フランス旅行 8日目
2012年3月17日 鉄道と旅行
芸術の洪水。
・ルーヴル美術館
朝10時頃に宿を出てルーヴルへ向かう。長蛇の列に並ぶことになるかと思いきや、すぐにチケットを買えた。ルーヴルは随分昔に来たことがあるようだが、全く記憶にない。ガラス張りのピラミッドから差し込む太陽光で、地下のナポレオン・ホールは明るく照らされている。このホールからリシュリュー(Richelieu)、シュリー(Sully)、ドゥノン(Denon)の各翼へ行くことができるが、館内はとにかく広大で、地図の描いてあるパンフレットがないと確実に迷う。今回は記憶上ほぼ初訪問に等しいので、地図で紹介されているサワリの部分だけを回る。主に鑑賞したのは以下:
デュプロで「重要度 ★★★★★」と書かれた部分をひたすら暗記するかのごとく、展示のサワリを中心に観覧していく。しかしそれだけでもかなり大変であり、回る途中にしばしば他の作品で立ち止まっていたらあっという間に閉館時間となり、一日が終わってしまった。一つ一つをじっくりと見て回っていたら一週間はかかる、とよく言われるのも納得できる。だんだんキモ所だけを集めた確認作業のようになっていったのが残念である。いやむしろ、一つ一つの作品が重すぎるのにその数があまりに膨大で、いちいち深い思索に耽っていてはとうてい精神や体力がもたないのが実情。絵画にしろ彫刻にしろ、「すごいもの」がそこら中に並べられたり転がっていたりして、適当に10点も集めれば相当なコレクションになるのではないかと思う。日本でも人気を博したフェルメール(Vermeer)の絵も、その2点が部屋の隅に何気なく飾られていたし、ガラスケースに適当に入れられている数々の王室調度品も、凄まじい価値があるはずだ。何にせよ、これまで訪れたことのある「美術館」とはそもそもの格が違う。
ルーヴルの収蔵品は王室の美術コレクションに始まり、ルイ16世の時代には膨大な数にのぼり、さらにナポレオンの時代以降も蒐集が続けられて現在その数は30万を超えるという。古代エジプト、ギリシャ、ローマの美術も相当に充実していて、よくぞここまで各地からかっぱらってきたものだ。またルーヴル宮という建物自体も壮大な建築で風格があり、とくにリシュリュー翼の二階にあるナポレオン3世(Napoleon Ⅲ)の居室などは圧巻であった。ガラス屋根の張られた同翼の中庭には数々の彫刻が立ち並び、差し込んで来る柔らかい自然光を受けてさまざまな表情を見せる。角度と光線によって色々見え方が変わるから、改めて彫刻の面白さを実感。夜に訪れたらさぞミステリアスなことだろう。館内は綺麗に整備され、構造さえ把握してしまえば地図をもとに効率よく作品を回ることができた。
芸術の洪水に溺れ、心身ともに疲弊した一日。夕食はカプシーヌ通りの「中華飯店」という店で中華料理を食し、宿へ戻る。明日晩の飛行機でいよいよパリを去ることになる。荷造りを済ませた後、ベッドに横たわり旅の回想に耽った。
写真
1枚目:モナ・リザ
2枚目:ナポレオン3世の居室
3枚目:ミロのヴィーナス
1827文字
3/17
ルーヴル美術館観覧
パリ泊
Baudelaire Opéra
・ルーヴル美術館
朝10時頃に宿を出てルーヴルへ向かう。長蛇の列に並ぶことになるかと思いきや、すぐにチケットを買えた。ルーヴルは随分昔に来たことがあるようだが、全く記憶にない。ガラス張りのピラミッドから差し込む太陽光で、地下のナポレオン・ホールは明るく照らされている。このホールからリシュリュー(Richelieu)、シュリー(Sully)、ドゥノン(Denon)の各翼へ行くことができるが、館内はとにかく広大で、地図の描いてあるパンフレットがないと確実に迷う。今回は記憶上ほぼ初訪問に等しいので、地図で紹介されているサワリの部分だけを回る。主に鑑賞したのは以下:
モナ・リザ〈Leonardo da Vinci〉
カナの婚宴〈Paolo Veronese〉
ナポレオン1世の戴冠式〈Jacques Loius David〉
サモトラケのニケ
トルコの浴場〈Jean-Auguste-Dominique Ingres〉
いかさま師〈Georges de La Tour〉
宰相ロランの聖母〈Jan van Eyck〉
ガブリエル・デストレとその妹
自画像〈Albrecht Dürer〉
レースを編む女〈Jan Vermeer van Delft〉
天文学者〈-〉
ナポレオン3世の居室
マルリーの馬〈Guillaume Coustou〉
マグダラのマリア〈Gregor Erhart〉
瀕死の奴隷〈Michelangelo〉
エロスの接吻で目覚めるプシュケー〈Antonio Canova〉
ミロのヴィーナス
ラムセス2世座像
ポンパドゥール侯爵夫人の肖像〈Maurice Quentin de La Tour〉
ハムラビ法典
デュプロで「重要度 ★★★★★」と書かれた部分をひたすら暗記するかのごとく、展示のサワリを中心に観覧していく。しかしそれだけでもかなり大変であり、回る途中にしばしば他の作品で立ち止まっていたらあっという間に閉館時間となり、一日が終わってしまった。一つ一つをじっくりと見て回っていたら一週間はかかる、とよく言われるのも納得できる。だんだんキモ所だけを集めた確認作業のようになっていったのが残念である。いやむしろ、一つ一つの作品が重すぎるのにその数があまりに膨大で、いちいち深い思索に耽っていてはとうてい精神や体力がもたないのが実情。絵画にしろ彫刻にしろ、「すごいもの」がそこら中に並べられたり転がっていたりして、適当に10点も集めれば相当なコレクションになるのではないかと思う。日本でも人気を博したフェルメール(Vermeer)の絵も、その2点が部屋の隅に何気なく飾られていたし、ガラスケースに適当に入れられている数々の王室調度品も、凄まじい価値があるはずだ。何にせよ、これまで訪れたことのある「美術館」とはそもそもの格が違う。
ルーヴルの収蔵品は王室の美術コレクションに始まり、ルイ16世の時代には膨大な数にのぼり、さらにナポレオンの時代以降も蒐集が続けられて現在その数は30万を超えるという。古代エジプト、ギリシャ、ローマの美術も相当に充実していて、よくぞここまで各地からかっぱらってきたものだ。またルーヴル宮という建物自体も壮大な建築で風格があり、とくにリシュリュー翼の二階にあるナポレオン3世(Napoleon Ⅲ)の居室などは圧巻であった。ガラス屋根の張られた同翼の中庭には数々の彫刻が立ち並び、差し込んで来る柔らかい自然光を受けてさまざまな表情を見せる。角度と光線によって色々見え方が変わるから、改めて彫刻の面白さを実感。夜に訪れたらさぞミステリアスなことだろう。館内は綺麗に整備され、構造さえ把握してしまえば地図をもとに効率よく作品を回ることができた。
芸術の洪水に溺れ、心身ともに疲弊した一日。夕食はカプシーヌ通りの「中華飯店」という店で中華料理を食し、宿へ戻る。明日晩の飛行機でいよいよパリを去ることになる。荷造りを済ませた後、ベッドに横たわり旅の回想に耽った。
写真
1枚目:モナ・リザ
2枚目:ナポレオン3世の居室
3枚目:ミロのヴィーナス
1827文字
フランス旅行 7日目
2012年3月16日 鉄道と旅行
絶対王政の象徴的建築を訪ねる。
・ヴェルサイユ宮殿
今日はRERでパリ郊外ヴェルサイユへ向かう。列車はほぼ全区間を通してのろのろと低速で走り続け、30分ほどでヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ(Versailles-Rive-Gauche)駅に到着。一大観光地の宮殿はこの駅から徒歩10分程度のところにあり、界隈はすでに多くの人で賑わいを見せ始めている。ルイ14世の騎馬像を通り過ぎ、入場券を買って中へ入る。
王室礼拝堂を地階から覗いた後、二階へ上り、ヘラクレスの間、豊穣の間、ヴィーナスの間、ディアーヌの間、マルスの間、メルクリウスの間、アポロンの間と順々に回っていく。この宮殿には基本的に廊下というものがなく、全ての部屋が扉でつながっている。一連の居室群はギリシャ・ローマのそれぞれの神々をテーマにした内装でまとめられている。壮大に描かれた天井画も美しい。ルイ14世は太陽神アポロンを自らの象徴とした。肖像画ではバレエで鍛えた脚線美をアピールし、名言「朕は国家なり」を遺している。冷静に思えば何とも滑稽な話、滑稽な文化だが、その滑稽さも、これでもか、これでもか、というほどの豪華絢爛建築、コンセプトの一貫した内部装飾、ひたすらに誇示される絶対的権力、というところまで来れば、もはや別の境地に達している。ここまで徹底すると、誰も文句は言うまい。
角部屋の戦争の間には、支配者たる国王を中心に据え、敗れ去っていった国々の様子を周囲に配した天井画があり、壁面の捕虜の彫刻が背負っているのはやはり太陽王ルイ14世の騎馬像である。戦争の間に続いて、有名な鏡の間がある。ここは宮殿の西側の回廊全体にあたり、窓外には広大なヴェルサイユの庭園が一望のもとである。牛眼の間を経て王の寝室を見学。国王は毎日、太陽の運行に従った規則正しい生活を送り、近くの部屋には多くの従者が待機していた。意外にも自由やプライバシーの少ない暮らしだったようだ。鏡の間を挟んで戦争の間に遠く対峙するのは平和の間であり、そこからは大会食の間、王妃の寝室などの居室群が連なる。後の悲劇的な運命も知らずに微笑むマリー・アントワネット(Matie-Antoinette)とその家族の肖像画が印象に残る。最後にナポレオンの間を見てから宮殿を後にする。
・マリー・アントワネットの離宮
今日は日差しが強くかなり暑い。ダウンを着てきたのは失策である。ヴェルサイユの庭園はとにかく広大で、北側にあるトリアノン(Trianon)や王妃の村里を往復すればゆうに4kmは歩くことになる。園内には15分程度の間隔で運転している便利なトラムが走っているので、これを利用する。宮殿裏の水の前庭から出発したトラムは、ネプチューンの泉で左折してトリアノン大通りを進む。まずはグラン・トリアノンで下車し、ここを見学。宮殿は観光客で混雑していたが、ここはそういった喧騒からは程遠く、ゆったりとした時間が流れている。少し木のこもった香りのする邸内を歩き回るが、落ち着いた雰囲気でなかなか良い。ルイ14世はことのほかここが気に入っていたようだが、もっとも、毎日毎日あの宮殿で暮らしていてはさすがに息が詰まるだろう。現在このグラン・トリアノンは、外国首脳の迎賓館として機能しているらしい。
グラン・トリアノンの北東、歩いて5分ほどの距離にはプチ・トリアノンがある。もとはルイ15世の寵妃ポンパドゥール(Pompadour)夫人のために建てられた離宮だが、完成を前にして彼女は死去している。その後はマリー・アントワネットに与えられ、ここで気ままな生活を送ったという。内部には当時の生活を再現した展示が行われているが、家具や食器などは現代のそれらとさして変わるところがない。文化の原型はすでにこの時代に出来上がっていた。プチ・トリアノンの裏手にはイギリス式の庭園が造られており、くねくねとした小径や小川、池などが田園を模した風景の中に巧妙に配され、直線的で左右対称、そして広大な大庭園とは全く異なる趣を見せている。王妃の村里と呼ばれる一角には12軒の農家からなる村が人工的に造られ、王妃自ら牛の乳搾りや釣りのまねごとなどをして悠長に遊んでいたらしい。実際に人を雇って農民役としてここに住まわせていたというから驚きである。
大運河を回ってから帰る予定だったが、プチ・トリアノンからトラムに乗り込んだ時点ですでにトラムが満席であったのでそのまま宮殿へ直帰する。現に、大運河では大量の積み残しが発生していた。そろそろ日差しも西へ傾いてきたから、パリ市内へ戻るとしよう。
・オ・ラパン・アジル
夜は、パリ観光初日に訪れたモンマルトルのシャンソニエ、オ・ラパン・アジルを訪ねる。店内は相当に薄暗く、赤を基調とした照明でまとめられている。ステージのようなものはなく、地下室のような狭い部屋の中で歌い手が次々とテーブルで合唱したり、あるいはピアノの脇に立って独唱したりする。ここにはピカソ(Picasso)やモディリアーニ(Modigliani)も足繁く通ったといい、往時の内装がそのまま残されていて興味深い。オリジナルのサクランボのリキュールを片手に、異国の音楽に聴き入る。アコーディオンを弾きながら歌う中年の女性歌手がかなり上手であった。娯楽としてのシャンソンは凋落気味で、昔ながらの歌が聴けるのもパリではここくらいになったらしい。店内にはもちろん常連客らしき人々もいたが、奥の方にはアメリカ人と思しき団体客が大勢座っていた。店は観光客にはかなり慣れている感じだったが、そういった路線へも舵を切らないとそろそろ厳しいのだろうか。
帰りはタクシーで宿へ戻る。そろそろ旅行も終盤である。
写真
1枚目:鏡の間
2枚目:プチ・トリアノン
3枚目:オ・ラパン・アジル
2945文字
3/16
Opéra → Invalides
メトロ【8】号線
Invalides → Versailles-Rive-Gauche
RER【C】線
ヴェルサイユ(Versailles)宮殿、トリアノン(Trianon)
Versailles-Rive-Gauche → Invalides
RER【C】線
Invalides → Opéra
メトロ【8】号線
夕食
Madeleine → Lamarck Caulaincourt
メトロ【12】号線
オ・ラパン・アジル
パリ泊
Baudelaire Opéra
・ヴェルサイユ宮殿
今日はRERでパリ郊外ヴェルサイユへ向かう。列車はほぼ全区間を通してのろのろと低速で走り続け、30分ほどでヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ(Versailles-Rive-Gauche)駅に到着。一大観光地の宮殿はこの駅から徒歩10分程度のところにあり、界隈はすでに多くの人で賑わいを見せ始めている。ルイ14世の騎馬像を通り過ぎ、入場券を買って中へ入る。
王室礼拝堂を地階から覗いた後、二階へ上り、ヘラクレスの間、豊穣の間、ヴィーナスの間、ディアーヌの間、マルスの間、メルクリウスの間、アポロンの間と順々に回っていく。この宮殿には基本的に廊下というものがなく、全ての部屋が扉でつながっている。一連の居室群はギリシャ・ローマのそれぞれの神々をテーマにした内装でまとめられている。壮大に描かれた天井画も美しい。ルイ14世は太陽神アポロンを自らの象徴とした。肖像画ではバレエで鍛えた脚線美をアピールし、名言「朕は国家なり」を遺している。冷静に思えば何とも滑稽な話、滑稽な文化だが、その滑稽さも、これでもか、これでもか、というほどの豪華絢爛建築、コンセプトの一貫した内部装飾、ひたすらに誇示される絶対的権力、というところまで来れば、もはや別の境地に達している。ここまで徹底すると、誰も文句は言うまい。
角部屋の戦争の間には、支配者たる国王を中心に据え、敗れ去っていった国々の様子を周囲に配した天井画があり、壁面の捕虜の彫刻が背負っているのはやはり太陽王ルイ14世の騎馬像である。戦争の間に続いて、有名な鏡の間がある。ここは宮殿の西側の回廊全体にあたり、窓外には広大なヴェルサイユの庭園が一望のもとである。牛眼の間を経て王の寝室を見学。国王は毎日、太陽の運行に従った規則正しい生活を送り、近くの部屋には多くの従者が待機していた。意外にも自由やプライバシーの少ない暮らしだったようだ。鏡の間を挟んで戦争の間に遠く対峙するのは平和の間であり、そこからは大会食の間、王妃の寝室などの居室群が連なる。後の悲劇的な運命も知らずに微笑むマリー・アントワネット(Matie-Antoinette)とその家族の肖像画が印象に残る。最後にナポレオンの間を見てから宮殿を後にする。
・マリー・アントワネットの離宮
今日は日差しが強くかなり暑い。ダウンを着てきたのは失策である。ヴェルサイユの庭園はとにかく広大で、北側にあるトリアノン(Trianon)や王妃の村里を往復すればゆうに4kmは歩くことになる。園内には15分程度の間隔で運転している便利なトラムが走っているので、これを利用する。宮殿裏の水の前庭から出発したトラムは、ネプチューンの泉で左折してトリアノン大通りを進む。まずはグラン・トリアノンで下車し、ここを見学。宮殿は観光客で混雑していたが、ここはそういった喧騒からは程遠く、ゆったりとした時間が流れている。少し木のこもった香りのする邸内を歩き回るが、落ち着いた雰囲気でなかなか良い。ルイ14世はことのほかここが気に入っていたようだが、もっとも、毎日毎日あの宮殿で暮らしていてはさすがに息が詰まるだろう。現在このグラン・トリアノンは、外国首脳の迎賓館として機能しているらしい。
