りを西進してコンコルド(Concorde)広場へ。広場の東側にはチュイルリー(Tuileries)庭園が広がり、ジョギングなどする人影が逆光に映える。西側にはシャンゼリゼ大通りが2km先の凱旋門まで一直線に伸び、コンコルド広場のオベリスクが凱旋門と対峙している。空は花曇りといったところで、排気ガスのせいもあるだろうか、遠くの凱旋門はいくばくか霞んで見える。シャンゼリゼ大通りをのんびりと散策。セーヌ河の対岸にアンヴァリッド(Invalides)を覗くエリゼ(Élysée)宮、プチ=パレ(Petit Palais)、グラン=パレ(Grand -)の界隈を過ぎ、フランクラン=D=ルーズヴェルト(Franklin. D. Roosevelt)大通りと交差した辺りから、道は緩い上り坂に転じ、数多くのカフェや店が軒を連ねるようになる。片側4車線の車道の交通量は多く、後ろを振り返ると、逆光に霞むコンコルド広場から凱旋門のあるシャルル=ド=ゴール広場に至るまで、緑や赤に点灯する無数の信号灯が大通りの中央に整列している。大通りの南側、マルブフ(Marbeuf)通りとの一角にある「Alsace」というカフェに入る。

凱旋門
遠くから近づくにつれて壮大な白亜の門の全容が徐々に顕わになり、凱旋門が意外と大きいことに気付かされる。地下道をくぐって凱旋門の下に出ると一無名戦士の墓があり、門の内側を見上げればびっしりと文字が刻まれている。外側の壁面に彫られた彫刻も壮観。入場券を買い、門の内部に組み込まれた長い螺旋階段を登りつめると、資料展示室に至る。そこからさらに階段を上がると凱旋門の屋上に到達。シャルル=ド=ゴール広場から放射状に伸びる12本の街路と、灰色の霞に包まれたパリ市街を一望することができる。東には先刻まで歩いてきたシャンゼリゼ大通り、その向こう側にはコンコルド広場、さらに奥にはチュイルリー庭園とルーヴル(Louvre)宮を見渡す。パリの中核である。北東にはモンマルトル(Montmartre)の丘、南東にはエッフェル(Eiffel)塔が見える。西側の眺めはいくぶんか異なる趣で、再開発された都市の様相を呈している。

シャンゼリゼ大通りの「Le Deauville」という店で昼食。カシャッサのカクテル、カイピリーニャが爽快。午後はシテ島へ向かった。

ノートルダム大聖堂
日曜日ということもあってか大混雑で、聖堂の中もがやがやとしている。パリの年間観光客数は8000万人ともいわれ、昨日のサント=シャペルもそうだったが、もはや完全な定番観光地となり、教会本来の静謐な雰囲気はあまり感じられない。やはり、初日のシャルトルの暗さ、静けさ、不気味さが今になって深い味わいを帯びてきたように思う。ただ、石造りの建築に目をやるとやはり驚嘆するものがあり、回廊を取り囲むステンドグラスや、13世紀の輝きを残すバラ窓など、宗教文化の美しい産物にレンズを向けていると飽きることがない。それにしても、宗教がこれほどまでに人を国を動かし、思想と文化の礎を形作り、長い歴史を染め上げてきたのを目の当たりにすると、何やら異様な感じがするのも事実である。

夕刻
セーヌ河に浮かぶもう一つの島、サン=ルイ島に向かう。大聖堂の裏手からサン=ルイ橋にかけては賑やかな雰囲気が漂い、クレープを食べる人々やカフェで談笑する人々、ストリートパフォーマンスに見入る群衆など、週末の午後のさまざまな表情を見る思いである。ここも俗化している感は否めないが、これはこれで楽しい。ルイ=フィリップ(Louis Phillippe)橋を渡ってセーヌ右岸に戻る。「Bistrot Marguerite」という店で休憩。

そうこうしているうちに日没も近くなってきた。シャトレまで河岸を歩き、メトロ7号線でオペラ座方面に向かう。セーヌ右岸を東京で例えるなら、やはりオペラ座近辺は新宿や渋谷、シャンゼリゼ大通りは表参道や六本木、ヴァンドーム・コンコルド・チュイルリー界隈は丸の内や銀座、といった感じか。オペラ広場は雑然としているが、その近辺は食べる場所には事欠かない。少し路地を入ると落ち着いた雰囲気になり、各国料理の飲食店街や小さいホテルが幾つか立ち並んでいたりする。「北海道」というラーメン屋があったので入ってみると、初日の「サッポロラーメン」とは比較にならないほど美味かった。そろそろ黄昏が近い。

夜景
せっかく三脚も持ってきたことなので、夜景撮影を行うことにする。夜の帳が下りたコンコルド広場は昼間とは全く違った表情を見せる。シャンゼリゼ大通りを走る車列、ライトアップされた凱旋門、エッフェル塔、ブルボン(Bourbon)宮など、見渡す限り光の絵が辺り一面に散らばっている。自動車の尾灯と前照灯はシャンゼリゼ大通りに敷かれた二色の絨毯のようで、無数の信号灯がそこに彩りを添え、背後にそびえる凱旋門は圧倒的な存在感を示している。エッフェル塔は正時になると白い煌めきに包まれる演出が行われ、金属的でくすんだ日中のイメージがまるで嘘のよう。後ろを振り返ると、閉ざされたチュイルリー庭園に満月が昇ろうとしていた。その奥には薄暗いながらもルーヴル宮が浮かび上がる。3月20日、パリの夜。

写真
1枚目:凱旋門
2枚目:ノートルダム大聖堂
3枚目:黄昏のコンコルド広場

2774文字
フランス・イタリア旅行 6日目
フランス・イタリア旅行 6日目
フランス・イタリア旅行 6日目
オペラ座とシテ島。
3/19
オペラ座近辺散策

Opéra → Châtelet
メトロ【7】号線

コンシェルジュリー(Conciergerie)
サント=シャペル(Sainte Chapelle)観光

Châtelet → Opéra
メトロ【7】号線

バレエ観劇

パリ泊
WESTIN PARIS

午前中
フランスとイタリアの鉄道周遊で疲れがたまったためか、午前中の活動性がどうも低い一日となった。宿を出たのは10時頃で、オペラ座界隈のカプシーヌ(Capucines)通りをウロウロ歩き、カフェ(店名失念)へ。その後、今夜のバレエ公演のチケットを買おうとオペラ座に入ったが、散々並ばされた挙句、「今売ってるのは午後の公演分で、夜のは13時から発売だからそれまで待て」と言われる。仕方ないのでカプシーヌ通りに戻り、昼食。「中華飯店」という中華料理屋に入る。そういえば昨晩もオペラ座近くの「金太郎」という店で生姜焼定食を食べたが、ずいぶんとこういう類の味が恋しくなってしまった。パン、バター、チーズ、ピザ・・・確かに日本で食べるものよりもはるかに美味しかったのだが、毎日毎日となると話は別で、とてもではないが一週間も続かない。昼食後、再度オペラ座のチケット売り場へ赴く。「Coppélia」というバレエでそこそこ有名らしい。当日券は8ユーロの安い席しか売ってくれないそうで、「Scène non visible」と印字されている。さすがに舞台が何も見えないということはないと思うが、雰囲気だけで別に構わないのでオペラ座の入場料と思えば損はない。

コンシェルジュリー
午後はシテ(Cité)島に向かった。シャトレ(Châtelet)でメトロを降り、シャンジュ(Change)橋を渡って島に入る。隣のサン=ルイ(St. Louis)島とともに、セーヌ(Seine)河に浮かぶ小島である。まずはコンシェルジュリーへ。行政機関、議会、裁判所、牢獄などさまざまな変遷を経た建造物で、見学コースは牢獄の歴史を中心に構成されている。書記官の書斎、処刑前の支度部屋、囚人の廊下など、過酷な牢獄生活や恐怖政治期のギロチン処刑を彷彿させるものが人形付きで随所に公開されていて、マリー=アントワネットの独房も再現されていた。建物に囲まれた中庭にある「12人の一角」は、12人ごとに分けられた処刑者が処刑台へ連れて行かれるための二輪荷車を待った場所だという。何とも凄惨で血なまぐさい歴史である。

サント=シャペル
入場券は隣にあるサント=シャペルとセットになっている。しかしながらこちらは入口まで長蛇の列で、入るまでに40分以上はかかっただろうか。この異様な混雑はひとえに荷物検査によるもので、人数を区切って空港並みの厳しい検査を行っているからだった。教会でテロが起こる可能性でもあるのかと思いきや、サント=シャペルが裁判所の敷地内にあるというのが厳重警備の理由。裁判所は「正義の殿堂」と呼ばれ、フランス法曹界の中枢である。

ここは上層礼拝堂のステンドグラスが圧巻で、旧約・新約聖書の物語全1134場面が描かれているそうである。礼拝堂を取り巻く壁全面が長大なステンドグラスに覆われていて、万華鏡の中にさまよいこんだかのよう。その美しさに言葉を失う。観光客が多く、何より全面から光が差し込んで来るので、シャルトルのノートルダム大聖堂のような不気味な静けさや暗さは感じられないが、重厚な宝石のような華やかさである。西側にはやはりバラ窓があり、最後の審判の場面が中央に描かれていた。ステンドグラスをアップにして切り撮っていると、時の経つのを忘れる。