グラン・トリアノンの北東、歩いて5分ほどの距離にはプチ・トリアノンがある。もとはルイ15世の寵妃ポンパドゥール(Pompadour)夫人のために建てられた離宮だが、完成を前にして彼女は死去している。その後はマリー・アントワネットに与えられ、ここで気ままな生活を送ったという。内部には当時の生活を再現した展示が行われているが、家具や食器などは現代のそれらとさして変わるところがない。文化の原型はすでにこの時代に出来上がっていた。プチ・トリアノンの裏手にはイギリス式の庭園が造られており、くねくねとした小径や小川、池などが田園を模した風景の中に巧妙に配され、直線的で左右対称、そして広大な大庭園とは全く異なる趣を見せている。王妃の村里と呼ばれる一角には12軒の農家からなる村が人工的に造られ、王妃自ら牛の乳搾りや釣りのまねごとなどをして悠長に遊んでいたらしい。実際に人を雇って農民役としてここに住まわせていたというから驚きである。
大運河を回ってから帰る予定だったが、プチ・トリアノンからトラムに乗り込んだ時点ですでにトラムが満席であったのでそのまま宮殿へ直帰する。現に、大運河では大量の積み残しが発生していた。そろそろ日差しも西へ傾いてきたから、パリ市内へ戻るとしよう。
・オ・ラパン・アジル
夜は、パリ観光初日に訪れたモンマルトルのシャンソニエ、オ・ラパン・アジルを訪ねる。店内は相当に薄暗く、赤を基調とした照明でまとめられている。ステージのようなものはなく、地下室のような狭い部屋の中で歌い手が次々とテーブルで合唱したり、あるいはピアノの脇に立って独唱したりする。ここにはピカソ(Picasso)やモディリアーニ(Modigliani)も足繁く通ったといい、往時の内装がそのまま残されていて興味深い。オリジナルのサクランボのリキュールを片手に、異国の音楽に聴き入る。アコーディオンを弾きながら歌う中年の女性歌手がかなり上手であった。娯楽としてのシャンソンは凋落気味で、昔ながらの歌が聴けるのもパリではここくらいになったらしい。店内にはもちろん常連客らしき人々もいたが、奥の方にはアメリカ人と思しき団体客が大勢座っていた。店は観光客にはかなり慣れている感じだったが、そういった路線へも舵を切らないとそろそろ厳しいのだろうか。
帰りはタクシーで宿へ戻る。そろそろ旅行も終盤である。
写真
1枚目:鏡の間
2枚目:プチ・トリアノン
3枚目:オ・ラパン・アジル
2945文字
フランス旅行 6日目
2012年3月15日 鉄道と旅行
神秘の巡礼島へ。
・ノルマンディーへ
早朝に宿を出発し、メトロを乗り継いでモンパルナス駅へ向かう。パリ市内からのバスツアーもあるようだが、折角なのでTGVでレンヌまで行き、そこからバスでモン・サン・ミッシェルを目指すことにした。列車は機関車も含めると12×2の24両という相当な長大編成で、乗り込むまでにずいぶんとホームを歩かされた上、号車番号がパリ方から10、9、8、・・・、1、11、12、13、・・・、20と割り振られているので予め編成表を確認しておかないとかなり分かりにくい。座席はストラスブールを往復したときと同じ仕様で、座面は硬くリクライニングもないのであまり快適とはいえない。車窓から日の出を眺めた後は、うとうとしていたらいつの間にかレンヌに到着であった。
レンヌ駅の北口を出てバス乗り場へ向かう。ここからモン・サン・ミッシェルまでは70分ほど。バスはのどかな田園の放牧風景が広がる中を走り、ノルマンディー(Normandie)の海を目指す。村に入ると徐行運転を行うが、村の間はかなりの高速で飛ばしてゆく。一昨日のワイン街道もそうだったが、こうした道路は大昔から脈々と受け継がれてきたのだろう。やがて、景色が開けたかと思うと遠目に島影が見えてきた。岩山にそびえ立つ修道院の姿がフロントガラスに接近し、徐々にそのディテールが明らかになっていく様子はなかなか感動的である。今でこそ堤防で結ばれた陸繋島の様相を呈しているが、かつては絶海の孤島だったという。バスを降りると、強い潮の香りに包まれる。ここはもう海上である。
・岩山の修道院
混んでくる前に、まずは修道院を見学してしまう。島の入り口には門があり、その先にある狭い坂道の路地を上り詰めたところに修道院がある。8世紀頃、大天使ミカエル(Michel)のお告げによって岩山に建てられたという礼拝堂は増改築が繰り返され、時には要塞としての機能も果たしながら現在の姿となった。西のテラスは眺望が良く海と陸地を見渡すことができるが、残念ながら水平線は霞んでしまい景色は煙っている。島は干潟に囲まれていて、均一で無表情な砂洲の上に尖塔の影が斜めに落ちている。てくてくと歩いている人の姿も見受けられる。修道院付属の教会を経て列柱廊に進むと、そこは不思議な三次元空間である。交互にずれながら整列する二列の細い円柱が、中庭を囲む形でアーチを支えている。その整然たる様子もさることながら、廊下を歩くにつれて刻一刻と変化していく近景と遠景との絶妙な幾何学的干渉が美しい視覚効果を生み出している。かつては祈りと瞑想の場だったという。ここはメルヴェイユ(Merveille)の棟の最上階に位置し、西の窓からの見晴らしもすばらしい。
その後は食堂、迎賓の間、太柱の礼拝堂などを回っていく。石造りの建物の中はひんやりと涼しく、外界から隔絶されているような印象も受ける。厳冬期などは凍えるような寒さだったのではないか。海上の岩山にこもり、祈りを続けてきた修道僧たちの苦労はすさまじい。そして何よりも、これほどまでの修道院を人力で作り上げたということが驚嘆に値する。さまざまな様式の建築が混在しながらも、全体として一つの統一体をなすこの神秘的な巡礼島と修道院が背負う歴史と文化を肌で感じることができる。島は遠くから見渡せばピラミッドのような山の形に見えるが、これは建設時にしっかりと考慮されてのことだというから、当時の石積みの技術水準が実に高かったことも窺える。
・島内散策
ツアーの大型バスが続々と島に到着し、観光客も多くなってきた。修道院を見終えた後は北塔、ブクル塔、低塔といったふうに東側の城壁を散策する。到着したときは快晴だったのだが、今は低い雲が立ち込め、海霧だろうか、辺り全体に灰色の靄がかかっているように見える。修道院の尖塔も霧の中に隠れてしまった。昼食は名物の巨大オムレツを食べるべく、島の入口にほど近いラ・メール・プーラール(La Mére Poulard)というレストランに入ったが、通される席にしろ接客態度にしろ観光客をなめていて感じが悪い上、メニューがボッタクリも良いとこだったので早々に店を出る。しかしオムレツは捨てがたいから、結局城壁のそばにあった同系列のレ・テラス・プーラール(Les Terrasses Poulard)に入ってスモークサーモンと合わせたオムレツを注文。卵がふんだんに使われ、ふわふわとした食感でわりと美味しい。19世紀末に島と陸地を結ぶ道路が完成するまでは、巡礼者は潮の干満を気にしながらこの地を訪れたというが、彼らのために作られたオムレツがこの名物料理の発祥だという。いやそれにしても、これで18.5€はやはり高い。最初に訪れた本家の45€よりはずいぶんマシだが。
モン・サン・ミッシェルを訪れてみて、修道院と島自体には大変な感銘を受けたのだが、それにぶら下がっている観光産業の質が低く、島の入口から修道院にかけての参道は完全に俗化している感も否めない。次々とバスが島に乗り込んできて、続々と観光客が湧き出してくる。むろん自分もその一員なのだが、世界遺産に登録されることによる地元の苦悩というものも間違いなくあるだろう。逆に訪れる方としては、俗化した観光地になっていることを覚悟の上、それはそうと割り切って行くしかないとも感じる。まだ観光シーズンではないから、今日などはかなりゆっくりと回れた方だろう。
・帰路
本当は夕方のバスでレンヌに戻る予定だったが、意外にも島が小さくすぐに回れてしまったので、予定を変更して昼下がりの便で帰ることにする。TGVの指定券変更は手数料を取られてしまったが、パリ・モンパルナスには18時半前に帰還することができずいぶんと落ち着いた旅程となった。宿の界隈にある「北海道」というラーメン屋に入ってようやくひと息。
・パリの夜
酒田でなくした三脚は目下返送手続き中のため、有難くも主将からお借りした三脚を携え夜景撮影に出かける。オペラ広場、マドレーヌ教会、コンコルド広場、ルーヴル宮の四ヶ所を徒歩で回る。主にスローシャッターで車の光跡を画面上に錯綜させる写真を狙ったが、なかなかうまいバランスのものが撮れない。こればかりは運であるから、何回も試行錯誤することになる。夜も賑わうオペラ広場の交差点で、タクシーの屋根に点灯した緑色のLEDがダイナミックに画面を横切ったとき、不意にもガッツポーズをしてしまったw 横断歩道の脇で三脚を立てていたわけだから、完全に変人である。
写真
1枚目:島が見えてくる
2枚目:列柱廊
3枚目:オペラ座の夜
3583文字
3/15
Opéra → Madeleine
メトロ【8】号線
Madeleine → Montparnasse Bienvenüe
メトロ【12】号線
Paris Montparnasse 707 → Rennes 917
TGV 8705
Rennes 940 → Le Mont St. Michel 1055(-10)
バス
モン・サン・ミッシェル(Mont St. Michel)
Le Mont St. Michel 1420 → Rennes 1540(-5)
バス
Rennes 1603 → Paris Montparnasse 1822
TGV 8046
Montparnasse Bienvenüe → Madeleine
メトロ【12】号線
Madeleine → Pyramides
メトロ【14】号線
パリ泊
Baudelaire Opéra
・ノルマンディーへ
早朝に宿を出発し、メトロを乗り継いでモンパルナス駅へ向かう。パリ市内からのバスツアーもあるようだが、折角なのでTGVでレンヌまで行き、そこからバスでモン・サン・ミッシェルを目指すことにした。列車は機関車も含めると12×2の24両という相当な長大編成で、乗り込むまでにずいぶんとホームを歩かされた上、号車番号がパリ方から10、9、8、・・・、1、11、12、13、・・・、20と割り振られているので予め編成表を確認しておかないとかなり分かりにくい。座席はストラスブールを往復したときと同じ仕様で、座面は硬くリクライニングもないのであまり快適とはいえない。車窓から日の出を眺めた後は、うとうとしていたらいつの間にかレンヌに到着であった。
レンヌ駅の北口を出てバス乗り場へ向かう。ここからモン・サン・ミッシェルまでは70分ほど。バスはのどかな田園の放牧風景が広がる中を走り、ノルマンディー(Normandie)の海を目指す。村に入ると徐行運転を行うが、村の間はかなりの高速で飛ばしてゆく。一昨日のワイン街道もそうだったが、こうした道路は大昔から脈々と受け継がれてきたのだろう。やがて、景色が開けたかと思うと遠目に島影が見えてきた。岩山にそびえ立つ修道院の姿がフロントガラスに接近し、徐々にそのディテールが明らかになっていく様子はなかなか感動的である。今でこそ堤防で結ばれた陸繋島の様相を呈しているが、かつては絶海の孤島だったという。バスを降りると、強い潮の香りに包まれる。ここはもう海上である。
・岩山の修道院
混んでくる前に、まずは修道院を見学してしまう。島の入り口には門があり、その先にある狭い坂道の路地を上り詰めたところに修道院がある。8世紀頃、大天使ミカエル(Michel)のお告げによって岩山に建てられたという礼拝堂は増改築が繰り返され、時には要塞としての機能も果たしながら現在の姿となった。西のテラスは眺望が良く海と陸地を見渡すことができるが、残念ながら水平線は霞んでしまい景色は煙っている。島は干潟に囲まれていて、均一で無表情な砂洲の上に尖塔の影が斜めに落ちている。てくてくと歩いている人の姿も見受けられる。修道院付属の教会を経て列柱廊に進むと、そこは不思議な三次元空間である。交互にずれながら整列する二列の細い円柱が、中庭を囲む形でアーチを支えている。その整然たる様子もさることながら、廊下を歩くにつれて刻一刻と変化していく近景と遠景との絶妙な幾何学的干渉が美しい視覚効果を生み出している。かつては祈りと瞑想の場だったという。ここはメルヴェイユ(Merveille)の棟の最上階に位置し、西の窓からの見晴らしもすばらしい。
その後は食堂、迎賓の間、太柱の礼拝堂などを回っていく。石造りの建物の中はひんやりと涼しく、外界から隔絶されているような印象も受ける。厳冬期などは凍えるような寒さだったのではないか。海上の岩山にこもり、祈りを続けてきた修道僧たちの苦労はすさまじい。そして何よりも、これほどまでの修道院を人力で作り上げたということが驚嘆に値する。さまざまな様式の建築が混在しながらも、全体として一つの統一体をなすこの神秘的な巡礼島と修道院が背負う歴史と文化を肌で感じることができる。島は遠くから見渡せばピラミッドのような山の形に見えるが、これは建設時にしっかりと考慮されてのことだというから、当時の石積みの技術水準が実に高かったことも窺える。
・島内散策
ツアーの大型バスが続々と島に到着し、観光客も多くなってきた。修道院を見終えた後は北塔、ブクル塔、低塔といったふうに東側の城壁を散策する。到着したときは快晴だったのだが、今は低い雲が立ち込め、海霧だろうか、辺り全体に灰色の靄がかかっているように見える。修道院の尖塔も霧の中に隠れてしまった。昼食は名物の巨大オムレツを食べるべく、島の入口にほど近いラ・メール・プーラール(La Mére Poulard)というレストランに入ったが、通される席にしろ接客態度にしろ観光客をなめていて感じが悪い上、メニューがボッタクリも良いとこだったので早々に店を出る。しかしオムレツは捨てがたいから、結局城壁のそばにあった同系列のレ・テラス・プーラール(Les Terrasses Poulard)に入ってスモークサーモンと合わせたオムレツを注文。卵がふんだんに使われ、ふわふわとした食感でわりと美味しい。19世紀末に島と陸地を結ぶ道路が完成するまでは、巡礼者は潮の干満を気にしながらこの地を訪れたというが、彼らのために作られたオムレツがこの名物料理の発祥だという。いやそれにしても、これで18.5€はやはり高い。最初に訪れた本家の45€よりはずいぶんマシだが。
モン・サン・ミッシェルを訪れてみて、修道院と島自体には大変な感銘を受けたのだが、それにぶら下がっている観光産業の質が低く、島の入口から修道院にかけての参道は完全に俗化している感も否めない。次々とバスが島に乗り込んできて、続々と観光客が湧き出してくる。むろん自分もその一員なのだが、世界遺産に登録されることによる地元の苦悩というものも間違いなくあるだろう。逆に訪れる方としては、俗化した観光地になっていることを覚悟の上、それはそうと割り切って行くしかないとも感じる。まだ観光シーズンではないから、今日などはかなりゆっくりと回れた方だろう。
・帰路
本当は夕方のバスでレンヌに戻る予定だったが、意外にも島が小さくすぐに回れてしまったので、予定を変更して昼下がりの便で帰ることにする。TGVの指定券変更は手数料を取られてしまったが、パリ・モンパルナスには18時半前に帰還することができずいぶんと落ち着いた旅程となった。宿の界隈にある「北海道」というラーメン屋に入ってようやくひと息。
・パリの夜
酒田でなくした三脚は目下返送手続き中のため、有難くも主将からお借りした三脚を携え夜景撮影に出かける。オペラ広場、マドレーヌ教会、コンコルド広場、ルーヴル宮の四ヶ所を徒歩で回る。主にスローシャッターで車の光跡を画面上に錯綜させる写真を狙ったが、なかなかうまいバランスのものが撮れない。こればかりは運であるから、何回も試行錯誤することになる。夜も賑わうオペラ広場の交差点で、タクシーの屋根に点灯した緑色のLEDがダイナミックに画面を横切ったとき、不意にもガッツポーズをしてしまったw 横断歩道の脇で三脚を立てていたわけだから、完全に変人である。