オペラ座
「碧玉臺」という店で夕食をとった後、オペラ座の20時からのバレエ公演に向かう。ライトアップされた壮麗なファサードもさることながら、内装も豪華絢爛建築の極致といったところで、高い吹き抜けの天井、大理石の大階段、装飾を尽くした大広間、客席の天井画など、こういう装飾なり建築なりは一部分だけだとどうしても陳腐に見えてしまうが、ここまで全体を通して徹底しているともはや別格の境地に達している。なるほど、これはフランスの誇りであって、音楽と文化の殿堂というのも頷ける。

指定された客席は3階で、舞台の脇から見下ろすような場所であった。円形の回廊から個室に入り、それぞれのブースに6席ほど椅子が置かれている。二列目なので舞台の左五分の二が見える程度だが、これでも十分だろう。下方にはオーケストラボックスがあり、劇場内は満席で皆がひしめいている。音楽はすばらしい。ワルツの軽快なリズム。バレエの方は、さすがに舞台が左半分しか見えないので筋がよく分からなかったが、見たところ、どうやら人形が人間みたいに動き回って恋愛沙汰も絡む話らしい(後で調べたら大体そんな感じで合ってたww)。幕間には大勢の人が休憩に繰り出し、シャンパンなどを飲む。あらゆる点においてまるっきりの異国文化を味わう夜であった。

ラ=ペ(La Paix)通りとヴァンドーム広場を経て宿に戻る。

写真
1枚目:コンシェルジュリー(憲兵の間)
2枚目:サント=シャペル(上層礼拝堂)
3枚目:オペラ座客席

2422文字
フランス・イタリア旅行 5日目
フランス・イタリア旅行 5日目
フランス・イタリア旅行 5日目
コート=ダジュールを行く。
3/18
Hôtel de Ville 835 → Col de Villefranche 850
Lignes d’azur 【80】系統

Col de Villefranche 924 → Eze Village 930
Lignes d’azur 【112】系統

エズ(Eze)観光

Eze Village 1240 → Gare SNCF Eze 1258
Lignes d’Azur 【83】系統

Eze sur Mer 1322 → Cannes 1419
TER 86186

Cannes 1456 → Toulon 1612
TER 17486

Toulon 1619 → Paris Gare de Lyon 2011
TGV 6156

Gare de Lyon → Châtelet
メトロ【14】号線

Châtelet → Tuileries
メトロ【1】号線

パリ泊
WESTIN PARIS

海岸線を見下ろす
ヴィルフランシュ=シュル=メールの朝はすがすがしい。半島の向こう側に沸き立った雲海から、朝日が姿を現す。湾内は暖かな逆光に包まれ、山腹にへばりついた石畳の町は黄色く輝き始める。今日も晴れ。この辺りは一年を通してほとんど雨が降らないのではなかろうか。

湾岸地区に向かって少し下ったところにあるバス停へ向かう。やって来たバスはかなり小さく、既に車内は結構込んでいた。なるほど、崖上の幹線道路からヴィルフランシュの港へ向かう道路はつづら折りになっているから、小回りが利く車でないと走れないようである。それでも途中で切り返す場面があった。道が狭く一方通行の場所も多々あり、町自体も独特の不規則な構造をしているため、運転は相当慣れていないと無理かもしれない。乗換のため、コル=ド=ヴィルフランシュ(Col de Villefranche)というバス停で降りる。ここは、港へ向かう道路が幹線道路から分岐する賑やかな交差点である。

下調べによれば9時6分発のバスが来るはずだったが何故か現れず、結局半時間以上待って9時24分発のバスに乗ることになった。崖上の幹線道路を行く別系統のバスでエズ村に向かう。バスはずいぶんと高い場所を走っていて、窓から見下ろす海岸線は絶景。半島に区切られた小さな入り江にはヴィルフランシュの町があり、赤い屋根の建物が階段状に港を取り囲んでいる。あの建物の合間を石畳の路地が縦横無尽に走り、しかもつい先ほどまであそこに居たのかと思うと不思議な気分。朝日に映える小さな港町は実に美しい眺めである。谷に架かった大きな陸橋を渡れば、エズに到着。

エズ
ここは断崖絶壁にそびえ立つ城塞の村で、海抜は400mを超える。石垣に囲われた小さな町には商店や飲食店が立ち並び、ところどころ建物が切れたところには地中海が眼下に展開する。ヴィルフランシュ=シュル=メールと同じような造りの中世の町並がよく残っていて、不規則に走り交差する路地はまるで迷路のよう。色々撮り歩きながら頂上の方へ上がっていく。町並自体は美しいが、人々の生活感はあまりなく、観光化・俗化している感も否めない。そういえば観光案内所も建てられていたし、しかもそこのチップ式トイレの入り口に「有料だからお金が要る」旨が日本語で書かれていたのには驚いた。エズはヴィルフランシュ=シュル=メールとは違い、崖上を走る幹線道路にすぐ面した立地なので観光化が進んだのかもしれない。一方のヴィルフランシュは急峻な地形と複雑な道路構成が俗化を阻んでいるともいえる。

頂上の城は熱帯植物園になっていて、サボテンやリュウゼツランなどの熱帯植物が地中海を見ながら育っている。ここから見下ろす海岸線の眺めは何とも壮大で、まるで鳥になった気分である。浜辺には鉄道が東西に走り、せり出した半島をトンネルで貫いている。半島の向こう側の入り江はヴィルフランシュ=シュル=メールで、そのさらに向こう側の半島を越えるとニースに至るという地理である。海岸線から急に立ち上がる山に抱かれて町が展開し、道路が走っているのも何条か見える。海は紺碧だが、浅瀬はエメラルドグリーンに光り、正午近くのトップライトを受けて鮮やかに景色を彩っている。優しい白波が規則的に海岸に押し寄せ、灰色の砂浜を縁取っている。水平線はややおぼろげだが、晴れた夏の日などは空と海のコントラストがより一層はっきりするのかもしれない。

植物園から城塞の入り口まで戻る途中、「Le Cactus」というカフェでクレープ=サレ(crêpe salée)を食べる。軽食とはいえピザと似たようなものでなかなか食べ応えがある。日なたは暑いが日陰は涼しく、風が心地よく吹き抜ける。湿度の低い気候はさぞ暮らしやすいことだろう。

中世の町を去り、崖下の国鉄エズ駅まで向かうべくエズ=ヴィラージュ(Eze Village)のバス停からこれまた別系統のバスに乗る。運賃は1ユーロと格安。往路では乗換を行ったが、これも1ユーロの通し運賃。実はバスではなく徒歩で下る「ニーチェの小径」というルートもあったのだが、時間もかかってくたびれそうなのでバスを選んだ。バスはほぼ貸切状態で、途中で1人だけ地元住民が乗降していった。つづら折りの坂道を猛スピードで駆け降りるので、景色は相変わらず素晴らしいが、気圧変化と回転加速度が重なってなかなかつらい。

コート=ダジュール
13時22分発の普通列車に乗り、ここからは列車を乗り継いで遥かパリを目指す。2駅でヴィルフランシュ=シュル=メール。その景色に別れを告げ、さらに2駅進むとニース。ニース近辺は完全な市街地が続き、かなりゴミゴミした様相を呈している。大がかりな施設や建物が立ち並び、便利には便利そうだが、残念ながら落ち着いた雰囲気は全く感じられない。少しすると、列車は道路を挟んで砂浜に沿うように走る。シーズンになるとこの辺りはきっと凄まじい賑わいを見せるのだろう。

乗り継ぐのはニース始発マルセイユ(Marseille)行の列車なのでニースで降りても良かったのだが、カンヌまでのんびりと乗ってみる。カンヌは映画祭で名高いが、駅前は雑然としていた。やがて入線してきたマルセイユ行は客車列車で、TERの列車種別ではあるものの車内はJRの特急並み。1等車のシックな内装もまた良い。列車は全ての駅に停車するわけではなく、小駅は猛然と通過してゆく。サン=ラファエル(St. Raphaël)までは引き続きコート=ダジュールを走る。これまでと少し違うのは、海岸線が赤土の岩になってきたこと。しかるに陸海空三者のコントラストが絶妙で、車窓を眺めているだけでも飽きない。サン=ラファエルから先は半島の付け根を横断するため列車は内陸へ入る。車内には午後の緩慢な空気が水飴のようにゆったりと対流している。車掌が回って来た。車内で切符を買い求める人が意外にも多い。こちらの鉄道駅には改札口というものは存在しないので、切符を買わずしても乗れる。検札時に切符を持っていないと罰金を払わされるそうだが、常に検札が来るとも限らないので、毎回律義に切符を買うのがばからしくなるのかもしれない。途中、カルヌール(Carnoules)という駅で貨物列車とすれ違った。鉄道撮影も面白そうな地域である。

パリへ
トゥーロン(Toulon)で列車を降り、7分の接続でパリ行のTGVに乗る。列車は巨大な2階建車両で編成されていて、大陸スケールを改めて感じさせられる。1等車は1+2列の座席配置。長時間乗っていてもそれほど疲れない。途中までは在来線を走るためスピードは先ほどのTERとあまり変わらないが、マルセイユから先はTGVの専用線に入る。パリまでの停車駅はエクサンプロヴァンスTGV(Aix en Provence TGV)のみ。これはTGVの専用線上につくられた駅で、新幹線で例えるなら新神戸や東広島といったところか。ホームには大勢の乗客が待っていて、ここでほぼ車内は満席になった。車窓は単調で、列車は荒涼たる平原の中を一直線に疾走する。だんだんと日が暮れてきて、ついに真っ暗になってしまった。フランスは農業大国でもあり、大都市を少し離れると北海道のような風景が広がっている。町の灯りは時々見える程度で、辺りの様子は何も分からない。

リヨン駅(Gare de Lyon)には定刻に到着。ターミナル駅の広大な空間を人の群れがうごめく。夜のパリは雨。地下鉄で宿へ向かった。

写真
1枚目:エズ村の町並
2枚目:頂上からの眺め
3枚目:紺碧海岸の車窓

4047文字
フランス・イタリア旅行 4日目
フランス・イタリア旅行 4日目
フランス・イタリア旅行 4日目
地中海沿岸を鉄道旅行、静かなる港町へ。
3/17
Firenze Santa Maria Novella 653 → Pisa Centrale 806
R 3105

Pisa Centrale 900 → Genova Piazza Principe 1108
ESC 9762

Genova Piazza Principe 1255 → Ventimiglia 1507
IC 742

Ventimiglia 1517 → Villefranche sur Mer 1558
TER 86000

ヴィルフランシュ=シュル=メール(Villefranche-sur-Mer)観光

ヴィルフランシュ=シュル=メール泊
HOTEL PROVANÇAL


昨日到着時に確認したところによれば、手元のThomas Cookと駅掲示の時刻表が結構違っていたので、駅掲示の方を信じて早めに出発。また、イタリア国鉄は平気で大幅遅延する可能性があるので、念のためピサ(Pisa)での乗換時間は1時間近く取っておく。結局、6時半に宿を出ることに。雨の中、駅へ向かう。特急列車や新幹線はコンコース正面の頭端式ホームに停まるが、近郊路線の列車は左手奥のホームから発車する。ヨーロッパに来て思うのは、鉄道用地が広いということ。軌間、車両、駅・・・全てが大陸スケールである。標準軌の線路が広大な土地に何条も敷かれているのを見ると、日本の狭軌の線路がだいぶ貧弱に思えてしまう。

ピサへ
6時53分発のオルベテッロ(Orbetello)行に乗り込む。JRで言えば高崎線や宇都宮線の中距離電車に相当する列車だが、停車駅はわりと少ない。後ほど調達したイタリア国内の時刻表を見ると、各列車の停車駅のパターンは何種類かあるものの快速や急行といったような種別は設定されず、みなR(レッジョナーレ)という区分でひとくくりにされている。

列車は客車列車。先頭には電気機関車が連結されている。日本ではブルートレインくらいでしか目にする機会がなくなった上、そのブルートレインですら片手で数えられるまでに減ってしまった今や、客車列車が当たり前のように走り回っているのはかなり新鮮な感覚。車窓が整然と並ぶさま、機関車の後ろ側方からの眺め・・・客車列車はホームに佇んでいるだけでもどういうわけか絵になる。ただ、ヨーロッパでは動力集中方式が主流であるというだけの話で、別に古いものが未だに残っているという話ではない。最後尾の客車にはやはり運転台が設置されていて、折り返す時はここから後方の機関車を遠隔制御するというプッシュプル運転である。そういえばシャルトルからの帰りもプッシュプルであった。近郊路線の列車によく見られるように思う。

客車といえども、ブルートレインでよくある引き出し時の振動と金属音は全くなく、船が滑り出すようにスムーズに発車する。きびきびした加減速も電車と遜色ない。おそらくは連結部分に隙間がなく、車両間の緩衝器が振動を和らげていて、またそもそも機関車の性能が高いものと思われる。動力集中方式の長い歴史の中で培われてきた技術なりノウハウなりもあるのではないか。普通列車とはいえスピードはかなり出ている。しかし、走行はどっかりと安定していて乗り心地も良い。ただ、イタリア国鉄全般に言えることだが車両は落書きだらけで汚く、1等車でさえモケットが薄汚れている。それでいて検札に来た車掌は端正な感じであった。フィレンツェからピサまでは80kmあまり。沿線の人口密度や風景は平野部の北陸本線に似ている。

地中海沿岸を行く
普通に定時で走ってくれたので、乗換時間は予定通り54分。雨は上がったが、空は陰鬱な曇天。朝の駅前は少し殺伐としている。軽食を済ませてホームに向かうとすでに多くの人が列車を待っていた。ジェノヴァ(Genova)行の発車は9時ちょうどだが、これと同時刻にローマ行の特急も向かい側のホームから発車するらしい。いずれの列車も種別はESC(ユーロスターシティ)で、通常のIC(インターシティ)よりも上位の都市間特急列車という扱いになっている。やがて入って来た列車も当然ながら客車列車で、機関車はなかなか新型に見えた。先ほどの近郊列車とは違って、高速対応の特急牽引機といったところか。客車の方もそれなりに新しい。車体はイタリア国鉄標準塗装と思われる白と緑ではなくグレーを基調にまとめられていて、そこに車窓がずらりと並ぶ。かなりの両数をつないだ長大編成で、実に見栄えが良い。

1等車の車内は1+2列のオープンサロンタイプで、座席はかなりどっかりとしている。広いテーブルもついていて実に快適。明るい化粧板や間接照明などのデザインを見る限り、相当新しい車両と思われる。さすがにこの列車では車内放送があり、いかにも優等列車といった風。しばらくは単調な車窓が続いたが、ラ=スペツィア(La Spezia)を過ぎると突如トンネルだらけの区間に入り、時おり、トンネルの明かり区間で地中海が車窓一面に広がる。海岸の黒い岩肌に白波が押し寄せては砕ける様子はまるで日本海のようである。入り江ごとに駅と町と教会があり、細切れにトンネルが続く。沿線風景は室蘭本線の洞爺~長万部間によく似ているかもしれない。天気がぱっとしないのが残念。

ジェノヴァ=ピアッツァ=プリンシペ(Genova Piazza Principe)駅には定刻に到着。意外と時刻表通りに走るので驚く。ともすれば昨朝のアルテシアの遅延は何かしらの事故があってのことかもしれない。駅前はかなり雑然としていて、幹線道路とバスターミナルの向こう側にすぐに港がある。山の方を見上げれば街が段々になって展開しているが、海岸の近辺はガラスの割れている店や、柄の悪そうな男が大勢たむろしている喫茶店があったりして、治安は悪そうに見える。乗換時間は十分にあるので「CHINA HOUSE」という中華料理屋で昼食。これまでの食事に比べると凄まじく安かったが、普通に美味しかった。こういう味が懐かしい。

売店でイタリア国内の時刻表を買ってホームに向かうと、既にヴェンティミリア(Ventimiglia)行のICは入線していた。機関車は先ほどのESCと同じ形式だが、客車の方は少し古く、内装をリニューアルしているように見受けられた。やはり長編成の客車列車なので貫録がある。1等車は側廊方式の6人コンパートメントで構成され、通路からはガラス窓で緩く仕切られている。コンパートメントは満席で、乗り合わせた乗客は皆が思い思いの時間を過ごす。ヨーロッパの特急列車は座席の列が並ぶオープンサロンタイプに移行していると聞くが、少なくともイタリアのICは昔ながらのコンパートメントタイプが主流。そういえば、映画に出てきたホグワーツ特急はコンパートメント車両だった。

列車はこまめに停車していき、それぞれの駅で一定の乗降がある。速達性というよりはむしろ日々の移動に密着した特急列車といった感じで、沿線の町々を結んでいる。トイレが垂れ流し式(便器から線路が見える)で「停車中と駅付近走行中は使用禁止」と書かれていたのにはたまげたが、この列車の洗練されていない旧式な雰囲気もまた良い。フランス国境が近くなると列車は海岸線に沿って走るようになる。空模様も回復してきた。終着が近付くにつれて乗客がぱらぱらと降りて行く。どの町ものどかな海岸沿いにあり、午後の眠い日差しを受けて鈍く輝いている。イタリア国内を走るのもあとわずかとなった。

コート=ダジュール(Côte d’Azur)へ
ヴェンティミリア(フランス名はヴァンティミーユ;Vintimille)はフランスとの国境駅で、イタリア国鉄の管轄だがフランス国鉄(SNCF)の車両も出入りする。反対側のホームに停車していたのはICに接続するカンヌ(Cannes)行の普通列車で、シャルトルへ行った時と同じフランス国鉄の新型電車であった。ヴェンティミリアから先、ニースやカンヌまでのコート=ダジュールには頻繁に普通列車が走っていて便利である。