写真
1枚目:島が見えてくる
2枚目:列柱廊
3枚目:オペラ座の夜
3583文字
フランス旅行 5日目
2012年3月14日 鉄道と旅行
カルチェ・ラタンを歩く。
・セーヌ左岸へ
昨日、一昨日とアルザスへ行っていたため今日は遅めのスタート。10時頃にのんびりと宿を出て、左岸のカルチェ・ラタンを中心に散策しよう。メトロを降り、サン・ミシェル(St. Michel)大通りを南下。左手には逆光のソルボンヌ(Sorbonne)教会、そしてもう少し下ればパンテオン(Panthéon)が見える。右手に広がるのはリュクサンブール公園。早春の日差しは柔らかくも眩しく、多くの人々が日光浴をしたり、雑談を楽しんだり、読書にふけったり、園内をジョギングしたりと、思い思いの時間を過ごしている。パリ市民の憩いの場といったところか。背後に控えるリュクサンブール宮殿は立派で、現在は上院が入っているらしい。
公園を訪れた後は、スフロ(Soufflot)通り、サン・ジャック(St. Jacques)通りを経てソルボンヌの裏側を回り、サン・ジェルマン(St. Germain)大通りに出た。交差点にあったEyrollesという書店に立ち寄る。地下にはフランス国内外の旅行書がかなり充実し、眺めているだけでも楽しめる。昼食は、大通りとラグランジュ(Lagrange)通り、モンジュ通りが交差した角地にあるCafé du Metroでフランクフルトソーセージとビールを頼む。値段のわりに結構美味しい。こうしてカフェに座り、道行く人々や交差点を往来する交通などをゆったり眺めていると、街の素の表情というのか、観光とは切り離されたところにあるパリの姿を垣間見られるように思う。
午後はモンジュ通りをモンジュ広場まで南下する。今日はここで朝市が開かれていたようで、今はその片付けの真っ最中であった。賑やかな市を一度見てみたいものである。広場からは小さなオルトラン(Ortolan)通りに入り、裏側のムフタール通りへ出る。この通りはパリの胃袋と呼ばれ、朝夕には細い石畳道の両脇にぎっしりと店が立ち並び、市が開かれるようだ。ポ・ド・フェール(Pot de Fer)通りとの交差点付近はとくに活気があり、廉価ながら美味しそうなカフェやブラッセリーが軒を連ねている。この辺りはカルチェ・ラタンの一角にある庶民的な街区で、この他にもクレープ屋やチーズ屋などが立ち並び、通りを北上したところにあるコントルスカルプ(Contrescarpe)広場のカフェには多くの人が集っている。平日の午後だが、みな暇なのだろう。日差しも暖かいし天気も良いので外に繰り出してひと息、といったところか。この界隈は大昔はパリの掃き溜めのような場所だったようで、衛生環境も最悪だったと聞く。かつてここに住んだことのある小説家ヘミングウェイもその様子を酷評しているようだ。
・カルチェ・ラタン
ムフタール通りに続くデカルト(Descartes)通りを歩き、サンテチエンヌ・デュ・モン(St. Étienne du Mont)教会の脇から、午前中横目に見たパンテオンの裏手に出る。この周辺にはアンリ4世(Henri Ⅳ)高等学校、パリ大学法学部、ソルボンヌなどが集中し、時刻はちょうど15時頃、授業が終わったと見えて多くの学生が広場に集まっている。フランス人はふにゃふにゃと議論を重ねるのが大好きなようで、大勢が立ち話をして盛り上がったり、座り込んで難しい顔をしながら課題だかレポートだかに向き合ったり、ただ友人どうしで集まって談笑していたり、といった姿がそこら中に見受けられる。総じて感じたのは、こちらの学生はみな質素で堅実、そして勉学に真面目ということで、自分が普段目にしているところの日本の大学生とは生活のスタイルが根本的に違うように思われる。本来のあるべき姿とはこういうものなのかもしれない。それと、各々が自分の意見を持っていて、それらを自由にぶつけあっているように見えるのもまた面白い。個人的に「空気を読む」という日本語はいかにも同調的そして迎合的な感じがあって嫌いなのだが、「これを言ったらどう思われるか、場にそぐわないのではないか」などということは誰一人気にせず、かりに意見が衝突したにしても互いの考えが尊重されるという風土が感じられる。むろん、各々が自由奔放に放言することが必ずしも全体の利益になるとは限らないが、少なくとも革新的な結論や斬新な発想が得られる機会ははるかに大きくなると思うわけだ。ただ残念なことに、議論において「節度を守る」ことはすなわち「空気を読む」ことだと勘違いしている人が多い。
・クリュニー中世博物館
朝も通ったソルボンヌの先にはクリュニー中世博物館がある。ここはかつての修道院を改装して博物館とした建物で、意外とマイナーなようだが展示内容は圧巻。とくに、ガラスケースに入れられたおびただしい数の金属細工には目を見張るものがある。どれもキリスト教にまつわるものばかりだが、宗教が人を国を動かし、文化を民族を形作ってきたことを改めて実感する。どの一つ一つにも大きさのわりにただならぬ迫力が感じられ、夜に訪れたらなかなか恐ろしい雰囲気になりそうである。もう一つの目玉は『貴婦人と一角獣』と名付けられたタペストリーで、五感すなわち視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚に加え、謎の第六感を表現した六枚組の連作。赤い背景と緑の地面が補色をなして鮮やかである。15世紀末に作られたものらしいが、これほどの作品を織るには一体どれほどの手間がかかっているのだろう。第六感は「我が唯一つの望みに」と呼ばれ、愛や理解だと解釈されるらしい。
・サン・シュルピス教会
博物館を出た後は、エコール・ド・メドゥシンヌ(École de Médechine)通りに入る。この通りは両側をパリ大学医学部に挟まれていて、医学書だけを専門に扱ったVigot Maloineという大きな書店もあり非常に興味深い。信濃町の貧弱な生協に比べるとその品揃えはすさまじい。その後サン・ジェルマン大通りに出てしばらく西進し、フール(Four)通り、マビヨン(Mabillon)通りを経由してサン・シュルピス教会に至る。この教会は小説『ダ・ヴィンチ・コード』で有名になった。内部には確かに演壇を斜めに横切る真鍮製の「ローズライン」があったが、これは左手にあるオベリスクと合わせて「グノモン(gnomon)」と呼ばれる中世の天文観測器であって「ローズライン」とは呼ばないこと、またここが異教徒の教会ではなかったこと、小説の「シオン修道会」は架空のものであることなどが説明されていた。つまり聖杯伝説とは何の関係もないということらしい。あとはドラクロワの壁画『ヤコブと天使の闘い』を見てから教会を後にした。
夕食は宿近くのサン・トーギュスタン(St. Augustin)通りにある「金太郎」という定食屋に入った。去年も訪れたが、なかなか美味しい。
写真
1枚目:リュクサンブール公園
2枚目:ムフタール通り
3枚目:サン・シュルピス教会
3426文字
3/14
Pyramides → Châtelet
メトロ【7】号線
Châtelet → St. Michel
メトロ【4】号線
リュクサンブール(Luxembourg)公園
モンジュ(Monge)通り、ムフタール(Moufftard)通り
カルチェ・ラタン(Quartier Latin)、クリュニー(Cluny)中世博物館
サン・シュルピス(St. Sulpice)教会
St. Sulpice → Châtelet
メトロ【4】号線
Châtelet → Pyramides
メトロ【7】号線
パリ泊
Baudelaire Opéra
・セーヌ左岸へ
昨日、一昨日とアルザスへ行っていたため今日は遅めのスタート。10時頃にのんびりと宿を出て、左岸のカルチェ・ラタンを中心に散策しよう。メトロを降り、サン・ミシェル(St. Michel)大通りを南下。左手には逆光のソルボンヌ(Sorbonne)教会、そしてもう少し下ればパンテオン(Panthéon)が見える。右手に広がるのはリュクサンブール公園。早春の日差しは柔らかくも眩しく、多くの人々が日光浴をしたり、雑談を楽しんだり、読書にふけったり、園内をジョギングしたりと、思い思いの時間を過ごしている。パリ市民の憩いの場といったところか。背後に控えるリュクサンブール宮殿は立派で、現在は上院が入っているらしい。
公園を訪れた後は、スフロ(Soufflot)通り、サン・ジャック(St. Jacques)通りを経てソルボンヌの裏側を回り、サン・ジェルマン(St. Germain)大通りに出た。交差点にあったEyrollesという書店に立ち寄る。地下にはフランス国内外の旅行書がかなり充実し、眺めているだけでも楽しめる。昼食は、大通りとラグランジュ(Lagrange)通り、モンジュ通りが交差した角地にあるCafé du Metroでフランクフルトソーセージとビールを頼む。値段のわりに結構美味しい。こうしてカフェに座り、道行く人々や交差点を往来する交通などをゆったり眺めていると、街の素の表情というのか、観光とは切り離されたところにあるパリの姿を垣間見られるように思う。
午後はモンジュ通りをモンジュ広場まで南下する。今日はここで朝市が開かれていたようで、今はその片付けの真っ最中であった。賑やかな市を一度見てみたいものである。広場からは小さなオルトラン(Ortolan)通りに入り、裏側のムフタール通りへ出る。この通りはパリの胃袋と呼ばれ、朝夕には細い石畳道の両脇にぎっしりと店が立ち並び、市が開かれるようだ。ポ・ド・フェール(Pot de Fer)通りとの交差点付近はとくに活気があり、廉価ながら美味しそうなカフェやブラッセリーが軒を連ねている。この辺りはカルチェ・ラタンの一角にある庶民的な街区で、この他にもクレープ屋やチーズ屋などが立ち並び、通りを北上したところにあるコントルスカルプ(Contrescarpe)広場のカフェには多くの人が集っている。平日の午後だが、みな暇なのだろう。日差しも暖かいし天気も良いので外に繰り出してひと息、といったところか。この界隈は大昔はパリの掃き溜めのような場所だったようで、衛生環境も最悪だったと聞く。かつてここに住んだことのある小説家ヘミングウェイもその様子を酷評しているようだ。
・カルチェ・ラタン
ムフタール通りに続くデカルト(Descartes)通りを歩き、サンテチエンヌ・デュ・モン(St. Étienne du Mont)教会の脇から、午前中横目に見たパンテオンの裏手に出る。この周辺にはアンリ4世(Henri Ⅳ)高等学校、パリ大学法学部、ソルボンヌなどが集中し、時刻はちょうど15時頃、授業が終わったと見えて多くの学生が広場に集まっている。フランス人はふにゃふにゃと議論を重ねるのが大好きなようで、大勢が立ち話をして盛り上がったり、座り込んで難しい顔をしながら課題だかレポートだかに向き合ったり、ただ友人どうしで集まって談笑していたり、といった姿がそこら中に見受けられる。総じて感じたのは、こちらの学生はみな質素で堅実、そして勉学に真面目ということで、自分が普段目にしているところの日本の大学生とは生活のスタイルが根本的に違うように思われる。本来のあるべき姿とはこういうものなのかもしれない。それと、各々が自分の意見を持っていて、それらを自由にぶつけあっているように見えるのもまた面白い。個人的に「空気を読む」という日本語はいかにも同調的そして迎合的な感じがあって嫌いなのだが、「これを言ったらどう思われるか、場にそぐわないのではないか」などということは誰一人気にせず、かりに意見が衝突したにしても互いの考えが尊重されるという風土が感じられる。むろん、各々が自由奔放に放言することが必ずしも全体の利益になるとは限らないが、少なくとも革新的な結論や斬新な発想が得られる機会ははるかに大きくなると思うわけだ。ただ残念なことに、議論において「節度を守る」ことはすなわち「空気を読む」ことだと勘違いしている人が多い。
・クリュニー中世博物館
朝も通ったソルボンヌの先にはクリュニー中世博物館がある。ここはかつての修道院を改装して博物館とした建物で、意外とマイナーなようだが展示内容は圧巻。とくに、ガラスケースに入れられたおびただしい数の金属細工には目を見張るものがある。どれもキリスト教にまつわるものばかりだが、宗教が人を国を動かし、文化を民族を形作ってきたことを改めて実感する。どの一つ一つにも大きさのわりにただならぬ迫力が感じられ、夜に訪れたらなかなか恐ろしい雰囲気になりそうである。もう一つの目玉は『貴婦人と一角獣』と名付けられたタペストリーで、五感すなわち視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚に加え、謎の第六感を表現した六枚組の連作。赤い背景と緑の地面が補色をなして鮮やかである。15世紀末に作られたものらしいが、これほどの作品を織るには一体どれほどの手間がかかっているのだろう。第六感は「我が唯一つの望みに」と呼ばれ、愛や理解だと解釈されるらしい。
・サン・シュルピス教会
博物館を出た後は、エコール・ド・メドゥシンヌ(École de Médechine)通りに入る。この通りは両側をパリ大学医学部に挟まれていて、医学書だけを専門に扱ったVigot Maloineという大きな書店もあり非常に興味深い。信濃町の貧弱な生協に比べるとその品揃えはすさまじい。その後サン・ジェルマン大通りに出てしばらく西進し、フール(Four)通り、マビヨン(Mabillon)通りを経由してサン・シュルピス教会に至る。この教会は小説『ダ・ヴィンチ・コード』で有名になった。内部には確かに演壇を斜めに横切る真鍮製の「ローズライン」があったが、これは左手にあるオベリスクと合わせて「グノモン(gnomon)」と呼ばれる中世の天文観測器であって「ローズライン」とは呼ばないこと、またここが異教徒の教会ではなかったこと、小説の「シオン修道会」は架空のものであることなどが説明されていた。つまり聖杯伝説とは何の関係もないということらしい。あとはドラクロワの壁画『ヤコブと天使の闘い』を見てから教会を後にした。
夕食は宿近くのサン・トーギュスタン(St. Augustin)通りにある「金太郎」という定食屋に入った。去年も訪れたが、なかなか美味しい。
写真
1枚目:リュクサンブール公園
2枚目:ムフタール通り
3枚目:サン・シュルピス教会
3426文字
フランス旅行 4日目
2012年3月13日 鉄道と旅行
ワイン街道をゆく。
・TERの旅
ゆったりとした朝を過ごした後、コルマールへ向かう。コルマールはストラスブールの南方75kmに位置する街で、アルザスのワイン街道の中心都市でもある。街道を巡るツアーに昨日申し込んでおいたのが午後のコルマール出発までは時間があるので、午前中にコルマール入りして軽く観光を行う。ストラスブール~コルマール間は毎時一本の間隔でTERが運行しており、75kmをたったの30分で結ぶというかなりの俊足ぶりである。切符は駅の券売機で簡単に買えるかと思いきや、支払いの段階になってカード払いしかできないことに気が付く。結局窓口に並び直したが、こちらの人々は後ろの行列を気にかけることもなく、あーでもないこーでもないとぐだぐだ職員と相談をしている。職員も職員で、並ぶ人が増えてきたからといって新しく窓口を開けるという発想もなく、また行列の人々も別段急くことなくのんびりしている。ようやく自分の番が回ってきてコルマールまでの往復乗車券を手に入れることができたが、時刻はちょうど9時51分。急いでホームへ向かったものの列車はすでに動き始めており、タッチの差で乗り遅れてしまった。何という失策、こうなったら1時間後の次発を待つほかない。
列車は客車で編成されている。機関車はストラスブール方の最後尾に連結されているが、客車の先頭車には運転台が設置されているのでここから機関車を遠隔運転することになる。日本ではまず見かけない運転方式だが、さすがは動力集中方式の欧州である。車内は2等でもかなり快適で、座席はふかふか、客室も広い。TERは都市間の快速列車に相当する種別だが、速達性の面でも車内設備の面でも日本の在来線特急を上回っていると言わざるを得ない。走り出しもびっくりするほどスムーズで、まるで舟がすっと滑り出すかのよう。いつ動き出したのか気が付かないほどである。連結器が優れているためか、日本で感じる客車列車特有の振動など微塵もない。走行も極めて安定していて、ぐいぐいと速度を上げていくも揺れはほとんどない。これが標準軌の安定感ということだろう。
進行方向右手の車窓を見ると、手前はただひたすらに農地が広がり、遠景にはヴォージュ山脈がそびえている。鉄道から少し離れたところには小さな村々が点在する。どの村にも必ず教会があり、島のようにかたまった家並から鐘楼が頭を出しているのが目立つ。昨年もそうだったが渡欧して改めて感じるのは宗教、ことにキリスト教の強大な力で、大昔から人々の信仰を集めたことは間違いない事実であろうが、ステンドグラスに描かれた聖書、おどろおどろしい彫刻の数々などを通し、悪行をはたらけば死後煉獄に堕ちると半ば脅しながら、町や村のすみずみにまで及ぶ地方の統治機関であったと同時に教育機関でもあり、したがって各々の文化の発展に相当な影響を与えたこともまた確かだろう。
・コルマール
コルマール駅前のLCAトップツアーという旅行業の事務所を訪ね、13時25分に駅前に再集合するよう伝えられる。日本語が通じるのが便利である。コルマールもストラスブールと同様、旧市街には古い木組みの家が立ち並び、プチット・ヴニーズ(Petit Venise)と呼ばれる運河沿いの一帯は特に美しい。その他の旧市街はやや雑然としていて、ストラスブールのような穏やかな感じはあまり見られない。北側にはサン・マルタン(St-Martin)大聖堂、ドミニカン(Dominicains)教会、ウンターリンデン(Unterlinden)美術館などの建物が集中している。大聖堂は意外にも質素な外観で、ストラスブールのノートル・ダムのような派手な装飾などもなく、ただ黙々と石を積み上げて完成した建築であるように見える。ただ、バラ色の砂岩はここでも同じである。列車を一本逃したためにあまり時間がなかったので、ひと通りの見どころをざっと散策し、最後はレピュブリック(République)通りを歩いて駅前へと戻って来た。今日初めて知ったが、自由の女神像の作者バルトルディ(Bartholdi)はここコルマールの出身だそうだ。
・オー・ケーニグスブール城
午後はワイン街道を巡るツアーである。他の日本人二人組との同乗で、ツアーといえどもまるでハイヤーのようだ。運転手のJohn氏は自らをアルザス人といい、アルザス語とフランス語とドイツ語と英語を話すという。日本にも三年ほど住まわれていたということで日本語もかなり流暢で驚いた。アルザス語はフランス語とドイツ語が混ざったようなこの地方独特の言語である。行政上はフランス、文化圏としてはドイツ、といったように、仏独がアルザス地方の取り合いをしてきた複雑な歴史的経緯が至るところにおいて窺える。ドイツ国境のライン(Rhein)河まではここから車で20分ほどの距離で、フランスの人が向こうへ買い物に行ったり、その逆も然りといったようなことが普通だという。国どうしが陸続きで接しているがために互いの文化が絶妙に混ざり合うこの感覚は、島国の日本で永らく暮らした身としては非常に斬新であり、またなかなか具体的な想像のつかないものでもある。
車は高速道路に乗り、ストラスブール方面へ北上を開始した。30分ほどで最初の目的地、オー・ケーニグスブール城に到着するという。高速を降りてから山の方に向かって走っていくと、サン・ティポリット(Saint-Hyppolyte)という小村に入った。目抜き通りを走ればものの3分程度で村の境界まで来てしまった。こういった地方の村は城壁の名残があるためか、とにかく内と外の境界が明確で面白い。上空から見下ろせば、きっとブドウ畑に浮かぶ島々のように見えることだろう。村を出てつづら折りの山道を登っていくと城に到着である。オー・ケーニグスブール城は標高755mの山頂に立つ城塞で、12世紀にはその記述が文献に登場するというアルザス地方随一の古城である。三十年戦争で陥落して以来、2世紀にわたって放置されていたところを19世紀に修復され、現在は中世からの城の歴史を展示する博物館の役割も果たしている。城壁には、ストラスブールやコルマールの大聖堂と同じバラ色の砂岩が用いられ、何処となく壮大で力強い印象を与える。この砂岩はヴォージュ山脈の山々から切り出されてきたものだという。ひんやりとした内部を歩くといかにも中世の城といった雰囲気で、血なまぐさい歴史も垣間見える。銃眼がのぞく大城砦から眺める展望は美しい。すぐ麓に見えるのは先ほど通って来たサン・ティポリットの村、その向こう側に大きく展開しているのはセレスタ(Sélestat)の街である。澄んだ日にはドイツ国境を越えてシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)も見えるというが、残念ながら遠景はかなり霞んでいた。
・リボヴィレ
一時間ほどの観光の後、城を後にする。サン・ティポリットのブドウ畑で停車してくれた。この季節は当然ながら葉も茂っていなければ実もついていないが、すでにシーズンに備えメインの枝を二本に落とす枝打ちが行われているらしい。ワイン畑の海に浮かぶように村が島のごとく点在し、中世から続く街道がそれらを結んでいる。ブドウの季節にここを訪れたらどれほど綺麗だっただろうか。ロルシュヴィア(Rorschwihr)、ベルクハイム(Bergheim)といういかにもドイツ風の名前の村を通過し、リボヴィレに到着。ここもまたおとぎ話に出てくるような出で立ちの村で、ストラスブールやコルマールとよく似てはいるが、いくぶんひなびた風情があって良い。この時期になるとここ一帯にはコウノトリが飛来することも有名で、建物の屋根や塔の上に営巣している姿をしばしば見かける。ちょうど一週間ほど前にやって来たところだそうで、実にタイミングが良かった。アルザス地方との縁は深く、15世紀くらいからコウノトリはこの地方のシンボルとなっているようだ。
・リクヴィール
最後にリクヴィール村を訪れる。どの村も同じような姿をしているが、ここは目下大規模な工事中であった。石畳を剥がしたり建物を改修したりと、夏の観光ハイシーズンに向けて大忙しである。実際のところ、最多客期には一日二万人がこの村を訪れるというから驚く。フランス国内はもとより、近隣のドイツやスイスからの観光客もかなり多いのではないかと推測するところである。リクヴィールでは、DOPFF&IRIONという店でワインの試飲を行った。ワインについては全くの素人なので何も分からないが、口にしたのは次の6本。
①はスパークリングワインで、注ぎたての泡が売りらしい。かなりさっぱりしていて飲みやすいが、喉越しはアサヒスーパードライに近いw ②はマスカットのワイン。日本人に人気だというが、アルコールっぽさがなく軽いジュース感覚で飲めるところが受けるのかもしれない。③はリースリングという品種のワイン。フルーティーながらも確固たる芯があり、するすると飲みやすく純粋に美味しい。ワインと日本酒を比べること自体が論外かもしれないが、味わいこそ全く異なるものの感覚としては〆張鶴「純」に通じるところがある。意外と刺身にも合いそう。④のゲヴュルツトラミネールはアルザス地方を代表する品種で、香り高く甘酸っぱい。⑤は③と同じ畑のリースリングでも遅摘みのものなので全く味わいは異なり、かなりまろやかで深遠な味になる。⑥は貴腐ワインで、初めて飲んだがまるでリキュールのようなとろみのある極甘口。アイスクリームにかけると良さそうで、これは完全にデザート。結局、③と⑤を土産に買う。
余った時間でリクヴィール村の散策を行うが、少し歩いただけですぐに村の果てまで来てしまった。そろそろ日没が近くなり、村には灯りもぼちぼちともり始めたところである。あとは車でコルマールへ戻るのみ。このツアーは大正解であった。やはり、地元を知り尽くしている人に案内してもらうのが確かで間違いない。
・帰路
TERとTGVを乗り継いでパリへ戻る。ストラスブール駅で写真を撮っていたら、二人のSNCF職員がにこやかに画面に入ってきた。鉄道を撮る人はこちらではよほど珍しいらしい。これほど豊かな国土や先進的なシステムが充実しているというのに、鉄道趣味が相当にマイナーなのはどうも不思議である。東駅からはタクシーで宿へ戻った。
写真
1枚目:プチット・ヴニーズ
2枚目:オー・ケーニグスブール城からの眺め
3枚目:ワイン街道からの景色
5055文字
3/13
Strasbourg 1051 → Colmar 1123
TER 96217
コルマール(Colmar)
オー・ケーニグスブール(Haut-Kœnigsbourg)城、
リボヴィレ(Ribeauvillé)村、リクヴィール(Riquewihr)村
Colmar 1837 → Strasbourg 1909
TER 96236
Strasbourg 2016 → Paris Est 2235
TGV 2460
パリ泊
Baudelaire Opéra
・TERの旅
ゆったりとした朝を過ごした後、コルマールへ向かう。コルマールはストラスブールの南方75kmに位置する街で、アルザスのワイン街道の中心都市でもある。街道を巡るツアーに昨日申し込んでおいたのが午後のコルマール出発までは時間があるので、午前中にコルマール入りして軽く観光を行う。ストラスブール~コルマール間は毎時一本の間隔でTERが運行しており、75kmをたったの30分で結ぶというかなりの俊足ぶりである。切符は駅の券売機で簡単に買えるかと思いきや、支払いの段階になってカード払いしかできないことに気が付く。結局窓口に並び直したが、こちらの人々は後ろの行列を気にかけることもなく、あーでもないこーでもないとぐだぐだ職員と相談をしている。職員も職員で、並ぶ人が増えてきたからといって新しく窓口を開けるという発想もなく、また行列の人々も別段急くことなくのんびりしている。ようやく自分の番が回ってきてコルマールまでの往復乗車券を手に入れることができたが、時刻はちょうど9時51分。急いでホームへ向かったものの列車はすでに動き始めており、タッチの差で乗り遅れてしまった。何という失策、こうなったら1時間後の次発を待つほかない。
列車は客車で編成されている。機関車はストラスブール方の最後尾に連結されているが、客車の先頭車には運転台が設置されているのでここから機関車を遠隔運転することになる。日本ではまず見かけない運転方式だが、さすがは動力集中方式の欧州である。車内は2等でもかなり快適で、座席はふかふか、客室も広い。TERは都市間の快速列車に相当する種別だが、速達性の面でも車内設備の面でも日本の在来線特急を上回っていると言わざるを得ない。走り出しもびっくりするほどスムーズで、まるで舟がすっと滑り出すかのよう。いつ動き出したのか気が付かないほどである。連結器が優れているためか、日本で感じる客車列車特有の振動など微塵もない。走行も極めて安定していて、ぐいぐいと速度を上げていくも揺れはほとんどない。これが標準軌の安定感ということだろう。
進行方向右手の車窓を見ると、手前はただひたすらに農地が広がり、遠景にはヴォージュ山脈がそびえている。鉄道から少し離れたところには小さな村々が点在する。どの村にも必ず教会があり、島のようにかたまった家並から鐘楼が頭を出しているのが目立つ。昨年もそうだったが渡欧して改めて感じるのは宗教、ことにキリスト教の強大な力で、大昔から人々の信仰を集めたことは間違いない事実であろうが、ステンドグラスに描かれた聖書、おどろおどろしい彫刻の数々などを通し、悪行をはたらけば死後煉獄に堕ちると半ば脅しながら、町や村のすみずみにまで及ぶ地方の統治機関であったと同時に教育機関でもあり、したがって各々の文化の発展に相当な影響を与えたこともまた確かだろう。
・コルマール
コルマール駅前のLCAトップツアーという旅行業の事務所を訪ね、13時25分に駅前に再集合するよう伝えられる。日本語が通じるのが便利である。コルマールもストラスブールと同様、旧市街には古い木組みの家が立ち並び、プチット・ヴニーズ(Petit Venise)と呼ばれる運河沿いの一帯は特に美しい。その他の旧市街はやや雑然としていて、ストラスブールのような穏やかな感じはあまり見られない。北側にはサン・マルタン(St-Martin)大聖堂、ドミニカン(Dominicains)教会、ウンターリンデン(Unterlinden)美術館などの建物が集中している。大聖堂は意外にも質素な外観で、ストラスブールのノートル・ダムのような派手な装飾などもなく、ただ黙々と石を積み上げて完成した建築であるように見える。ただ、バラ色の砂岩はここでも同じである。列車を一本逃したためにあまり時間がなかったので、ひと通りの見どころをざっと散策し、最後はレピュブリック(République)通りを歩いて駅前へと戻って来た。今日初めて知ったが、自由の女神像の作者バルトルディ(Bartholdi)はここコルマールの出身だそうだ。
・オー・ケーニグスブール城
午後はワイン街道を巡るツアーである。他の日本人二人組との同乗で、ツアーといえどもまるでハイヤーのようだ。運転手のJohn氏は自らをアルザス人といい、アルザス語とフランス語とドイツ語と英語を話すという。日本にも三年ほど住まわれていたということで日本語もかなり流暢で驚いた。アルザス語はフランス語とドイツ語が混ざったようなこの地方独特の言語である。行政上はフランス、文化圏としてはドイツ、といったように、仏独がアルザス地方の取り合いをしてきた複雑な歴史的経緯が至るところにおいて窺える。ドイツ国境のライン(Rhein)河まではここから車で20分ほどの距離で、フランスの人が向こうへ買い物に行ったり、その逆も然りといったようなことが普通だという。国どうしが陸続きで接しているがために互いの文化が絶妙に混ざり合うこの感覚は、島国の日本で永らく暮らした身としては非常に斬新であり、またなかなか具体的な想像のつかないものでもある。
車は高速道路に乗り、ストラスブール方面へ北上を開始した。30分ほどで最初の目的地、オー・ケーニグスブール城に到着するという。高速を降りてから山の方に向かって走っていくと、サン・ティポリット(Saint-Hyppolyte)という小村に入った。目抜き通りを走ればものの3分程度で村の境界まで来てしまった。こういった地方の村は城壁の名残があるためか、とにかく内と外の境界が明確で面白い。上空から見下ろせば、きっとブドウ畑に浮かぶ島々のように見えることだろう。村を出てつづら折りの山道を登っていくと城に到着である。オー・ケーニグスブール城は標高755mの山頂に立つ城塞で、12世紀にはその記述が文献に登場するというアルザス地方随一の古城である。三十年戦争で陥落して以来、2世紀にわたって放置されていたところを19世紀に修復され、現在は中世からの城の歴史を展示する博物館の役割も果たしている。城壁には、ストラスブールやコルマールの大聖堂と同じバラ色の砂岩が用いられ、何処となく壮大で力強い印象を与える。この砂岩はヴォージュ山脈の山々から切り出されてきたものだという。ひんやりとした内部を歩くといかにも中世の城といった雰囲気で、血なまぐさい歴史も垣間見える。銃眼がのぞく大城砦から眺める展望は美しい。すぐ麓に見えるのは先ほど通って来たサン・ティポリットの村、その向こう側に大きく展開しているのはセレスタ(Sélestat)の街である。澄んだ日にはドイツ国境を越えてシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)も見えるというが、残念ながら遠景はかなり霞んでいた。
・リボヴィレ
一時間ほどの観光の後、城を後にする。サン・ティポリットのブドウ畑で停車してくれた。この季節は当然ながら葉も茂っていなければ実もついていないが、すでにシーズンに備えメインの枝を二本に落とす枝打ちが行われているらしい。ワイン畑の海に浮かぶように村が島のごとく点在し、中世から続く街道がそれらを結んでいる。ブドウの季節にここを訪れたらどれほど綺麗だっただろうか。ロルシュヴィア(Rorschwihr)、ベルクハイム(Bergheim)といういかにもドイツ風の名前の村を通過し、リボヴィレに到着。ここもまたおとぎ話に出てくるような出で立ちの村で、ストラスブールやコルマールとよく似てはいるが、いくぶんひなびた風情があって良い。この時期になるとここ一帯にはコウノトリが飛来することも有名で、建物の屋根や塔の上に営巣している姿をしばしば見かける。ちょうど一週間ほど前にやって来たところだそうで、実にタイミングが良かった。アルザス地方との縁は深く、15世紀くらいからコウノトリはこの地方のシンボルとなっているようだ。