国境を越えてフランスに入ると、紺碧海岸の名にふさわしい車窓が展開。幸いにも午後から晴れてきて、海の輝きがまぶしい。車内も快適で申し分ない。半島で仕切られた入り江ごとに町があり、湾内では海岸線に沿って線路が敷かれ、半島はトンネルで貫かれている。そこをのんびりと普通列車が走る。ヴェンティミリアから40分ほどでヴィルフランシュ=シュル=メールに到着。ニース(Nice)まであと2駅というところだが、ニースからは一つ半島を隔てた東側の入り江で、情緒豊かな港町の風情が感じられる。駅は小さな浜辺を軽く見下ろすようにトンネルの明かり区間に設置され、海岸線に沿ってホームも緩やかにカーブしている。山側を見ると崖上遥かに幹線道路が走り、その海抜から港に至るまで、ヴィルフランシュの町が山腹にへばりついている。

ヴィルフランシュ=シュル=メール
港には多くのヨットが停泊していて、穏やかな波に揺られている。駅の出口からは崖上へ登る道、町並の中へ入る道、湾岸へ下る道などが出ているが、町並を散策して宿に向かうことにする。黄色やオレンジ色の南仏らしい建物が立ち並び、その間を石畳の路地が走る。町は階段状になっていて、港から崖上に向かっては石段の道が何条ものびる。その光景は先日訪れた尾道の街に通じるものがあって面白い。交差点には小さい広場があり、右手を見ればレストランやアパートが軒を連ね、左手を見れば建物の合間から海をのぞくことができる。教会もすぐそこにあるようだ。「都市計画」「バリアフリー」といった言葉からは程遠い町で、おそらく道路構成は中世からさほど変わっていない。中には、この町最古の門や13世紀の薄暗い町並も残されていた。自動車が入れるのは湾岸の道路と、崖上からつづら折りになって下りてくる道路だけで、その他の小さな路地は歩いてしか入れない。石畳をずっと歩いて行くと道路との交差点に至り、ここからヴィルフランシュの湾を見下ろすことができる。レストランは湾岸地区に集中しているようで、そろそろ夕食の準備といったところだろうか。町はかなり小ぢんまりとした構成で、がやがやした喧騒や、大がかりな商業施設もない。静かな午後の時間が過ぎるのみである。

宿に荷物を置き、「Le Calypso」という海沿いのレストランに入る。東の空にはすでに月が昇っていて、黄昏の寒色に染まった海面に蒼白い月光を投げかけている。月光は波に揺られて散り散りに煌めき、輝く砂粒の如く波間を漂う。桟橋にはオレンジ色の灯りがともり、宵闇に沈みゆく港町が静かに光り始めた。規則的な灯りの列が対岸を滑っていると思ったら、駅を発車した列車が湾岸を走っているのであった。海岸通りに軒を連ねる店にはネオンサインが光り、道路は黄色い街灯に照らし出されている。停泊しているヨットは昼間とはまるで違う表情を見せ、白い船体は海面に浮かび上がり、マストは漆黒の夜空に突き刺さるかのようである。

最後に、昼間通った町並をもう一度散策して宿に戻った。

写真
1枚目:ジェノヴァ到着
2枚目:国境駅ヴェンティミリアにて
3枚目:ヴィルフランシュ=シュル=メールの眺め

5028文字
フランス・イタリア旅行 3日目
フランス・イタリア旅行 3日目
フランス・イタリア旅行 3日目
花の都、フィレンツェ。
3/15 → 3/16
Paris Bercy 1854 → Firenze Santa Maria Novella 823(+70)
EN 217 Trainhotel Artesia "PALATINO"

3/16
フィレンツェ(Firenze)観光

フィレンツェ泊
GRAND HOTEL MINERVA

イタリアへ
目覚めると5時半、車窓はまだ真っ暗だが空はわずかに青みを帯びてきた。どうやら雨が降っているようだ。やがて駅に停車。ホームを見渡すとピアセンツァ(Piacenza)とある。定刻では4時44分に到着しているはずなので、1時間近く遅れていることになる。JRなら緊急の放送が入るところだが、とくに何の案内もない。そもそも、車内放送自体がない。

だんだんと明るくなってきた。ピアセンツァを出た列車はパルマ(Parma)、ボローニャ(Bologna)と停車してゆく。そろそろ7時前である。もう日の出の時刻は過ぎただろうか。駅に近付くと近郊電車の姿も目立つようになり、疲れた表情の客がちらほら乗り込んでいる。車両は落書きだらけで汚い。依然、空は雨模様。夜行列車で迎える雨の朝・・・記憶をたどると、高3の9月にはやぶさで門司まで行ったときのことが思い出される。あの時も雨で、しっとりと濡れた憂鬱な山陽路であった。

ボローニャ~フィレンツェ間は山岳線区で、トンネルもかなり多い。線路際まで山が迫る様子や、沿線の植生などが日本とよく似ている。建物の見かけさえ無視すれば上越線とか伯備線とか言われてもおかしくないような気もする。在来線とはいえ列車はかなり飛ばす。さすがは特急列車、120~130は出ているのではなかろうか。標準軌の安定感をここに見る。結局、フィレンツェには70分遅れで到着した。最初から最後まで車内放送はなし。遅延を知らせたり詫びたりすることもなく、車掌は何食わぬ顔。イタリアの鉄道はなかなかテキトーである。

パリから一夜明け、フィレンツェ。

フィレンツェ
荷物を預けてから観光に向かう。本降りの雨なので傘を差しながらカメラを構えるしかないが、雨が少し降るだけでたった1枚の写真を撮るのにもひどく苦労することになる。こういう時は圧倒的にカード型のコンパクトデジカメの方が機動性が高く便利である。しかし折角来たのだから、今日は一眼レフを持って根性で乗り切ろう。サンタ=マリア=ノヴェッラ(Santa Maria Novella)広場は気のせいか小便臭かった。石畳はとにかく水はけが悪い。

フィレンツェは今日だけの観光なので、残念ながら美術館まで回っている余裕がない。とりあえず有名どころを押さえる。まずはドゥオーモ(Duomo)へ向かったが、雨にもかかわらず夥しい数の観光客が傘を差して入口に行列を作っていた。だいぶ込んでいる様子だったのでドゥオーモは諦め、ジョット(Giotto)の鐘楼に登ることにする。それにしてもよくぞここまでの建築を石で造ったものだと思う。ふと観察すると細部の装飾まで凝っていて、ただただ感服する。木の文化に慣れ親しんだ身にとっては極めて異質な眺め、感触、そして香りである。鐘楼の高さは85mあるようで、長い石段を登りつめると最上部に到達し、フィレンツェの町並を一望することができる。赤褐色の屋根が延々と連なる光景は何とも壮観で、建物の間には石畳の路地が縫うように入り組んで走っている。西側には駅も見える。東側のすぐそばにはドゥオーモのクーポラ(Cupola)がどっかりと居座り、なかなかの重量感を醸し出している。傘の群れが濡れた石畳の上をさまよい、やがて散り散りになって路地に吸い込まれてゆく。束の間、雲の切れ間から日が差し込み、赤い町並が一層の輝きを見せた。

鐘楼を降りてからはシニョーリア(Signoria)広場を通って町を南下し、ヴェッキオ(Vecchio)橋に向かう。アルノ(Arno)川に架かるこのフィレンツェ最古の橋の両脇には古い宝飾店が軒を連ねていて、ここもやはり観光客で賑わっている。たしかにフィレンツェの土産物はどれも洗練されていて、ちょっとしたものにもイタリア的なセンスの良さを感じる。帰りがけ、ポルタ=ロッサ(Porta Rossa)通りにある「IL PAPIRO」という店でペンを買った。ここは紙の専門店で、伝統的な模様紙をペン軸に巻いてある。自分は文房具に関しては全くの素人だが、仮にそういうのが好きであれば面白くて仕方がない町かもしれない。オフシーズンであろうはずなのに観光客はかなり多いが、露骨な観光化が行われているわけではなく、古い伝統を美しい形のまま今に伝えているという印象である。今回は旅程の都合で一日しか観光できないのが何とも残念。

ヴェッキオ橋の近くにある「Antico Fattore」というトラットリアで遅めの昼食をとる。客は概ね地元民だが、フランスから観光に来たという老人も居た。パスタやスープなどを頼んだが、どれも美味しい。店員もみな陽気で、いかにもといった感じの明るいイタリア人である。フィレンツェ観光は国際夜行列車アルテシアの副産物的な要素が強かったが、次回来ることがあれば是非イタリアをメインに旅程を組んでみたいものである。

シニョーリア広場でアイスクリームを食べ、町を散策。日が暮れてくると観光客の賑わいもだんだんと落ち着いてきて、石畳の町はもう一つの冷たい表情を見せ始める。黄昏や夜の不気味さは昨日のシャルトルに通じるものがあり、歴史を背負った重みが冷たく心にのしかかってくるかのようである。夜行明けで動き回ったため、この晩はすぐに眠りに落ちてしまった。

写真
1枚目:鐘楼とドゥオーモ
2枚目:フィレンツェの町並
3枚目:ヴェッキオ橋の宝飾店街

2559文字
フランス・イタリア旅行 2日目
フランス・イタリア旅行 2日目
フランス・イタリア旅行 2日目
国際夜行列車に乗る。
3/15
Concorde → Montparnasse Bienvenüe
メトロ【12】号線