・リクヴィール
最後にリクヴィール村を訪れる。どの村も同じような姿をしているが、ここは目下大規模な工事中であった。石畳を剥がしたり建物を改修したりと、夏の観光ハイシーズンに向けて大忙しである。実際のところ、最多客期には一日二万人がこの村を訪れるというから驚く。フランス国内はもとより、近隣のドイツやスイスからの観光客もかなり多いのではないかと推測するところである。リクヴィールでは、DOPFF&IRIONという店でワインの試飲を行った。ワインについては全くの素人なので何も分からないが、口にしたのは次の6本。
① Crément d’Alsace
② Muscat
③ Riesling 2007
④ Gewurztraminer 2008
⑤ Riesling 2007 (Vendanges Tardives)
⑥ Gewurztraminer 2005 (Sélection de Grains Nobles)
①はスパークリングワインで、注ぎたての泡が売りらしい。かなりさっぱりしていて飲みやすいが、喉越しはアサヒスーパードライに近いw ②はマスカットのワイン。日本人に人気だというが、アルコールっぽさがなく軽いジュース感覚で飲めるところが受けるのかもしれない。③はリースリングという品種のワイン。フルーティーながらも確固たる芯があり、するすると飲みやすく純粋に美味しい。ワインと日本酒を比べること自体が論外かもしれないが、味わいこそ全く異なるものの感覚としては〆張鶴「純」に通じるところがある。意外と刺身にも合いそう。④のゲヴュルツトラミネールはアルザス地方を代表する品種で、香り高く甘酸っぱい。⑤は③と同じ畑のリースリングでも遅摘みのものなので全く味わいは異なり、かなりまろやかで深遠な味になる。⑥は貴腐ワインで、初めて飲んだがまるでリキュールのようなとろみのある極甘口。アイスクリームにかけると良さそうで、これは完全にデザート。結局、③と⑤を土産に買う。
余った時間でリクヴィール村の散策を行うが、少し歩いただけですぐに村の果てまで来てしまった。そろそろ日没が近くなり、村には灯りもぼちぼちともり始めたところである。あとは車でコルマールへ戻るのみ。このツアーは大正解であった。やはり、地元を知り尽くしている人に案内してもらうのが確かで間違いない。
・帰路
TERとTGVを乗り継いでパリへ戻る。ストラスブール駅で写真を撮っていたら、二人のSNCF職員がにこやかに画面に入ってきた。鉄道を撮る人はこちらではよほど珍しいらしい。これほど豊かな国土や先進的なシステムが充実しているというのに、鉄道趣味が相当にマイナーなのはどうも不思議である。東駅からはタクシーで宿へ戻った。
写真
1枚目:プチット・ヴニーズ
2枚目:オー・ケーニグスブール城からの眺め
3枚目:ワイン街道からの景色
5055文字
フランス旅行 3日目
2012年3月12日 鉄道と旅行
アルザス地方へ。
・一路東進
7時半頃に宿を出て、メトロで東駅へ向かう。東欧方面の長距離列車が数多く発着するこの駅はコンコースも広く立派である。トーマス・クック時刻表によれば8時24分発のモスクワ行夜行列車があるはずなのだが、どうやらその表示が出ていない。勘違いをしたか。それはそうと、写真を撮るのに心を奪われ、切符の刻印(コンポスタージュ)を行うのをすっかり忘れていた。気付いたのはTGVの指定の座席に着いてからしばらく経ってからで、もはや発車直前時刻であった。これは検札で罰金を払うことになるのかと思いきや、ボックス向かい側の青年グループや通路向かいの人々もどうやら切符に刻印をしていないように見受けられる。結局、検札時には何も言われることはなかった。これは終点ストラスブールまでのノンストップ列車であるから、特に問題はないのだろう。
専用線に入ったTGVは快調に飛ばしてゆく。有り余る土地を贅沢に鉄道用地として利用し、広大な平原の中を一直線に突き抜ける。車窓は濃い朝霧。ドライアイスのように煙る空気を通して車内に差し込む朝日は、眠い目には鈍くも眩しい。パリを少し離れただけでまるで十勝平野のような景色、これぞ農業大国フランスの姿である。出発2時間弱で列車は専用線を降り、車窓は突如山線へと変貌する。ヴォージュ(Vosges)山脈の北端を越え、まさにロレーヌ(Lorraine)からアルザス(Alsace)へ入ろうとしているところだ。右へ左へとカーブが連続し、低速ながらかなり横揺れするのであまり快適ではない。フランスの鉄道はその大部分の線形が良いために、こうした山越え区間の運転は得意ではないのだろう。悪い線形など当たり前という日本では、振子式車両を導入しているところである。貨物駅を横目に、少し遠くには大聖堂の尖塔が見えてきた。定刻にストラスブールに到着である。
・ストラスブール
宿の手配はしていなかったので、まずはホテルを探す。一軒目のMaison Rougeはあいにく満室、二軒目のHôtel de l’Europeは幸いにも唯一の空室があり、それも普通であれば上等の部屋に廉価で泊まることができた。当日だとこういうことがあるから面白い。高い正規料金を示して他のホテルに行かれるよりも、安くても泊まってもらった方が得ということだろう。荷物を置いた後は、街の散策に出かけるとする。
ストラスブールはアルザス地方の中心都市で、ドイツ領になったりフランス領になったりを繰り返してきた複雑な過去を持つ。アルザスはドイツの影響を受けつつも独自の文化を育んできたとはいわれるが、文化圏としては完全にドイツに属するだろう。イル(Ill)川に囲まれた島には、まるでおとぎ話に出てくるような白壁に黒い木組みの家々が美しい町並を作っている。とくにプチット・フランス(Petite France)と呼ばれる一帯は、穏やかな運河沿いにこれらの家々が立ち並び、今日のように晴れた日の散策には絶好の場所である。街をゆく人々の体格や表情もパリとは全く異なり、みな背が高く頑健そうで、ゲルマン民族の血がかなり濃いようだ。
ホテルからほど近いプチット・フランス付近を歩いた後、島の西端で運河沿いにあるブラッセリー、Au Petit Bois Vertで昼食をとる。アルザス名物と言われるシュークルート(choucroute)やタルト・フランベ(tarte flambée)を注文。ビールはプランタン(Printemps)を薦められたが、褐色調でコクがありながらもかなり飲みやすい。シュークルートは豚肉とソーセージにジャガイモとザワークラフト(酸味のあるキャベツの漬物)をつけ合わせた素朴な郷土料理で、漬物の酸味と肉の味が絶妙に合う。タルト・フランベは薄いピザのような料理で、クリームチーズが具と一緒になっていて美味しい。一皿の量が莫大で日本で言うところの二人前くらいはあるだろう。満腹感は大きい。川には島を一周する遊覧船がゆったりと巡航し、岸辺には昼下がりの温かい日差しの中、人々が思い思いの時間を過ごしている。
食後は中洲に架かる橋を渡りながらそぞろ歩き。島内の旧市街に入ると、漆喰塗りの建物の合間を狭い石畳の道が縫うように走っている。地震など到底起こり得ないから、こういう古い町並が現在に至るまで残っているのだろう。大通りにはトラムが走っている。白いヘビのような車両で、洗練された近代的デザインが意外と旧市街の風景にうまく溶け込んでいて面白い。さらに東へ歩いていくと、ノートル・ダム(Notre-Dame)大聖堂の尖塔が姿を現してきた。聖堂前の広場に出ると、息をのむほど巨大にして壮麗なファサードが視界に飛び込んでくる。11世紀ゴシック建築の傑作で、天を突く尖塔は142mもあるという。レース模様のような緻密な造形にはただただ驚嘆するばかりで、重機の一つさえなかった時代によくぞ石を積み上げてこれほどの建築を完成させたものである。淡いピンク色の石は午後の柔らかい日差しを受けるが、ファサード装飾の微細な凹凸はそれぞれが黒い影を形作っていて、まるでどこかの生きた組織を目にしているかのようだ。
聖堂の内部を見学した後、周囲を散策。この辺りは学生が多い。ストラスブールで最も美しいといわれるカンメルゼン(Kammerzell)の家は聖堂のすぐそばにあった。その後、広場のカフェで休憩。気が付けばもう夕方である。賑やかなグーテンベルグ(Gutenberg)広場を通り過ぎ、Charles Woerléという菓子屋でショウガのクッキーを買った。アルザス地方の素朴な菓子だという。サン・トマ(St-Thomas)教会を横目にプチット・フランスの方角へ歩き、夕暮れの運河沿いへと戻って来る。サン・マルタン(Saint-Martin)橋から眺めるプチット・フランスのライトアップは意外にも控えめであるが、水門の近くの川面はカラフルに彩られている。夕食は橋のたもとにあるその名もAu Pont Saint Martanというレストランに入った。山羊のチーズのサラダ、鶏肉の白ワイン煮など、今宵の食卓にもアルザスの郷土料理が並ぶ。鶏肉は実に柔らかく美味。アルザスのワインは辛口の白が主体だが、唯一の赤ワインにピノ・ノワール(Pinot Noir)がある。香り高いが、料理に合って飲みやすかった。レストランは運河沿いの三層構造の建物で、下層は水面と同じ高さにあるのできっと船に乗っているような気分だろう。店内は船室をイメージした木目調でまとめられている。上層には団体客が入っているようだ。もう一度ストラスブールを訪れることがあれば、是非とも再訪したいところである。
食後は、ふたたび大聖堂を見に行ってから宿へ戻った。荘厳ながらも不気味にライトアップされた大聖堂はぞっと夜闇に浮かび上がり、何とも形容しがたい異様な貫録を見せつけてくる。広場で独り笛を吹く男がいた。哀愁漂うメロディーがストラスブールの夜に響き渡る。
写真
1枚目:シュークルート
2枚目:プチット・フランス
3枚目:ノートル・ダム大聖堂
3216文字
3/12
Opéra → Gare de l’Est
メトロ【7】号線
Paris Est 825 → Strasbourg 1044
TGV 2407
ストラスブール観光
ストラスブール泊
Hôtel de l’Europe
・一路東進
7時半頃に宿を出て、メトロで東駅へ向かう。東欧方面の長距離列車が数多く発着するこの駅はコンコースも広く立派である。トーマス・クック時刻表によれば8時24分発のモスクワ行夜行列車があるはずなのだが、どうやらその表示が出ていない。勘違いをしたか。それはそうと、写真を撮るのに心を奪われ、切符の刻印(コンポスタージュ)を行うのをすっかり忘れていた。気付いたのはTGVの指定の座席に着いてからしばらく経ってからで、もはや発車直前時刻であった。これは検札で罰金を払うことになるのかと思いきや、ボックス向かい側の青年グループや通路向かいの人々もどうやら切符に刻印をしていないように見受けられる。結局、検札時には何も言われることはなかった。これは終点ストラスブールまでのノンストップ列車であるから、特に問題はないのだろう。
専用線に入ったTGVは快調に飛ばしてゆく。有り余る土地を贅沢に鉄道用地として利用し、広大な平原の中を一直線に突き抜ける。車窓は濃い朝霧。ドライアイスのように煙る空気を通して車内に差し込む朝日は、眠い目には鈍くも眩しい。パリを少し離れただけでまるで十勝平野のような景色、これぞ農業大国フランスの姿である。出発2時間弱で列車は専用線を降り、車窓は突如山線へと変貌する。ヴォージュ(Vosges)山脈の北端を越え、まさにロレーヌ(Lorraine)からアルザス(Alsace)へ入ろうとしているところだ。右へ左へとカーブが連続し、低速ながらかなり横揺れするのであまり快適ではない。フランスの鉄道はその大部分の線形が良いために、こうした山越え区間の運転は得意ではないのだろう。悪い線形など当たり前という日本では、振子式車両を導入しているところである。貨物駅を横目に、少し遠くには大聖堂の尖塔が見えてきた。定刻にストラスブールに到着である。
・ストラスブール
宿の手配はしていなかったので、まずはホテルを探す。一軒目のMaison Rougeはあいにく満室、二軒目のHôtel de l’Europeは幸いにも唯一の空室があり、それも普通であれば上等の部屋に廉価で泊まることができた。当日だとこういうことがあるから面白い。高い正規料金を示して他のホテルに行かれるよりも、安くても泊まってもらった方が得ということだろう。荷物を置いた後は、街の散策に出かけるとする。
ストラスブールはアルザス地方の中心都市で、ドイツ領になったりフランス領になったりを繰り返してきた複雑な過去を持つ。アルザスはドイツの影響を受けつつも独自の文化を育んできたとはいわれるが、文化圏としては完全にドイツに属するだろう。イル(Ill)川に囲まれた島には、まるでおとぎ話に出てくるような白壁に黒い木組みの家々が美しい町並を作っている。とくにプチット・フランス(Petite France)と呼ばれる一帯は、穏やかな運河沿いにこれらの家々が立ち並び、今日のように晴れた日の散策には絶好の場所である。街をゆく人々の体格や表情もパリとは全く異なり、みな背が高く頑健そうで、ゲルマン民族の血がかなり濃いようだ。
ホテルからほど近いプチット・フランス付近を歩いた後、島の西端で運河沿いにあるブラッセリー、Au Petit Bois Vertで昼食をとる。アルザス名物と言われるシュークルート(choucroute)やタルト・フランベ(tarte flambée)を注文。ビールはプランタン(Printemps)を薦められたが、褐色調でコクがありながらもかなり飲みやすい。シュークルートは豚肉とソーセージにジャガイモとザワークラフト(酸味のあるキャベツの漬物)をつけ合わせた素朴な郷土料理で、漬物の酸味と肉の味が絶妙に合う。タルト・フランベは薄いピザのような料理で、クリームチーズが具と一緒になっていて美味しい。一皿の量が莫大で日本で言うところの二人前くらいはあるだろう。満腹感は大きい。川には島を一周する遊覧船がゆったりと巡航し、岸辺には昼下がりの温かい日差しの中、人々が思い思いの時間を過ごしている。
食後は中洲に架かる橋を渡りながらそぞろ歩き。島内の旧市街に入ると、漆喰塗りの建物の合間を狭い石畳の道が縫うように走っている。地震など到底起こり得ないから、こういう古い町並が現在に至るまで残っているのだろう。大通りにはトラムが走っている。白いヘビのような車両で、洗練された近代的デザインが意外と旧市街の風景にうまく溶け込んでいて面白い。さらに東へ歩いていくと、ノートル・ダム(Notre-Dame)大聖堂の尖塔が姿を現してきた。聖堂前の広場に出ると、息をのむほど巨大にして壮麗なファサードが視界に飛び込んでくる。11世紀ゴシック建築の傑作で、天を突く尖塔は142mもあるという。レース模様のような緻密な造形にはただただ驚嘆するばかりで、重機の一つさえなかった時代によくぞ石を積み上げてこれほどの建築を完成させたものである。淡いピンク色の石は午後の柔らかい日差しを受けるが、ファサード装飾の微細な凹凸はそれぞれが黒い影を形作っていて、まるでどこかの生きた組織を目にしているかのようだ。
聖堂の内部を見学した後、周囲を散策。この辺りは学生が多い。ストラスブールで最も美しいといわれるカンメルゼン(Kammerzell)の家は聖堂のすぐそばにあった。その後、広場のカフェで休憩。気が付けばもう夕方である。賑やかなグーテンベルグ(Gutenberg)広場を通り過ぎ、Charles Woerléという菓子屋でショウガのクッキーを買った。アルザス地方の素朴な菓子だという。サン・トマ(St-Thomas)教会を横目にプチット・フランスの方角へ歩き、夕暮れの運河沿いへと戻って来る。サン・マルタン(Saint-Martin)橋から眺めるプチット・フランスのライトアップは意外にも控えめであるが、水門の近くの川面はカラフルに彩られている。夕食は橋のたもとにあるその名もAu Pont Saint Martanというレストランに入った。山羊のチーズのサラダ、鶏肉の白ワイン煮など、今宵の食卓にもアルザスの郷土料理が並ぶ。鶏肉は実に柔らかく美味。アルザスのワインは辛口の白が主体だが、唯一の赤ワインにピノ・ノワール(Pinot Noir)がある。香り高いが、料理に合って飲みやすかった。レストランは運河沿いの三層構造の建物で、下層は水面と同じ高さにあるのできっと船に乗っているような気分だろう。店内は船室をイメージした木目調でまとめられている。上層には団体客が入っているようだ。もう一度ストラスブールを訪れることがあれば、是非とも再訪したいところである。