Paris Montparnasse 1033 → Chartres 1134
TER 16805

シャルトル(Chartres)観光

Chartres 1557 → Paris Montparnasse 1704
TER 862542

Montparnasse Bienvenüe → Bercy
メトロ【6】号線

3/15 → 3/16
Paris Bercy 1854 → Firenze Santa Maria Novella 823(+70)
EN 217 Trainhotel Artesia "PALATINO"


モンパルナス(Montparnasse)駅に向かう。パリの地下鉄は市内移動には重宝するものの、設備はだいぶ雑然としていて、地下通路はタイル張りの坑道といった風である。客層も良いとはいえず、気を抜いていたらあっさりと荷物を引ったくられそうな険悪な空気がそこら中に充満している。夜間は犯罪も多発するという。モンパルナスはターミナル駅の一つだが、開放的な高いドームに覆われているわけではなく、整然と並んだ頭端式ホームにコンクリートの無機質な柱が林立し、のしかかる駅ビルを支えている。ホームは暗いが湿った感じはなく、停まっているTGVの銀色が硬質で冷たい雰囲気を添えている。朝食はコンコース手前の喫茶店で食べたが、鳩の糞だらけで気が滅入る。こんな環境でも結構賑わっているのだから驚く。

シャルトル
1等ユーレイルパスのヴァリデーションを済ませ、モンパルナスからTER(都市間普通列車)に乗り、シャルトルへ向かう。見る限り新型の電車で、比較的最近に開発された車両のようだ。日本と比べると車両のサイズがかなり大きく、2階建の設計でも全く窮屈な感じがない。また、普通列車といえどもかなりスピードを出す。110は軽く出ているように見える。標準軌だと高速走行をしても安定なのだろう。20分も走れば車窓は市街地から一転、のどかな穀倉地帯に変わる。一言で表せば「車窓の奥行きが深い」といったところで、建物がまばらで一面に緑の広がるさまは、まるで北海道の車窓のようだ。シャルトルまでの道のりは88km、それを1時間で行くというのだから、やはりなかなか速い。

ノートルダム(Notre Dame)大聖堂に向かう。ファサードの西のバラ窓は残念ながら改修中で見栄えがしなかったが、それでも壮観な建築である。聖堂内に入ると、驚くほど暗く、そして静かである。北のバラ窓は旧約聖書、南のバラ窓は新約聖書の世界を表しているらしく、いずれも神秘的に美しい。南側歩廊の青い聖母の窓には「シャルトル・ブルー」と称される清冽な青のステンドグラスがはめ込まれている。キリスト教に関するそれなりの知識があればステンドグラスの鑑賞も一層面白くなるのかもしれないが、ステンドグラスは美しいと同時に不気味とも感じられる。黒ずんだ石造りの建築、蝋燭の炎、取り憑かれたように祈る人々・・・聖堂内のさまざまな光景と相まって、この異様な空間に一種の恐ろしささえ覚える。

聖堂の裏手に回ると眼前にシャルトルの町並が広がる。中世から大きく変わることはなく、ウール(Eure)川を中心に町が発展してきたという。昼下がりの河畔をのんびりと散策。川に面した「Le Moulin de Ponceau」という店にて遅い昼食をとる。日差しは暖かく、実に良い。駅へ戻る頃になると日は少し西に傾き始め、大聖堂の尖塔が逆光の空に突き刺さっていた。パリ近郊で手軽に来れる町である。

帰りの列車は客車列車であった。機関車はシャルトル方に連結されていたがとくに機回しなどはせず、パリ方先頭客車についている運転台で最後尾の機関車を遠隔制御するプッシュプル方式での運転らしい。つまり後押し運転になるわけで力学的に不安定になるのではないかとも思われるが、走りは至って安定していて、相変わらず110~120と思われる速度での快走である。

国際夜行列車アルテシア
メトロでベルシー(Bercy)駅まで移動する。リヨン(Lyon)駅にほぼ隣接するこの駅は貨物駅として機能している他、おそらくはリヨン駅だけでは捌き切れない列車の発着拠点となっている。ホームには別個に屋根があり、全体をドームで覆われてはいない。貨物駅と言われればたしかに納得できる、質素な造りのターミナル駅である。国際夜行列車アルテシア(Artesia)はここから遥かローマ(Roma)に向けて出発する。個室寝台券を持っていれば2階のサロンに入れるので、ここで時間をつぶす。1階の待合室は、大きなスーツケースを空けて中身を整理したり、座り込んで仲間と談笑したりする外国人学生の団体旅行と思われる人々であふれ返っていた。鉄道旅行もなかなかの人気なのだろう。

日も暮れて、入線してきた列車はかなりの長編成である。15両ほどはつないでいただろうか。後方にクシェット(簡易寝台車)、中間に食堂車、前方に個室寝台車という壮大な編成である。ホームの高さがほとんどないので、車両に乗り込むには3段ほどステップを上らねばならないのはいかにもヨーロッパらしい。客車はイタリア国鉄の所有でそこそこ傷んでいるように見えたが、内装はかなり綺麗。個室寝台には洗面台も備わっていて、JRのA寝台個室に相当する設備といえる。

音もなく列車はベルシー駅を発車する。フィレンツェ(Firenze)までは1100kmあまりの長旅である。程なくして車掌が検札に来て、パスポートと寝台券を回収していった。この列車は深夜にスイスを経由してイタリアに入るルートを取るので、おそらく形式的なものではあるのかもしれないが、その際の手続きは車掌が代行してくれる。陸路で国境を、しかも夜行列車で越えるとは、なかなか新鮮な体験。目覚めれば異邦の地である。食堂車の予約を取ったので、行ってみる。途中で凄まじい急停車があったのが良くなかったが、料理は概ね美味い。ワインも開けて夜行列車の宵を愉しむ。部屋に戻って車掌を呼ぶと、寝台をセットしてくれた。二車両あたり一人の車掌が居るようで、パスポート・寝台券の管理や寝台のセットなどを担当しているらしい。かつては日本でも、数多くの車掌補が乗り込んで寝台をセットする光景が見られたという。「鉄道の本場・ヨーロッパ」を身を以って体感する、そんな夜である。

写真
1枚目:ノートルダム大聖堂
2枚目:北のバラ窓
3枚目:ローマ行アルテシア

3066文字
フランス・イタリア旅行 1日目
フランス・イタリア旅行 1日目
フランス・イタリア旅行 1日目
異国へ。
3/14
東京・成田(NRT)1255(GMT+9)
→ パリ・シャルル=ド=ゴール(CDG)1655(GMT+1)

エールフランス航空275便(AF275)

パリ(Paris)泊
WESIN PARIS

往路
離陸。しかし、水素爆発した原発の映像がどうも頭にこびりついたままである。そんな不安をよそに飛行機は西に針路をとり、遥かパリを目指す。地球の自転に逆らって飛ぶので、一向に日は暮れない。パリとの時差は8時間、航行時間は12時間である。日本の航空会社と違って、どうもクルーには統一感がなくばらばらしているが、案外こんなものなのかもしれない。

食事は2回。映画を観たり、眠ったりしていると、何だかんだで12時間はあっという間に過ぎる。パリに着いたのは現地時間の夕方、日本時間の深夜であるから、どうもおかしな感覚である。シャルル=ド=ゴール(Charles de Gaulle)は大空港で、ずいぶんと歩かされた。空港からはタクシーにてパリ市街へ入る。この頃になるとすっかりと日が暮れてしまった。


オペラ座近くのドヌー(Daunou)通りにある「サッポロラーメン」という店でラーメンを食する。フランス人の味覚に合わせているのかだいぶ薄味で、しかも麺が伸び気味であるからあまり美味いとはいえない。食後はヴァンドーム(Vendôme)広場などを撮りつつ部屋に戻った。極めて異質な石造りの文化、というのが第一印象である。

写真
1枚目:旅立ち
2枚目:WESTIN PARIS
3枚目:夜のヴァンドーム広場

810文字
中国旅行 後篇
中国旅行 後篇
中国旅行 後篇
銀の郷を訪ねる。
3/8
三次547 → 江津931
三江線422D キハ120 357

江津935 → 仁万1009
山陰本線344D キハ120 319

仁万駅前1030 → 大森代官所跡1052
石見交通バス 島根22き1575

石見銀山観光

大森代官所跡1610 → 仁万駅前1625
石見交通バス 島根22き1575

仁万1707 → 出雲市1818
山陰本線332D キハ47 1054

3/8 → 3/9
出雲市1855 → 東京708
山陰本線・伯備線・山陽本線・東海道本線4032M・5032M
特急サンライズ出雲 モハネ285-3201

三江線
漆黒の夜空を背景に、冷たいみぞれが降りしきる。ナトリウムランプの光が、濡れた路面を橙色に照らし出す。昨夜に24時間営業を確認しておいたマクドナルドのドライブスルーだが、ガス点検のため6時以前では飲み物しか出さないという。駅前にはコンビニも見当たらず、ついに食料を確保できなかった。凍える思いで始発の三江線に乗り込む。

乗客は我々二人だけ。真っ暗だった車窓も、しばらくするとうすぼんやり明るくなってきた。列車は江の川に沿って走っていて、夕べわずかに降ったためか、対岸の集落や山はうっすらと雪化粧している。まるで水墨画のようなモノトーンの世界。蒼白で、静謐なる朝。口羽では三次行とすぐさま交換した後、30分近くの停車時間である。浜田鉄道部の運転士氏としばらく談笑する機会があった。始発から乗客のいることが珍しかったのかもしれない。何かしらの縁がそこら中に見え隠れするのも旅行の大きな面白味である。

橋上駅、宇都井で初めて人が乗って来た。その後もこまめに乗客を拾っては、途中駅で降ろしていく。乗っているのは大半が中高生と年配の方々で、20~50代の人々はほとんど見受けられない。このような地域では自動車の方が鉄道よりもはるかに利便性が高いものだから、若年者や高齢者以外はみな車に乗るということだろう。しかしながらこういった車社会の傍ら、三江線は1日4~5本とはいえども地域の足を担い、公共交通機関としての使命を細々と全うしている。

列車はどこまでも江の川と並走する。駅数も徐行区間も多く、のんびりした川下りを楽しんでいるかのようである。景色は至って単調で、時おりうつらうつらしてしまう。赤瓦で葺いた家々の屋根は、西日本の景色を象徴している。終点の江津が近付くと、日本海へ注ぐ河口を遠くに望む。いよいよ山陰へ入った。

石見銀山
接続する出雲市行に乗り、仁万で下車。ここから石見交通のバスで20分ほど揺られると、世界遺産石見銀山の入り口に到着である。バスはずいぶんと山奥へ入っていったが、トンネルをくぐると突如、山懐に抱かれた銀山の町、大森がその姿を現す。往時は世界有数の銀鉱ということでずいぶんと栄えたらしい。採掘された銀は貿易や通商によって巨万の富を造り出し、経済の要となった。

ガイド氏と共に道を上ってゆく。景勝地でもなければ、何か特別面白いものがあるわけでもない。それにもかかわらず世界遺産に指定されているのは、銀山の遺跡と合わせ、この町が栄えた背景や歴史、産業や経済全体をひっくるめて遺産としての複合的な価値が認められたからだという。「説明を受けないと見どころが分からない」という冒頭の話はまさに正論で、丁寧な解説を受けながら町を歩くと理解が深まってゆく。観光客は少なく、落ち着いた往来。同じ世界遺産でも、昨日訪れた宮島とは全く性格を異にしている。

古い町並を抜けてガイド氏と別れた頃、ようやくまともな食事にありつく。町並は帰りにゆっくり撮って回るとして、さらに奥の龍源寺間歩を目指すべく、ここからは自転車を借りて長い坂道に挑む。息を切らして辿り着いた入口はごく簡素なもので、世界遺産というイメージには程遠い。この地区には「間歩」と呼ばれる坑道が600以上残っていて、今も調査が続いているという。唯一公開されているのが龍源寺間歩で、ただのトンネルと言ってしまえばそれまでだが、内壁にはノミの跡が残り、立入禁止とされている多数の横穴も散見される。過酷な鉱山労働の歴史を垣間見る。

間歩を出た後は製錬所跡などを見て回り、町並に戻る。今日は午後から花粉のアレルギー症状がひどい。見渡してみれば辺りはスギ林になっていて、風と共に噴き上がる白煙はみな花粉である。頭頸部の粘膜が黄褐色の悪魔に取り憑かれてしまった。町並は往路のときよりもさらに人が少なくなっていて、南からの柔らかい日差しに照らし出されている。木造家屋のひなびた佇まい、陽光に煌めく瓦葺の屋根、郵便ポスト、どこをファインダーで切り取っても一枚の絵ができあがる。途中の店で焼酎や菓子、銀細工を手に入れる。ぶらぶらと物色するのも楽しい。町自体の規模はかなり小さいのだが、のめり込むとゆうに一日はかかる場所である。

帰路へ
再び仁万に戻る頃にはもう夕方であった。ちょうど焼き芋の販売車が回って来たので頂くことにする。どうやら宮崎からの遠征らしい。先日、新燃岳が爆発して色々苦労されていると聞く。芋は黄金色で、温かく、甘く、腹もちも良い。山陰本線は海岸線に沿って東進する。車窓に大きく映り込んだ日本海の青色は次第に冷たく灰色がかってきて、夜の到来が近いことを告げる。出雲市に到着する頃にはもう日没を迎えた黄昏の空であった。

サンライズ出雲で山陰の地を後にする。ノビノビ座席で焼さば寿司を食べながらの晩酌。思えばあっという間の旅行だったが、ついにパズルは組み上がったのである。だいぶ形の悪いピースもカチャカチャと上手い具合にはまり込み、会心の全貌が浮かび上がった。旅行という非日常は、この充足感をもってフィナーレを迎えるのだ。列車は快調に飛ばし、時空間が急速に変質している。しばらくすれば、何もかもが見慣れた日常に戻る。そんなことを考えながら、長い眠りに落ちた。

写真
1枚目:三江線(@口羽)
2枚目:龍源寺間歩
3枚目:古い町並

2864文字
中国旅行 中篇
中国旅行 中篇
中国旅行 中篇
時空間を共有する、この感覚。
3/7
福山716 → 尾道735
山陽本線335M クハ115-320

尾道観光

尾道1159 → 糸崎1207
山陽本線1735M モハ114-356

糸崎1216 → 宮島口1410
山陽本線351M モハ114-2023

宮島口1425 → 宮島1435
宮島航路133便 みやじま丸

宮島観光

宮島1900 → 宮島口1910
宮島航路52便 みせん丸

宮島口1914 → 広島1944
山陽本線662M クハ111-712

広島2000 → 三次2122
芸備線5878D 快速みよしライナー キハ47-2501

三次泊

月曜日の朝
雨が上がって間もないようだ。しっとりとした空気の7時過ぎの駅前には続々と車が到着し、学生や通勤客が駅へ吸い込まれてゆく。3月7日、月曜日の朝。週末を終えて五日間の平日が始まる、その初日、人はそれぞれ、どこか気だるそうな、あるいは巡ってくる平日は仕方がないと諦めているような、一方では同級生と談笑し始業を心待ちにしているような、さまざまな表情を顔に浮かべていて、我々はその有り様を、日常という名の時空間に放り込まれた、非日常という名の異質なカプセルの中から、ただただ傍観するのみである。

尾道
混雑した電車は20分ほどで尾道に到着した。改札口が狭いため、ホームには人が溢れかえっている。駅前に出ると海はすぐそこで、空を見上げれば薄日もさしている。学生の姿も多い。駅のすぐ東側の踏切で線路を渡り、山側に土堂小学校を見る。校門まではかなりの石段が続いていて、当番と思しき数人の小学生が登校する生徒に挨拶をしていた。石段の脇からは早速坂道が始まっていて、不規則に折れ曲がりながら山腹を登ってゆく。途中からはこの坂道も石段になり、傍らには数軒の家が立ち並ぶ。時おり、駅の方角へ坂道を降りて行く人とすれ違う。ふと後ろを振り返れば、眼下には先ほどの小学校の校庭を見下ろし、その向こうには雑然とした国道沿いの市街地が見え、さらに奥には逆光に煌めく尾道水道の全貌が徐々に顕わになってゆく。

山頂に近付くにつれて坂道は緩やかになり、やがて尾根伝いに平坦な道が続く。福山では陰鬱だった空も、今は柔らかい日差しを放っている。展望台に登ると、尾道の街を一望できた。市街は細長い海岸線の空間にコンパクトに収まり、緩やかな山腹にへばりついているのが分かる。国道2号線と山陽本線は海べりをくねくねと並走。水道を挟んだ対岸は向島で、造船所や工場、頻繁に往来する渡し船などが見える。東の方角には、しまなみ海道のスタートに当たる新尾道大橋の姿が靄の中に浮かび上がる。西にかすかに見えるのは、三原の街だろうか。

文学のこみちを下り、千光寺に至る。逆光にかすむ朝の港町を見下ろしながらのゆったりとしたひと時であるが、学校のチャイムも聞こえる。ちょうど1時間目が終わった頃だろうか。異質な日常の中にぽいと放り込まれたようなこの不思議な感覚は、旅行の醍醐味である。そうした感覚というのは、狭い列車の中では濃密に凝縮され、広い街の中では広範に拡散する。淵の奥深くへと潜るか、大海原を宛てもなく漂流するか。どちらも面白い。

千光寺道、天寧寺坂を下って国道の海抜近くまで戻る。艮神社という尾道最古の神社には、クスノキの大木が鎮座する。その後は東西方向の路地をさまよい歩き、善勝寺、慈観寺、大山寺、西郷寺、浄土寺など数々の古寺を巡る。どの小路も、あからさまには作り込まれていない、自然のままに近い姿を見せる。徒歩でしか出会えない風景というのは実に魅力的である。浄土寺からはバスで駅近くまで引き返し、海岸沿いの店で名物の尾道ラーメンを食してから、尾道を後にすることとなった。是非また訪れたい街である。