食後は、ふたたび大聖堂を見に行ってから宿へ戻った。荘厳ながらも不気味にライトアップされた大聖堂はぞっと夜闇に浮かび上がり、何とも形容しがたい異様な貫録を見せつけてくる。広場で独り笛を吹く男がいた。哀愁漂うメロディーがストラスブールの夜に響き渡る。
写真
1枚目:シュークルート
2枚目:プチット・フランス
3枚目:ノートル・ダム大聖堂
3216文字
フランス旅行 2日目
2012年3月11日 鉄道と旅行
モンマルトルとエッフェル塔を回る。
・指定券購入
パリで迎える初めての朝である。まずは明日・明後日のストラスブール(Strasbourg)往復、そして四日後のモン・サン・ミッシェル(Mont St. Michel)往復のTGV指定券を手に入れるべく、最寄りの国鉄駅サン・ラザールまで歩く。キャトル・セプタンブル(Quatre Septembre)通りとオーベール(Auber)通りを経由して、1kmあまりだろうか。日曜日の朝は人通りが少なくすがすがしい。空は淡い灰色に曇っている。駅の窓口は英語が通じるとはいえ、こういう切符の手配となると予め書いたメモを持っていくのがやはり確実である。
・モンマルトルの丘
今日はモンマルトルの丘を散策しよう。サン・ラザールから12号線で北上し、ピガール(Pigalle)で2号線に乗り換え、アンヴェール(Anvers)で降りる。地上に出るとすぐにサクレ・クール大聖堂へと向かう坂道が続く。両脇に粗悪な土産物を売る店が立ち並ぶ通りは、大聖堂を目指す大勢の観光客で混雑し、あたかも原宿の竹下通りをさらに猥雑にしたかのような様相を呈している。聖堂前の広場付近には、観光客をターゲットにした悪質なミサンガ売りの男たちがたむろしていて厄介である。要りもしないミサンガを勝手に腕に巻いてくるので、立ち止まらずに振り払わねばならない。また、誰が買うのか分からないような粗悪品を並べている物売りも多く、大勢の人々で賑わってはいるものの周囲の雰囲気はあまり良いとはいえない。広場の階段を登りつめたところには大聖堂がそびえ立ち、パリ市街が一望のもとである。しかし今日は靄がかっているために遠景はなかなか望めなかった。
サクレ・クール大聖堂は高いドームが印象的なエキゾチックな外観である。その歴史は意外にも浅く、着工は1877年、完成までに40年の月日を要したという。中に入ってみると今日は日曜日ということでミサの最中であった。聖堂を出て西側に回ったところにはテルトル(Tertre)広場があり、多くの画家たちが観光客の似顔絵を描いたり絵を売ったりしている。治安の良い場所とはいえないが、昔から芸術家が集ったという下町の風情が随所に感じられて面白い。坂道や階段が多いのもこの町の特徴で、とくにテルトル広場の北側、丘の反対側の斜面は小道が複雑に入り組み、人々の生活感が強くなる。モンマルトルの土産物といえば画家たちの描いた絵で、それらが鮮やかに並べられた店先を眺めるだけでも十分楽しめる。ソール(Saules)通りを下っていくと、右手にモンマルトル美術館、その裏手にブドウ畑、そしてその向かいには有名なシャンソニエ、オ・ラパン・アジル(Au Lapin Agile)がある。コーランクール(Caulaincourt)通りまで下りると完全に住宅街である。ル・カフェ・ド・ラ・ビュット(Le Cafe de la Butte)という店で昼食をとる。
午後は再び坂道を登って丘へ戻る。大きく弧を描くジュノー(Junot)大通りの近辺は高級住宅街である。風車が有名なレストラン、ムーラン・ド・ラ・ギャレット(Moulin de la Galette)を見てから、先ほど通り過ぎたモンマルトル美術館へ。もとは個人の邸宅で、ルノワールやユトリロがアトリエを構えた民家を改装したらしい。館内にはロートレックのポスターやオ・ラパン・アジルの旧看板、往時の店のメニューなどが展示されていて、美術館というよりはむしろモンマルトルの歴史博物館である。ユトリロをはじめ、当時の場末で歓楽に溺れながら頽廃的な生活を送っていた画家たちの姿が垣間見える。敷地にはちょっとした庭園もあり、見ると大木からブランコが吊り下がっている。案内板によれば、まさにここでルノワールの『ブランコ』が描かれたという。ちなみに肝心の絵はここにはなく、オルセーに収蔵されている。
・エッフェル塔
のんびりと散策していたら夕暮れも近づいてきたので、エッフェル塔へ向かう。セーヌ左岸に並走する地下鉄がないため、メトロでは意外と遠回りになってしまう。最寄りは6号線のビル・アケム(Bir-Hakeim)だが、今から思えばモンパルナス・ビアンヴニュ(Montparnasse Bienvenüe)ではなくシャルル・ド・ゴール・エトワール(Charles de Gaulle Étoile)経由の方が近かったかもしれない。入場券を買い誤ってしまい第二展望台までは階段で登る羽目になったが、イエナ橋のたもとにそびえ立つエッフェル塔は東側にシャン・ド・マルス(Champ de Mars)公園を見渡し、また展望台から俯瞰するパリ市街が何よりの絶景である。
西の方角を見ると、弱く燃える太陽がブーローニュ(Boulogne)の森の彼方、鉛色の雲海に姿を隠そうとしている。日差しはみるみるうちに消えていき、忍び足だった宵闇が強烈なスピードで辺りを包んでゆく。眼下を見渡せば、一つ、また一つと灯りがともっていき、複雑に斜交する街路群が橙色の線条となって浮かび上がってくる。セーヌ河の下流では黄昏の空を背景に、右岸のニューヨーク(New York)通りと左岸のブランリー(Branly)河岸通りを走る車列の灯りが、紫色の川面を両側から飾る。北西の方角では、ライトアップされた凱旋門が藍色に沈むシャルル・ド・ゴール広場に忽然と姿を現したかのようで、北側のモンマルトルの丘に立つサクレ・クール大聖堂は夜のカーテンに身を隠すところである。北東の右岸に整然と並ぶ白い街灯群は、コンコルド(Concorde)広場。その裏手には、闇に沈みゆくチュイルリー(Tuileries)庭園とルーヴル(Louvre)宮が控える。左岸のすぐ手前に見える黄金色のドームはアンヴァリッド(Invalides)で、東側にはシャン・ド・マルス公園が夕方とはまた違った表情を見せて広がっている。気が付けば、宝石のごとき無数の灯りが夜の黒い海に散らばっている。パリの街が最も美しく見えるのは、日没から黄昏にかけてかもしれない。
タクシーでサン・タンヌ通りへ戻る。夕食は通り向かい側の麺舘という店にて。
写真
1枚目:サクレ・クール大聖堂
2枚目:テルトル広場の絵描き
3枚目:黄昏のセーヌ河
3146文字
3/11
サン・ラザール(St. Lazare)駅まで徒歩
St. Lazare → Pigalle
メトロ【12】号線
Pigalle → Anvers
メトロ【2】号線
モンマルトル(Montmartre)散策
サクレ・クール(Sacré Cœur)大聖堂、モンマルトル美術館
Lamarck Caulaincourt → Montparnasse Bienvenüe
メトロ【12】号線
Montparnasse Bienvenüe → Bir-Hakeim
メトロ【6】号線
エッフェル(Eiffel)塔
パリ泊
Baudelaire Opéra
・指定券購入
パリで迎える初めての朝である。まずは明日・明後日のストラスブール(Strasbourg)往復、そして四日後のモン・サン・ミッシェル(Mont St. Michel)往復のTGV指定券を手に入れるべく、最寄りの国鉄駅サン・ラザールまで歩く。キャトル・セプタンブル(Quatre Septembre)通りとオーベール(Auber)通りを経由して、1kmあまりだろうか。日曜日の朝は人通りが少なくすがすがしい。空は淡い灰色に曇っている。駅の窓口は英語が通じるとはいえ、こういう切符の手配となると予め書いたメモを持っていくのがやはり確実である。
・モンマルトルの丘
今日はモンマルトルの丘を散策しよう。サン・ラザールから12号線で北上し、ピガール(Pigalle)で2号線に乗り換え、アンヴェール(Anvers)で降りる。地上に出るとすぐにサクレ・クール大聖堂へと向かう坂道が続く。両脇に粗悪な土産物を売る店が立ち並ぶ通りは、大聖堂を目指す大勢の観光客で混雑し、あたかも原宿の竹下通りをさらに猥雑にしたかのような様相を呈している。聖堂前の広場付近には、観光客をターゲットにした悪質なミサンガ売りの男たちがたむろしていて厄介である。要りもしないミサンガを勝手に腕に巻いてくるので、立ち止まらずに振り払わねばならない。また、誰が買うのか分からないような粗悪品を並べている物売りも多く、大勢の人々で賑わってはいるものの周囲の雰囲気はあまり良いとはいえない。広場の階段を登りつめたところには大聖堂がそびえ立ち、パリ市街が一望のもとである。しかし今日は靄がかっているために遠景はなかなか望めなかった。
サクレ・クール大聖堂は高いドームが印象的なエキゾチックな外観である。その歴史は意外にも浅く、着工は1877年、完成までに40年の月日を要したという。中に入ってみると今日は日曜日ということでミサの最中であった。聖堂を出て西側に回ったところにはテルトル(Tertre)広場があり、多くの画家たちが観光客の似顔絵を描いたり絵を売ったりしている。治安の良い場所とはいえないが、昔から芸術家が集ったという下町の風情が随所に感じられて面白い。坂道や階段が多いのもこの町の特徴で、とくにテルトル広場の北側、丘の反対側の斜面は小道が複雑に入り組み、人々の生活感が強くなる。モンマルトルの土産物といえば画家たちの描いた絵で、それらが鮮やかに並べられた店先を眺めるだけでも十分楽しめる。ソール(Saules)通りを下っていくと、右手にモンマルトル美術館、その裏手にブドウ畑、そしてその向かいには有名なシャンソニエ、オ・ラパン・アジル(Au Lapin Agile)がある。コーランクール(Caulaincourt)通りまで下りると完全に住宅街である。ル・カフェ・ド・ラ・ビュット(Le Cafe de la Butte)という店で昼食をとる。
午後は再び坂道を登って丘へ戻る。大きく弧を描くジュノー(Junot)大通りの近辺は高級住宅街である。風車が有名なレストラン、ムーラン・ド・ラ・ギャレット(Moulin de la Galette)を見てから、先ほど通り過ぎたモンマルトル美術館へ。もとは個人の邸宅で、ルノワールやユトリロがアトリエを構えた民家を改装したらしい。館内にはロートレックのポスターやオ・ラパン・アジルの旧看板、往時の店のメニューなどが展示されていて、美術館というよりはむしろモンマルトルの歴史博物館である。ユトリロをはじめ、当時の場末で歓楽に溺れながら頽廃的な生活を送っていた画家たちの姿が垣間見える。敷地にはちょっとした庭園もあり、見ると大木からブランコが吊り下がっている。案内板によれば、まさにここでルノワールの『ブランコ』が描かれたという。ちなみに肝心の絵はここにはなく、オルセーに収蔵されている。
・エッフェル塔
のんびりと散策していたら夕暮れも近づいてきたので、エッフェル塔へ向かう。セーヌ左岸に並走する地下鉄がないため、メトロでは意外と遠回りになってしまう。最寄りは6号線のビル・アケム(Bir-Hakeim)だが、今から思えばモンパルナス・ビアンヴニュ(Montparnasse Bienvenüe)ではなくシャルル・ド・ゴール・エトワール(Charles de Gaulle Étoile)経由の方が近かったかもしれない。入場券を買い誤ってしまい第二展望台までは階段で登る羽目になったが、イエナ橋のたもとにそびえ立つエッフェル塔は東側にシャン・ド・マルス(Champ de Mars)公園を見渡し、また展望台から俯瞰するパリ市街が何よりの絶景である。
西の方角を見ると、弱く燃える太陽がブーローニュ(Boulogne)の森の彼方、鉛色の雲海に姿を隠そうとしている。日差しはみるみるうちに消えていき、忍び足だった宵闇が強烈なスピードで辺りを包んでゆく。眼下を見渡せば、一つ、また一つと灯りがともっていき、複雑に斜交する街路群が橙色の線条となって浮かび上がってくる。セーヌ河の下流では黄昏の空を背景に、右岸のニューヨーク(New York)通りと左岸のブランリー(Branly)河岸通りを走る車列の灯りが、紫色の川面を両側から飾る。北西の方角では、ライトアップされた凱旋門が藍色に沈むシャルル・ド・ゴール広場に忽然と姿を現したかのようで、北側のモンマルトルの丘に立つサクレ・クール大聖堂は夜のカーテンに身を隠すところである。北東の右岸に整然と並ぶ白い街灯群は、コンコルド(Concorde)広場。その裏手には、闇に沈みゆくチュイルリー(Tuileries)庭園とルーヴル(Louvre)宮が控える。左岸のすぐ手前に見える黄金色のドームはアンヴァリッド(Invalides)で、東側にはシャン・ド・マルス公園が夕方とはまた違った表情を見せて広がっている。気が付けば、宝石のごとき無数の灯りが夜の黒い海に散らばっている。パリの街が最も美しく見えるのは、日没から黄昏にかけてかもしれない。
タクシーでサン・タンヌ通りへ戻る。夕食は通り向かい側の麺舘という店にて。
写真
1枚目:サクレ・クール大聖堂
2枚目:テルトル広場の絵描き
3枚目:黄昏のセーヌ河
3146文字
フランス旅行 1日目
2012年3月10日 鉄道と旅行
雨の朝。
・往路
陰鬱な冷雨の中、成田を飛び立った航空機はぐいぐいと高度を増していき、やがては雲海に浮かぶ船となって遥か西方パリを目指す。離陸後すぐに食事が出る。パリまでの所要は12時間あまり。映画を観てからしばし横になる。驚いたことに、背面が完全に倒れてフルフラットになるのでかなり楽である。見ると、座席配置は千鳥状になっていて効率的にスペースが使われている。
もう一食は好きな時間にアラカルトで頼むということになっているらしい。着陸の4時間ほど前にプレートを注文。ずいぶんワインを飲んでしまった。細部まで行き届いた感じがさすがは日本の航空会社といったところで、昨年のエールフランスよりも数段快適に過ごせた。
パリに着いたのは同日の夕方。タクシーで市内へ向かい、サン=タンヌ(Sainte Anne)通りのBaudelaire Opéraというホテルにチェックインする。今日はとくに何をするというわけでもなく、荷ほどきを行った後、昨年も訪れた碧玉臺という中華料理店で夕食をとった。
写真
1枚目:空港
2枚目:機内
3枚目:イタリアン(Italiens)大通り
682文字
3/10
東京・成田(NRT)1150(GMT+9)
→ パリ・シャルル=ド=ゴール(CDG)1625(GMT+1)
全日本空輸205便(NH205)
パリ(Paris)泊
Baudelaire Opéra
・往路
陰鬱な冷雨の中、成田を飛び立った航空機はぐいぐいと高度を増していき、やがては雲海に浮かぶ船となって遥か西方パリを目指す。離陸後すぐに食事が出る。パリまでの所要は12時間あまり。映画を観てからしばし横になる。驚いたことに、背面が完全に倒れてフルフラットになるのでかなり楽である。見ると、座席配置は千鳥状になっていて効率的にスペースが使われている。
もう一食は好きな時間にアラカルトで頼むということになっているらしい。着陸の4時間ほど前にプレートを注文。ずいぶんワインを飲んでしまった。細部まで行き届いた感じがさすがは日本の航空会社といったところで、昨年のエールフランスよりも数段快適に過ごせた。
パリに着いたのは同日の夕方。タクシーで市内へ向かい、サン=タンヌ(Sainte Anne)通りのBaudelaire Opéraというホテルにチェックインする。今日はとくに何をするというわけでもなく、荷ほどきを行った後、昨年も訪れた碧玉臺という中華料理店で夕食をとった。
写真
1枚目:空港
2枚目:機内
3枚目:イタリアン(Italiens)大通り
682文字
美しき日本海に心を洗われる。
・南下
今日は予定を変更し、羽越本線を撮ることにする。永らくの夢であった白沢~陣場の有名撮影地であけぼのと日本海の姿を拝むことができないのは何とも残念な話だが、昨夜発が両列車とも運休になっている以上は潔く諦めざるを得ない。むしろこういう時こそ、普段は目にすることのない美しい風景との意外な出会いがあるものだと思っている。いくぶんゆったりとした朝を過ごした後、大館を8時過ぎに発つ快速列車で秋田まで出る。この3640Mは大館~秋田を1時間33分で結ぶ俊足ぶりで、その速達性は特急と遜色ない。さらに、一番列車の3626Mは停車駅が特急とほぼ変わらず、終着秋田までの所要は1時間26分とこの区間の全ての特急を凌いでいる。では特急の意義はといえば、青森から秋田まで「乗り換えなしでそこそこ速い」という部分に落ち着くのだろうか。
秋田では9分の接続で酒田行に乗り換える。ここから先は羽越本線に入り、時刻表の紙面を見るとダイヤはずいぶん閑散としたものへ変わる。下浜を過ぎたあたりから日本海が車窓に見え隠れするようになり、沿岸の風景も荒涼とした砂丘や松原へと変貌してゆく。ちらりと見えた道路標識によると、道川の近くには「日本ロケット発祥の地」なる記念碑が立っているようだ。そういえば二つ先の駅は羽後亀田、松本清張『砂の器』の序盤で「カメダ」から連想された最初の地名である。小説の通り、この付近の道川海岸には東大の秋田ロケット実験場があったらしい。秋田で買った鶏めしを食べながら車窓を眺めていると、羽後岩谷から多くの高校生が乗って来たが、彼らは象潟の一つ手前の金浦でみな下車していった。象潟が近くなるといよいよ車窓左手には鳥海山の山容が見えるようになり、山形との県境が近付いてきたことを思わせる。
・快晴の海岸線
選んだ撮影地は小砂川~上浜。S字カーブを曲がって来た列車の背後に日本海を配する構図はあまりにも有名。この地点の他にもいくつかポイントはあるようなので、歩いてロケハンを行いつつ気楽に撮影を行うとしよう。小砂川の集落を抜けて国道7号線に合流し、しばらく上浜方面へ北上。廃業したガソリンスタンドの手前から海の方へ抜ける道に入ると、眼下には絶景が展開していた。海にせり出した奇岩との間に線路が切り通され、白波砕ける岩場の海岸線を見下ろすような形で単線の線路が敷かれている。北の方角を望めば、すぐ向こうには広大な砂浜と松原が広がり、延々と海岸線が続いている。小砂川の一つ隣の女鹿からはもう山形県に入るから、ここではちょうど秋田県の最南端から遥か男鹿半島までの海岸線を眺めていることになるわけだ。海を見渡せば、波は至って平穏、深い紺青色を湛えた悠々たるうねりが周期的に押し寄せてくる。空には雲ひとつなし。海の青と好対照をなして、白昼の燦々たる陽光をいっぱいに反映して、澄んだ水色の天空がどこまでも広がっている。水平線には、何やら島影が見える。あれは飛島だろう。起伏に乏しい台地状の姿がぽっかりと海に浮かんでいる。酒田から40kmほどの沖合いに位置する、山形県の海上の孤島である。海岸を見下ろせば、磯で貝を集めている老婆の姿がある。もう一人、釣り人も近くにいるようだ。一方で内陸の方に目をやると、鳥海山の独特の山容が頭をのぞかせている。何とも風光明媚でのどかな一帯である。
酒田を11時12分に発車する下り貨物4075レを待ってみたが、どうもやって来ない。連日の悪天候で日本海縦貫線を直通する列車はダイヤが乱れに乱れているようだ。崖の上を少し駅寄りに移動して、上り列車を順光で待つことにする。貨物についてはダイヤが役に立たず半ば諦めていた矢先、重厚なモーター音と機関車特有の走行音がかすかに耳に入ったかと思いきや、次の瞬間には向こうからEF81 119率いる長大編成の貨物列車が姿を現した。慌ててカメラを構えて数枚を撮影。3098レが50分ほど遅れて通過したものと思われる。その後、この貨物と小砂川で交換してきたと思しき下り普通543M、そして上り普通540M、上り特急いなほ10号を続けて撮影。下りの貨物は相変わらず来ない。
撮影の合間は何となしに海を眺める。その青色はまるで、己の心に絡まった幾多もの雑念を吸い込んでくれているようで、次第に心はすっきりと空っぽになってゆく。飛島の島影や、空間全体をきっぱりと分画する水平線、単純ながら奥深い青色の色彩、どこまでも続く海岸線などを見ていると、日常で抱いていた数々の負の感情だとか、レトロスペクティブな思考、そしてその思考の産物が自らに与える苦しさや悔しさ、そういったものが良い意味でどうでも良くなってくる。難解や煩雑という概念からは一切無縁のこの時空間に全身を曝露することで、次第に自分自身も美しく浄化されてゆくような気分になるのだ。そんなに複雑に考えないで、また真摯に地道にやれば良いじゃないかと、そう決心したわけである。
少し撮影地を移動する。大師庵と書かれた廃屋を過ぎてしばらく歩いたところから、下り特急いなほ5号のサイドを狙うことにする。ここは有名ポイントからすぐ近くの場所で、手前の風景が雑然としているのが難点ではあるが、背後に砂浜の海岸線を配することができる。485系3000番台は車端部の色彩がアクセントになっていて側面から撮ると意外にもメリハリがつく。撮影後はのんびり歩きながら駅へ戻る。下り549Mは凄まじい逆光の中、太陽と海をメインで撮ってみたものの、列車が真っ黒につぶれてしまい今一つ訳の分からない写真になってしまった。移動中に見かけた案内板の内容を以下にメモしておく:
これは廃屋となった大師庵の近くの広場にあったものである。芭蕉といえば象潟まで旅をしたことが知られているが、まさにここはゆかりの地だったということか。旧道は崖下の海岸線を通っていたというから驚きである。正岡子規については、宿をとったとされる民家の跡地に案内板が立っていた:
昨夏の南紀旅行の徐福茶屋もそうだったが、旅先で思いがけず出会う歴史のひとかけらは意外にも魅力的である。
・酒田の夜
16時27分の列車で小砂川を去り、いよいよ山形に入る。今日は撮影を満喫した。4年前の冬に訪れた吹浦~女鹿の撮影地を懐かしみつつ、車内に射し込んでくる夕陽に包まれてしばしの眠りに落ちる。酒田には30分ほどで到着。駅横の物産館で亀の尾の純米吟醸原酒を3本目の土産として手に入れた後、ロッカーに荷物を預けて黄昏の街へ繰り出す。
歩くこと20分あまり、だいぶ海が近くなってきたところで山居倉庫に到着。すでに営業は終了しており、扉から漏れる白熱灯の明かりがいくぶん幻想的であった。ライトアップが行われているかと期待していたもののただ宵闇に沈みゆくだけであったので、簡単に撮影してから街の中心部へと引き返すことにする。「兵六玉」という店に入り、日本酒を飲む。初孫 魔斬、菊勇 生 吟醸、杉勇 特別純米原酒、初孫 春吟醸。量にして四合瓶は空いたか・・・杉勇が特にすっきりと飲みやすく、香りも格調高く、それでいて気張らない味で美味しかったように思う。刺身や豆腐料理、豪勢な串焼き、煮付けにも大満足。山形産の新しい米、つや姫のおにぎりも頂いたが、これも旨い。贅沢な移動時間、鉄道撮影、あてもない街の散策、そして夜には当地の酒と郷土料理を味わう、これほどの至福が他にあるだろうか。
あけぼのの発車まではまだ時間があったので、LUXEMBOURGというバーへ入る。旅先でのバーというのも味があって良い。ゆったりとした非日常のひと時を過ごした後、駅へ向かうとする。ところが、道が分からない。いや、夕方はしっかり地図を読んで歩いて来られたのだが、酩酊したせいかどうも方向感覚が狂ってしまって自力では駅に戻れそうにない。道をゆくタクシーはみな飲み屋への迎車のようで、手を挙げても停まってくれない。発車時刻まであと15分ほどになりさすがに焦って来た頃、幸いにも一台のタクシーが空車で停まってくれた。聞けば、東京のタクシーみたいに「流し」はやっていないのだという。今回拾えたのは本当に偶然で、こちらでは電話して来てもらうというのが普通らしい。それもそうか。酒田の街に別れを告げ、改札へ向かう。
・帰路
三脚をバーの前に置き忘れてきたことに気が付いたのは乗車直前。しかし時すでに遅し。半分正体を失っていたのであまり思考も回らず、ゴロンとシートで指定された上段寝台までたどり着くや否や、泥のように眠りこける。今から思えば、眼鏡やらカメラやらをその辺に放置したまま、カーテンも引かず、コートも脱がず、高崎到着を前に車掌に起こされるまでマグロのように寝台に横たわっていたわけだが、よく盗難に遭わなかったものだ。酔いが醒めてから切符を見ると、乗車券と指定券にしっかりと「秋田運輸区」の判が捺してある。検札の記憶などまったくないのだが、ひとりでに取り出したのだろうか。部分的に記憶も飛んでいるから恐ろしい。それに三脚を失ってしまったし、これは反省に値するだろう。
乗車券を東京都区内から武蔵溝ノ口までの一筆書きで作った関係で、あけぼのは高崎で下車し、八高線、青梅線、南武線経由で帰る。半ば放心状態で、木曜の朝の通勤ラッシュに揉まれながら旅行は終極を迎えた。
写真
1枚目:EF81牽引貨物列車(@上浜~小砂川)
2枚目:特急いなほ(@小砂川~上浜)
3枚目:バーに入る
5321文字
2/29
大館812(+3) → 秋田943(+1)
奥羽本線3640M 快速 クハ700-13
秋田951 → 小砂川1108
羽越本線534M クモハ701-33
羽越本線撮影(3098レ・543M・540M・2010M・2005M・549M)
小砂川1627 → 酒田1655
羽越本線542M クハ700-19
酒田観光
2/29 → 3/1
酒田2301 → 高崎512
羽越本線・信越本線・上越線2022レ 特急あけぼの
オハネフ25 201
3/1
高崎528 → 高麗川649
高崎線・八高線220D キハ111-206
高麗川658 → 立川745
八高線・青梅線3716E・716H 快速 モハE232-609
立川756 → 武蔵溝ノ口835
南武線732F クハ204-24
・南下
今日は予定を変更し、羽越本線を撮ることにする。永らくの夢であった白沢~陣場の有名撮影地であけぼのと日本海の姿を拝むことができないのは何とも残念な話だが、昨夜発が両列車とも運休になっている以上は潔く諦めざるを得ない。むしろこういう時こそ、普段は目にすることのない美しい風景との意外な出会いがあるものだと思っている。いくぶんゆったりとした朝を過ごした後、大館を8時過ぎに発つ快速列車で秋田まで出る。この3640Mは大館~秋田を1時間33分で結ぶ俊足ぶりで、その速達性は特急と遜色ない。さらに、一番列車の3626Mは停車駅が特急とほぼ変わらず、終着秋田までの所要は1時間26分とこの区間の全ての特急を凌いでいる。では特急の意義はといえば、青森から秋田まで「乗り換えなしでそこそこ速い」という部分に落ち着くのだろうか。
秋田では9分の接続で酒田行に乗り換える。ここから先は羽越本線に入り、時刻表の紙面を見るとダイヤはずいぶん閑散としたものへ変わる。下浜を過ぎたあたりから日本海が車窓に見え隠れするようになり、沿岸の風景も荒涼とした砂丘や松原へと変貌してゆく。ちらりと見えた道路標識によると、道川の近くには「日本ロケット発祥の地」なる記念碑が立っているようだ。そういえば二つ先の駅は羽後亀田、松本清張『砂の器』の序盤で「カメダ」から連想された最初の地名である。小説の通り、この付近の道川海岸には東大の秋田ロケット実験場があったらしい。秋田で買った鶏めしを食べながら車窓を眺めていると、羽後岩谷から多くの高校生が乗って来たが、彼らは象潟の一つ手前の金浦でみな下車していった。象潟が近くなるといよいよ車窓左手には鳥海山の山容が見えるようになり、山形との県境が近付いてきたことを思わせる。
・快晴の海岸線
選んだ撮影地は小砂川~上浜。S字カーブを曲がって来た列車の背後に日本海を配する構図はあまりにも有名。この地点の他にもいくつかポイントはあるようなので、歩いてロケハンを行いつつ気楽に撮影を行うとしよう。小砂川の集落を抜けて国道7号線に合流し、しばらく上浜方面へ北上。廃業したガソリンスタンドの手前から海の方へ抜ける道に入ると、眼下には絶景が展開していた。海にせり出した奇岩との間に線路が切り通され、白波砕ける岩場の海岸線を見下ろすような形で単線の線路が敷かれている。北の方角を望めば、すぐ向こうには広大な砂浜と松原が広がり、延々と海岸線が続いている。小砂川の一つ隣の女鹿からはもう山形県に入るから、ここではちょうど秋田県の最南端から遥か男鹿半島までの海岸線を眺めていることになるわけだ。海を見渡せば、波は至って平穏、深い紺青色を湛えた悠々たるうねりが周期的に押し寄せてくる。空には雲ひとつなし。海の青と好対照をなして、白昼の燦々たる陽光をいっぱいに反映して、澄んだ水色の天空がどこまでも広がっている。水平線には、何やら島影が見える。あれは飛島だろう。起伏に乏しい台地状の姿がぽっかりと海に浮かんでいる。酒田から40kmほどの沖合いに位置する、山形県の海上の孤島である。海岸を見下ろせば、磯で貝を集めている老婆の姿がある。もう一人、釣り人も近くにいるようだ。一方で内陸の方に目をやると、鳥海山の独特の山容が頭をのぞかせている。何とも風光明媚でのどかな一帯である。
酒田を11時12分に発車する下り貨物4075レを待ってみたが、どうもやって来ない。連日の悪天候で日本海縦貫線を直通する列車はダイヤが乱れに乱れているようだ。崖の上を少し駅寄りに移動して、上り列車を順光で待つことにする。貨物についてはダイヤが役に立たず半ば諦めていた矢先、重厚なモーター音と機関車特有の走行音がかすかに耳に入ったかと思いきや、次の瞬間には向こうからEF81 119率いる長大編成の貨物列車が姿を現した。慌ててカメラを構えて数枚を撮影。3098レが50分ほど遅れて通過したものと思われる。その後、この貨物と小砂川で交換してきたと思しき下り普通543M、そして上り普通540M、上り特急いなほ10号を続けて撮影。下りの貨物は相変わらず来ない。
撮影の合間は何となしに海を眺める。その青色はまるで、己の心に絡まった幾多もの雑念を吸い込んでくれているようで、次第に心はすっきりと空っぽになってゆく。飛島の島影や、空間全体をきっぱりと分画する水平線、単純ながら奥深い青色の色彩、どこまでも続く海岸線などを見ていると、日常で抱いていた数々の負の感情だとか、レトロスペクティブな思考、そしてその思考の産物が自らに与える苦しさや悔しさ、そういったものが良い意味でどうでも良くなってくる。難解や煩雑という概念からは一切無縁のこの時空間に全身を曝露することで、次第に自分自身も美しく浄化されてゆくような気分になるのだ。そんなに複雑に考えないで、また真摯に地道にやれば良いじゃないかと、そう決心したわけである。
少し撮影地を移動する。大師庵と書かれた廃屋を過ぎてしばらく歩いたところから、下り特急いなほ5号のサイドを狙うことにする。ここは有名ポイントからすぐ近くの場所で、手前の風景が雑然としているのが難点ではあるが、背後に砂浜の海岸線を配することができる。485系3000番台は車端部の色彩がアクセントになっていて側面から撮ると意外にもメリハリがつく。撮影後はのんびり歩きながら駅へ戻る。下り549Mは凄まじい逆光の中、太陽と海をメインで撮ってみたものの、列車が真っ黒につぶれてしまい今一つ訳の分からない写真になってしまった。移動中に見かけた案内板の内容を以下にメモしておく:
鳥海山の第三期活動によって猿穴から噴出した溶岩は西に流れて日本海に及び、吹浦、三崎から大須郷までの岩石海岸をつくった。このあたりはその北端で、滄海を前にして左に飛島、右に男鹿の寒風山を望む眺望絶佳の断崖である。徍年の古道はこの崖下の海辺の観音堂、こんこんと湧き出る泉の傍を通った。元禄二年(一六八九年)六月十六日にそこを過ぎた芭蕉が『奥の細道』に「山を越え」の次に「磯を伝い」と書いたのは、その叙述であろう。明治国道はここに開かれ、明治二十六年(一八九三年)八月十日、正岡子規が旅してここの野々茶屋に宿をとった。『はて知らずの記』には次のように記されている。