宮島
山陽本線の中で祝電が届く。昼下がりの陽光は祝福の日差しである。尾道から宮島口まではおよそ2時間。広島県は東西に広い。宮島口からはフェリーで宮島へ渡った。月曜日にもかかわらず島はなかなかの活況を呈していて、観光客が多い。広島をはじめとする瀬戸内の主要都市から手軽にアクセスできることから、人気が高いのかもしれない。島の雰囲気は悪くないのだが、とくに厳島神社までの道のりなどはだいぶ俗化している感もあった。人を寄せ付けないような荘厳さや重々しさなどは感じられず、良く言えばひろく人々に慕われた神社の島といった印象である。

商店街を散策し、千畳閣や五重塔、宝物館、多宝塔、大聖院などを一通り回る。海岸から遠ざかるほど人の往来は少なくなり、島は閑静な表情を見せる。ふと何かが動いたと思ったら、シカが歩いていたりする。大聖院で鐘をついた後、滝小路を引き返して海岸に戻り、いよいよ神社本殿に入った。既に日は西に傾き、先ほどまでは大勢の人が歩いていた回廊も今はかなり空いている。斜光線に朱色の柱が美しく映える。今は干潮だが、潮が満ちていればさぞ美しいことだろう。干潟を歩けば大鳥居の先まで行くことができ、巨大な鳥居の姿を間近で見られるようになる。

やがて陽光は衰えはじめ、ついに日没を迎えた。いつも思うことだが、溢れゆく青インクの如く、東の空から寒色の闇に包まれていくような黄昏の景色の刻一刻の微小変化、これが何とも絶妙である。やがて大鳥居のライトアップが始まる。闇に沈みゆく広島湾を背に、単純にして壮大な朱色の建築が不気味に浮かび上がる。対岸には街の灯りが点々とちりばめられている。潮が引いていた足元も気がつけばぬかるんでいる。やがて満潮となればあそこの本殿まで潮が押し寄せ、海上の神社というまた別の表情を見せることになるのだろう。本殿もライトアップされるのかと期待を寄せていたが、残念ながらいつまで経ってもその気配がない。フェリーの時刻も迫り、いよいよ底冷えもしてきたことなので、已むなく桟橋まで戻ることになった。さらば、宮島。

三次へ
明日は始発の三江線に乗らねばならない。宮島口の4分乗換で疾走してずいぶんとくたびれたが、予定通り広島20時発のみよしライナーに乗ることができた。車内でかきめしを食する。尾道も宮島もあと一時間ずつ欲しかったところだが、それは贅沢な願いか。到着した三次の街はすでに死んだように静かだった。

写真
1枚目:尾道
2枚目:天寧寺坂
3枚目:厳島神社大鳥居

3068文字
中国旅行 前篇
中国旅行 前篇
中国旅行 前篇
非日常への急速潜航。
3/5 → 3/6
東京2200 → 姫路557(+32)
東海道本線・山陽本線5031M 特急サンライズ瀬戸
モハネ285-3201

3/6
姫路611 → 佐用726
姫新線821D キハ40 2091

佐用826 → 津山924
姫新線2825D キハ120 355

津山観光

津山1245 → 中国勝山1330
姫新線861D キハ120 342

中国勝山1342 → 新見1424
姫新線861D キハ120 353

新見1448 → 井倉1459
伯備線854M クハ115-1403

井倉洞観光

井倉1734 → 新見1745
伯備線857M クモハ115-1501

新見1812 → 備後落合1934
伯備線・芸備線445D キハ120 358

備後落合1935 → 塩町2042
芸備線367D キハ120 322

塩町2043 → 府中2216
福塩線1734D キハ120 21

府中2220 → 福山2301
福塩線280M クモハ105-2

福山泊

旅立ち
東海道本線東京駅といえば、湘南色113系や何本ものブルトレが発着しているというイメージがどうもまだ心の片隅に滓のように残留していて、ステンレス車の大群を目にするのにはとうに慣れたとはいえども、9番線・10番線のプラットホームに降り立ってみるとやはりどこか寂しさを感じてしまう。今宵の旅立ちは、サンライズエクスプレス。今や西へ向かう寝台特急もこの列車だけになってしまった。

美作の国へ
ノビノビ座席の硬質なカーペットのせいで、夜中に何度か目を覚ました。一見順調に走っているように思われたのだが、先行列車のトラブルで半時間ほど遅れているらしい。姫路には32分遅れで到着。定刻では姫新線への乗換時間がかなりあったから、行程に支障はない。佐用までの姫新線はキハ40。先頃の高速化で全列車がキハ122、キハ127に置き換えられたと聞いていたが、どうやら臨時で充当されることもあるらしい。日曜日の朝ということもあってか、佐用の町はまだ盆地の冷気に包まれたままで、まるで死んだような静けさである。食料を調達し、ちょうど1時間後の列車で津山へ向かった。

津山
街は曇っている。駅前で自転車を借り、津山城跡、城西、城東を駆け巡る。時期が時期なので、雪もなければ花もなし。曇天の城下町は陰鬱な鉛色にくすんでいる。茶褐色を基調とした寒々しい光景が目に映るが、しかしどこか春を待っているような気配も感じ取れるような、3月上旬の津山の街である。保存された古い町並というのはどうも人工的な印象が拭えず、それよりかは昭和の町並とか城西の寺町とかの方が手つかずの風情が感じられる。ちょうど雛祭りの最中とあって、作州城東屋敷では雛人形を見ることができた。旅先で風物詩に出会う。

井倉洞
午後の姫新線で新見まで出る。やたらと徐行が多いうえ、この週末は雛祭りの臨時ダイヤということで中国勝山で乗り換えさせられた。新見では24分の接続で伯備線に乗り換え、二駅南下した井倉という駅で降りる。高梁川を挟んだ対岸には、採石場や工場が見受けられ、少し歩けば石灰岩の断崖がそびえ立つ。ここに鍾乳洞があるらしい。冷たい雨の降りしきる午後となったが、まずは駅南側の鉄橋にて3084レを仕留める。牽引機はEF64 67。いわゆるカラシ色の貫通扉をもつ広島色で、EF64の0番台でこの塗装を纏っているのはどうやらこの67号機のみらしいから、なかなか運が良かった。

撮影後、井倉洞に入る。雨の日に鍾乳洞とは、良い選択だったかもしれない。洞内は思いの外のスケールで、地下水の川を上流に向かってひたすら登っていく。とくに洞内滝は圧巻で、よくぞ洞窟内にこれほどまでの地形が生まれたと思う。長らく地下水を浴びてきた鉄の階段には既に炭酸カルシウムの層が沈着していて、ゆくゆくは洞窟内の人工物はみなこれらの石灰石に呑まれゆくのだろう。洞窟に入ったときから薄々と感じてはいたのだが、鍾乳洞はどうも人間の体内に似ている。色々な金属を含んでいるのか、洞内には灰白色以外にも緑白色や赤褐色が目につき、奇妙にして緻密な造形、同じものが何度も反復する構造、独特の湿った質感、すべてにおいて体内の生体組織を彷彿させる。生きた組織が新陳代謝を繰り返すのと同じように、鍾乳洞も人知の及ばない時間をかけて静かにうごいめいている。

17時で閉洞だということで、後ろから来た職員に途中から急かされた。長いトンネルを抜けてようやく外に出ても相変わらずの雨模様である。程なくして井倉洞の関係者は店じまいを終え、みなそれぞれの車に乗って帰って行ってしまった。残された我々は、休業中の店が立ち並ぶ無人のアーケードをただ駅の方へ歩くのみだ。果たしてここは観光地として成り立っているのだろうか。雨音に包まれた、灰色の夕方である。

乗りつぶし
新見に戻り、駅前の食堂で急いで夕食をとる。素朴な親子丼だったが、純粋に美味しい。その後、備後落合行の芸備線に乗る。東城から先の乗客は我々二人だけ。1分の接続で備後落合を出発した三次行も、備後西城からようやく人が乗って来た。新見~備後落合間など典型的な閑散線区で、どう見ても赤字ローカル線の様相である。低規格で路盤が悪いのか、とにかく徐行が多い。塩町で福塩線の最終に乗り換え、今夜は未踏区間の乗りつぶしに徹する。今日の終着地、福山に着いたのは23時を回った頃であった。

写真
1枚目:本源寺より
2枚目:伯備線3084レ(@井倉~方谷)
3枚目:井倉洞

2941文字

山形旅行

2011年2月19日 鉄道と旅行
山形旅行
山形旅行
山形旅行
さすらい氏と山形へ行ってきました。
2/18 → 2/19
上野2115 → 酒田504
東北本線・高崎線・上越線・信越本線・羽越本線2021レ
特急あけぼの オハネフ24 15

2/19
酒田553 → 新庄711
羽越本線・陸羽西線150D キハ111-219

新庄732 → 山形845
奥羽本線1428M クモハ701-5503

山形931 → 寒河江958
奥羽本線・左沢線329D キハ101-4

「古澤酒造」見学

寒河江1239 → 左沢1251
左沢線333D キハ101-4

左沢1257 → 北山形1333
左沢線336D キハ101-4

北山形1339 → 山寺1356
奥羽本線・仙山線3838M 快速 クハE720-18

山寺1544 → 山形1605
仙山線・奥羽本線829M クモハ719-20

山形市内散策
夕食@「酒菜一」

山形2043 → 米沢2130
奥羽本線454M クハ718-5004

米沢泊

2/20
米沢843 → 東京1056
山形新幹線128M・128B つばさ128号 E326-2106

往路
往路はあけぼので。ゴロンとシート。先ほど信濃町のヤウでビールを飲んだ後だったが、発車前にグラス一体型のワインを購入し車内であける。開放B寝台下段で晩酌というのも悪くない。減光後はしばらく車窓を眺め、今夜は満月ということでムーンライト・ソナタを聴く。高崎を出ると上越線に入り、いよいよ山間部へ。運転停車の水上を発車するときは、まるですっと船が滑り出すような感覚。これが機関士の腕前か。日付の変わる少し前に土合を通過。数多の蛍光灯が整列する構内は不気味な神殿か遺跡のよう。長いトンネルを抜けると、吹雪。積もったばかりの雪を蹴散らしながら列車は走る。巻き上げられた雪で車窓は次第に雪化粧。遠くには関越自動車道のナトリウムランプが点々と灯る。時おり、踏切の灯りが目の前に残像を引いて後方へ消し飛んでゆく。

山形へ
酒田であけぼのを降り、陸羽西線と奥羽本線で山形内陸へ入る。陸羽西線の沿線はかなり雪深い。銀世界は、まだ陽の昇り切らない青白い朝の光を、静かに、鈍く反射する。乗り継いだ奥羽本線は地元の高校生で混雑していた。山形に着くと、583系ゲレンデ蔵王が停車中。何枚か写真に収めた後、駅前で朝食をとる。

寒河江
寒河江では古澤酒造という酒蔵の見学を予約していたものの、行ってみると資料館しかやっていないという。仕方ないので見学はこれで済ませ、試飲を行う。どうも空振りだった感が否めないが、純米大吟醸と梅酒をおみやげに買って帰ったのでよしとする。そうこうしていると昼時になり、皿谷食堂というところで中華そばを食する。地元の食堂といった風情で、なかなか賑わっていた。駅へ戻る途中に毎日屋という酒屋があり、ここで「銀嶺月山」の限定醸造酒を買う。東京に出回らない酒とか珍酒・古酒とかがこういう酒屋に眠っているらしい。

左沢線
こういう機会でないと絶対に乗らないと思われるので、左沢を往復して左沢線を乗りつぶす。旅先でちょっとした手間を惜しむかどうかが、後に悔恨の念を抱くかどうかを決める。「どうでも良いと思ったけど、やっぱり撮っとくべきだった」「あそこまで少し足を伸ばしておくべきだった」・・・何も旅行に限らない。ひと手間を惜しまない姿勢が、格の違いというものである。左沢に近づくと急に山岳線区のような様相を呈して少し驚く。眠い午後。

山寺
夜まで時間がだいぶあるので、山寺を訪れることにした。北山形で仙山線に乗り換える。山寺とは芭蕉ゆかりの地、立石寺である。一応冬でも登れると聞いていたので入山したものの、林の中の石段は完全に凍結していて氷の坂。あまりに滑るから手すりの外側の雪山を登ったりしたが、これではまるで登山である。荷物はコインロッカーに預け、足回りもそれなりの装備で来たから良かったものの、適当な心構えで来るとおそらく痛い目に遭う。蝉塚を過ぎてさらに登っていくと、景色が開けて陽が当たるようになる。しかしよくぞこんな岩場に寺を建てたものだ。奥之院まで到達した後、少し引き返して眺望で知られる五大堂へ。ここも軽いアスレチック。眼下には山々に囲まれた集落を一望できる。仙山線の列車を俯瞰撮影し、西に傾き始めた柔らかい日差しを浴びる、そんな午後。下山はとにかく滑り続けたので異様に速かった。ものの10分程度である。

山形の夜
夕刻に山形に戻った。店が開き始めるまでにはまだ少し時間があったので市街を散策したものの、残念ながらこれといったものはなかった。18時より「酒菜一」という店で夕食。「十四代」の特吟、七垂二十貫、それと小国で造っているという「桜川」の純米を頂く。まったくの素人目にも、十四代は確かに美味い。とにかくするすると飲みやすく、とくに嚥下の最中、格調高い味と香りを喉頭蓋あたりに感じる。桜川はぬる燗で。これは気取らない素朴な感じが良かった。この店には山形全域の地酒が用意されていて、また料理もかなり美味い。極めつけは龍月、双虹とのスリーショットか。是非また来たいところである。

相応の出費になったが、満悦して今晩の宿、米沢へ。朝日川酒造のさくらんぼの酒を買い、長々と夜更かしをする、2月の宵。翌朝は午前中の新幹線で帰京。酒を愉しむ旅であった。

写真
1枚目:特急あけぼの@酒田
2枚目:五大堂より仙山線を俯瞰撮影@山寺~面白山高原
3枚目:山形の夜

2887文字
東海・北陸旅行 後篇
東海・北陸旅行 後篇
東海・北陸旅行 後篇
日本的風景の中を。
2/5
高山散策(宮川朝市、東山寺院群)

高山1024 → 美濃太田1305
高山本線1714C キハ48 6807

美濃太田1324 → 多治見1355
太多線3628C キハ11 203

多治見1407 → 中津川1445
中央本線5717M 快速 クモハ313-1001

中津川1449 → 木曽福島1523
中央本線1015M 特急しなの15号 クモハ383-12

木曽福島散策(中山道、古い町並、福島関所跡、雪灯りの散歩道)

木曽福島1907 → 長野2039
中央本線1021M 特急しなの21号 クモハ383-3

長野2106 → 東京2248
長野新幹線552E あさま552号 E225-7

東京2256 → 渋谷2321
山手線2223G モハE230-614

朝の高山
息は真白である。朴葉味噌の朝食をとって間もなく、8時前には宿を出たものの、山間部ゆえにまだ陽は当たらない。鍛冶橋から見える風景は朝靄に包まれ、しっとりとした様相を見せる。宮川朝市に立ち寄るが、この寒さだから人通りもまばらで、ひっそりとしている。谷松という和菓子屋でつくせんを買った。朝市の後は東山の寺院群へ向かった。いよいよ誰も居なくなり、心が休まる。雪に閉ざされた参道、朝の墓地。静寂の境内、石垣と松。心が洗われる。

そろそろ時間なので、駅へ向かう。町はだんだんと賑わい始めていた。

木曽福島
一筆書き乗車券の旅である。名古屋は既に通過しているので、美濃太田から太多線を経て多治見に逃げる。また岡谷と辰野も通ったため、塩尻から東の中央本線のルートはもう閉ざされている。したがって、長野まで出てから長野新幹線で帰京というルートである。美濃太田で松茸の釜飯を買い、列車を乗り継いで木曽福島に着いた頃には、もう15時を回っていた。次第に日差しがやわらかくなってゆく。

特別なこだわりがあって下車したというわけではないが、乗りっぱなしで帰京するというのもつまらなかったので、中山道や町並くらいは見ておこうと思ったわけである。福島は木曽川に沿った小さな城下町である。支流の八沢川を渡ると、江戸時代からの小路が残る上ノ段の町並に入る。ここが中山道。数々の小路を歩き回ったり、16時台の上下の特急しなのを町並と一緒に撮影したりしていると、意外にも時間を忘れる。馬宿小路は、たいへん狭く短い。西小路は、武家屋敷の名残といわれる石垣が連なる。石段を降りると昭和の街並、本町商店街である。名産のそば饅頭を買った。黄昏時には権現小路から上町商店街を経て国道を下り、関所跡に立ち寄る。かつての関所の裏手には、今は中央本線が複線で走っている。

まったくの偶然だったが、昨日と今日は「雪灯りの散歩道」というイベントが開催されるようだ。無数のアイスキャンドルが旧街道沿いに並ぶという。元々の予定では18時過ぎの普通列車でここを去る予定だったが、折角なのでライトアップを見て帰ることにした。1時間後の特急に乗れば問題ないだろう。和幸家という豆腐料理屋で揚げ出し定食をいただく。島崎藤村『夜明け前』の原稿が飾ってあった。自分は異質な旅行者といった風である。

雪灯りの散歩道は思いの外美しい。高山でもそうだったが、やはり古い町並は夜の方が良い。ここのところは晴れが続いたようで道にはほとんど雪は残っていなかったが、昼間とは全く違った表情を堪能できた。蝋燭の灯に照らされるのは必ずしも町並だけではないだろう。数々の想いをのせた灯である。

帰路
結局、中央西線はほとんどの区間を特急に乗ることになった。八沢川に浮かぶ無数の灯りを横目に、列車は木曽福島を後にする。ものの1時間半で長野に到着である。ここまで来ると東京は近い。ちょうど、二冊目の小説を読み終わったところだった。

写真
1枚目:和菓子屋、谷松
2枚目:中山道
3枚目:雪灯りの散歩道

2031文字

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