夕陽に馬洗いけり秋の海
行き暮れて大須郷に宿る、松の木の間の二軒家にして、あやしき賎の住居なり、楼上より見渡せば、鳥海、日の影を受けて東窓に当れり。
峠の茶屋 大師庵主
これは廃屋となった大師庵の近くの広場にあったものである。芭蕉といえば象潟まで旅をしたことが知られているが、まさにここはゆかりの地だったということか。旧道は崖下の海岸線を通っていたというから驚きである。正岡子規については、宿をとったとされる民家の跡地に案内板が立っていた:
正岡子規が宿泊した「野の茶屋」跡
明治二十六年(一八九三)に『おくのほそ道』をたどって奥州を旅した正岡子規は、八月十日、酒田から吹浦を経て象潟に向かう途中、日が暮れたため大須郷の宿に宿泊した。その宿が、当時漁業のかたわら旅人宿を営んでいた「野の茶屋」であり、現在の菅原家である。
子規は、亡くなるほぼ一年前の明治三十四年(一九〇一)に書いた『仰臥漫録』という随筆で、大須郷の宿で食べた岩ガキにふれ、「ウマイ ウマイ 非常にウマイ 新シイ 牡蠣ダ 実ニ思イガケナイ一軒家ノ御馳走デアッタ」と絶賛している。
にかほ市
昨夏の南紀旅行の徐福茶屋もそうだったが、旅先で思いがけず出会う歴史のひとかけらは意外にも魅力的である。
・酒田の夜
16時27分の列車で小砂川を去り、いよいよ山形に入る。今日は撮影を満喫した。4年前の冬に訪れた吹浦~女鹿の撮影地を懐かしみつつ、車内に射し込んでくる夕陽に包まれてしばしの眠りに落ちる。酒田には30分ほどで到着。駅横の物産館で亀の尾の純米吟醸原酒を3本目の土産として手に入れた後、ロッカーに荷物を預けて黄昏の街へ繰り出す。
歩くこと20分あまり、だいぶ海が近くなってきたところで山居倉庫に到着。すでに営業は終了しており、扉から漏れる白熱灯の明かりがいくぶん幻想的であった。ライトアップが行われているかと期待していたもののただ宵闇に沈みゆくだけであったので、簡単に撮影してから街の中心部へと引き返すことにする。「兵六玉」という店に入り、日本酒を飲む。初孫 魔斬、菊勇 生 吟醸、杉勇 特別純米原酒、初孫 春吟醸。量にして四合瓶は空いたか・・・杉勇が特にすっきりと飲みやすく、香りも格調高く、それでいて気張らない味で美味しかったように思う。刺身や豆腐料理、豪勢な串焼き、煮付けにも大満足。山形産の新しい米、つや姫のおにぎりも頂いたが、これも旨い。贅沢な移動時間、鉄道撮影、あてもない街の散策、そして夜には当地の酒と郷土料理を味わう、これほどの至福が他にあるだろうか。
あけぼのの発車まではまだ時間があったので、LUXEMBOURGというバーへ入る。旅先でのバーというのも味があって良い。ゆったりとした非日常のひと時を過ごした後、駅へ向かうとする。ところが、道が分からない。いや、夕方はしっかり地図を読んで歩いて来られたのだが、酩酊したせいかどうも方向感覚が狂ってしまって自力では駅に戻れそうにない。道をゆくタクシーはみな飲み屋への迎車のようで、手を挙げても停まってくれない。発車時刻まであと15分ほどになりさすがに焦って来た頃、幸いにも一台のタクシーが空車で停まってくれた。聞けば、東京のタクシーみたいに「流し」はやっていないのだという。今回拾えたのは本当に偶然で、こちらでは電話して来てもらうというのが普通らしい。それもそうか。酒田の街に別れを告げ、改札へ向かう。
・帰路
三脚をバーの前に置き忘れてきたことに気が付いたのは乗車直前。しかし時すでに遅し。半分正体を失っていたのであまり思考も回らず、ゴロンとシートで指定された上段寝台までたどり着くや否や、泥のように眠りこける。今から思えば、眼鏡やらカメラやらをその辺に放置したまま、カーテンも引かず、コートも脱がず、高崎到着を前に車掌に起こされるまでマグロのように寝台に横たわっていたわけだが、よく盗難に遭わなかったものだ。酔いが醒めてから切符を見ると、乗車券と指定券にしっかりと「秋田運輸区」の判が捺してある。検札の記憶などまったくないのだが、ひとりでに取り出したのだろうか。部分的に記憶も飛んでいるから恐ろしい。それに三脚を失ってしまったし、これは反省に値するだろう。
乗車券を東京都区内から武蔵溝ノ口までの一筆書きで作った関係で、あけぼのは高崎で下車し、八高線、青梅線、南武線経由で帰る。半ば放心状態で、木曜の朝の通勤ラッシュに揉まれながら旅行は終極を迎えた。
写真
1枚目:EF81牽引貨物列車(@上浜~小砂川)
2枚目:特急いなほ(@小砂川~上浜)
3枚目:バーに入る
5321文字
雪に閉ざされし奥羽本線。
・白い朝
今朝は大釈迦~鶴ヶ坂の撮影地で上り日本海とあけぼのを撮影する予定だったが、駅に着いてみると奥羽本線は除雪作業が難航し運転の目処が立っていないという。改札口付近には多くの人が集まっている。
情報によれば昨夜入線した上り日本海は未明4時頃に青森を発ったらしいが、今は弘前を過ぎたところで機関車が雪を抱き込んでしまい立ち往生している。客扱いをせず尾久への回送として未明に出発した上りあけぼのもどこかで止まっているらしい。昨夜大阪発の下り日本海は一応定刻で下ってきたようだが、大館で抑止を食らって動かなくなっている模様。下りあけぼのについては不明。海峡を渡る特急は辛うじて走っているが、その他の奥羽本線、津軽線、青い森鉄道は壊滅的な運行状況でまったく先が見えない。今宵の宿は大館であるから、とりあえず奥羽本線を南下しなければならない。弘前まで直行の代行バスが出るようなので、これに乗ることにしよう。
その前に、歩いてすぐのところにある青森駅前郵便局から審査の申込書を速達で送る。まさか青森に来てまで部活の仕事をするとは思わなかったww 色々あってIDの取得やら送金やらがバタバタと立て込んでしまい、締切前日になってようやく体裁が整ったので送付と相成った。とりあえず間に合って何よりである。
・雪の弘前
バスは1時間半あまりの道のりで、やはり列車に比べると時間がかかる。ダイヤが乱れに乱れた今や、今日の鉄道撮影はもはや諦めるしかないので、弘前の街を散策するとしよう。弘前といえば一昨年の夏に訪れ、猛暑の中自転車をこぎまくって名所を回ったのが懐かしい。今回はさすがに自転車というわけにはいかないので、市内を循環する100円バスを利用しながら徒歩移動を試みる。市役所前でバスを降り、旧市立図書館の洋館を見た後、追手門のそばから弘前公園の濠に沿って道を歩き、今度は方向を変えて禅林街方面を目指す。
幾多もの寺院が立ち並ぶ禅林街は夏に訪れたときと雰囲気は打って変わって、深い雪に覆われた静謐な佇まいを見せている。突き当たりには長勝寺の山門が大雪を抱えて鎮座し、まるでこの禅林街一帯を悠々と見渡しているかのようだ。時おり、微粒子のように霧散した雪が並木の枝葉から舞い落ちる。砂がこぼれるようなサーッという音響と共に、雪の粒は淡く明るく太陽光を反射し、いささか神秘的である。通りにはタクシーがそこそこ頻繁に往来し、寺院を訪れる市民の足となっているようだ。長勝寺の裏手にある墓地でしばしの休憩。
駅に戻りがてら、最勝院の五重塔に立ち寄る。自転車で移動したときは何ということのない距離であったが、自分の足で歩いてみるとなると意外にも遠い。最勝院は隣接する八坂神社と一緒に雪に埋もれていた。天候は快晴、燦々たる昼下がりの陽光を受けて雪は白く光り、五重塔の容貌を際立たせている。雪は天然のレフ板であるからとにかくまぶしい。サングラスを持ってきて正解であった。境内は除雪作業の真っ最中だったが、五重塔の周辺は雪に埋もれたままである。塀の外側からその姿を眺めるに留め、駅へ引き返すとしよう。本町というバス停まで歩き、同じく100円の循環バスに乗る。
・大館へ
今夜発の日本海、あけぼのは上下各4列車とも運休が決定したようである。大雪は既に止んで天候としては問題はないのだが、回送の編成が今晩中に宮原と尾久に到着できないため、車両のやり繰りがつかないようだ。明朝は白沢~陣場の有名撮影地で両下り列車を仕留めようと予定していたわけであるが、またしても計画は没となった。天気のせいであるから仕方ないとはいえ、今回の旅行は撃沈の連続である。
特急つがる2号が8時間遅れで運転を再開するとのことなので、次に普通列車が動き出すのが果たしていつになるのか定かではないから、これに乗ってもう大館へ移動してしまおう。車窓右手に展開する岩木山の雄大な山容が残酷なまでに美しい。除雪作業は14時頃に終了したようで、列車は快晴の雪原を軽快に駆けて行く。途中の大鰐温泉には下りの日本海が停車していた。どうやらまだ打ち切りにならず客扱いをしているようである。青森・秋田県境の矢立峠を越え、大館には30分あまりで到着。貨物列車やDE10率いるホキ編成が停車していたので軽く撮影した後、駅の待合室で明日の計画を練り直す。
・寂寥の夜
大館駅前は閑散としており、泊まった宿も自分意外には誰も居ないのではないかというくらい空いていて、大浴場の温泉も貸切状態であった。みるみるうちに日は暮れて、窓外にはぽつぽつと白い街灯が灯るのみ。花輪線東大館の方が市の中心部にあるようで、奥羽本線の大館駅前はずいぶんと寂しい一帯である。晩はこの地方の郷土料理、きりたんぽ鍋を食する。雪中貯蔵という山廃純米酒を一人飲みながら、大館の夜は更けてゆく。
写真
1枚目:禅林街
2枚目:最勝院
3枚目:きりたんぽ鍋
2380文字
2/28
青森918 → 弘前1040
中里交通代行バス 青森200か570
弘前観光
弘前1414(+475) → 大館1451(+475)
奥羽本線2042M 特急つがる2号 モハE750-101
大館泊
ロイヤルホテル大館
・白い朝
今朝は大釈迦~鶴ヶ坂の撮影地で上り日本海とあけぼのを撮影する予定だったが、駅に着いてみると奥羽本線は除雪作業が難航し運転の目処が立っていないという。改札口付近には多くの人が集まっている。
情報によれば昨夜入線した上り日本海は未明4時頃に青森を発ったらしいが、今は弘前を過ぎたところで機関車が雪を抱き込んでしまい立ち往生している。客扱いをせず尾久への回送として未明に出発した上りあけぼのもどこかで止まっているらしい。昨夜大阪発の下り日本海は一応定刻で下ってきたようだが、大館で抑止を食らって動かなくなっている模様。下りあけぼのについては不明。海峡を渡る特急は辛うじて走っているが、その他の奥羽本線、津軽線、青い森鉄道は壊滅的な運行状況でまったく先が見えない。今宵の宿は大館であるから、とりあえず奥羽本線を南下しなければならない。弘前まで直行の代行バスが出るようなので、これに乗ることにしよう。
その前に、歩いてすぐのところにある青森駅前郵便局から審査の申込書を速達で送る。まさか青森に来てまで部活の仕事をするとは思わなかったww 色々あってIDの取得やら送金やらがバタバタと立て込んでしまい、締切前日になってようやく体裁が整ったので送付と相成った。とりあえず間に合って何よりである。
・雪の弘前
バスは1時間半あまりの道のりで、やはり列車に比べると時間がかかる。ダイヤが乱れに乱れた今や、今日の鉄道撮影はもはや諦めるしかないので、弘前の街を散策するとしよう。弘前といえば一昨年の夏に訪れ、猛暑の中自転車をこぎまくって名所を回ったのが懐かしい。今回はさすがに自転車というわけにはいかないので、市内を循環する100円バスを利用しながら徒歩移動を試みる。市役所前でバスを降り、旧市立図書館の洋館を見た後、追手門のそばから弘前公園の濠に沿って道を歩き、今度は方向を変えて禅林街方面を目指す。
幾多もの寺院が立ち並ぶ禅林街は夏に訪れたときと雰囲気は打って変わって、深い雪に覆われた静謐な佇まいを見せている。突き当たりには長勝寺の山門が大雪を抱えて鎮座し、まるでこの禅林街一帯を悠々と見渡しているかのようだ。時おり、微粒子のように霧散した雪が並木の枝葉から舞い落ちる。砂がこぼれるようなサーッという音響と共に、雪の粒は淡く明るく太陽光を反射し、いささか神秘的である。通りにはタクシーがそこそこ頻繁に往来し、寺院を訪れる市民の足となっているようだ。長勝寺の裏手にある墓地でしばしの休憩。
駅に戻りがてら、最勝院の五重塔に立ち寄る。自転車で移動したときは何ということのない距離であったが、自分の足で歩いてみるとなると意外にも遠い。最勝院は隣接する八坂神社と一緒に雪に埋もれていた。天候は快晴、燦々たる昼下がりの陽光を受けて雪は白く光り、五重塔の容貌を際立たせている。雪は天然のレフ板であるからとにかくまぶしい。サングラスを持ってきて正解であった。境内は除雪作業の真っ最中だったが、五重塔の周辺は雪に埋もれたままである。塀の外側からその姿を眺めるに留め、駅へ引き返すとしよう。本町というバス停まで歩き、同じく100円の循環バスに乗る。
・大館へ
今夜発の日本海、あけぼのは上下各4列車とも運休が決定したようである。大雪は既に止んで天候としては問題はないのだが、回送の編成が今晩中に宮原と尾久に到着できないため、車両のやり繰りがつかないようだ。明朝は白沢~陣場の有名撮影地で両下り列車を仕留めようと予定していたわけであるが、またしても計画は没となった。天気のせいであるから仕方ないとはいえ、今回の旅行は撃沈の連続である。
特急つがる2号が8時間遅れで運転を再開するとのことなので、次に普通列車が動き出すのが果たしていつになるのか定かではないから、これに乗ってもう大館へ移動してしまおう。車窓右手に展開する岩木山の雄大な山容が残酷なまでに美しい。除雪作業は14時頃に終了したようで、列車は快晴の雪原を軽快に駆けて行く。途中の大鰐温泉には下りの日本海が停車していた。どうやらまだ打ち切りにならず客扱いをしているようである。青森・秋田県境の矢立峠を越え、大館には30分あまりで到着。貨物列車やDE10率いるホキ編成が停車していたので軽く撮影した後、駅の待合室で明日の計画を練り直す。
・寂寥の夜
大館駅前は閑散としており、泊まった宿も自分意外には誰も居ないのではないかというくらい空いていて、大浴場の温泉も貸切状態であった。みるみるうちに日は暮れて、窓外にはぽつぽつと白い街灯が灯るのみ。花輪線東大館の方が市の中心部にあるようで、奥羽本線の大館駅前はずいぶんと寂しい一帯である。晩はこの地方の郷土料理、きりたんぽ鍋を食する。雪中貯蔵という山廃純米酒を一人飲みながら、大館の夜は更けてゆく。
写真
1枚目:禅林街
2枚目:最勝院
3枚目:きりたんぽ鍋
2380文字
厳冬の青森には大雪が舞う。
・グランクラスの旅
今春のダイヤ改正で姿を消す特急日本海、その最後の勇姿を北東北の地で網膜と撮像素子に焼き付けようと思い立ったのがこの旅行の始まりである。まずは東北新幹線で青森入りする。東京から3時間あまりで着いてしまうとは、本当に便利になったものだ。
せっかくなので今回はグランクラスを取ってみた。軽食が出る上に、アルコールを含めた飲み物が飲み放題。座席も至って快適で、2+1列というゆとりある配置のため周りの乗客の存在をあまり意識することがない。絨毯は褐色、天井の照明は線路と垂直の方向に配されていて鉄道車両にしては珍しい。荷物の収納棚は航空機のそれと同等のもの。トンネルに入れば、窓枠を輪郭する間接照明が浮き上がって美しい。食事の後は気ままに飲み物を頼みつつ、時刻表に読み入ったり、フルにリクライニングして軽く眠ったり。何とも贅沢な移動時間を過ごす。そうこうしていれば3時間はあっという間で、新青森に到着となった。新幹線の定時性には毎度のことながら驚嘆する。
・厳冬の青森市街
到着前の車内放送で、スーパー白鳥が運休になっていることを知る。どうやら津軽海峡線は大雪の影響で昨日からまともに動いていないらしい。今日は津軽線油川の近くで海峡をくぐる貨物列車を撮影しようかと思っていたが、走っていないのではどうにもならない。豊盃の特別純米酒と田酒の酒粕飴をみやげに買った後、とりあえず宿に荷物を預けてから青森市街をぶらつくことにする。
まずは古川市場でのっけ丼を食べる。予め白飯の丼を買っておき、少しずつネタを買い足しながらオーダーメイドの海鮮丼を作っていくという面白いシステム。なかなか満足である。その後は雪の街をぶらつき、善知鳥(うとう)神社という古い神社にたどり着く。青森発祥の神社ということで、かなり長い歴史をもつようだ。池の水は凍り付き、除雪されていない庭園は深い雪に閉ざされている。神社を去った後は地図を頼りに色々な寺院を回ってみたが、どこの建築もかなり現代風であまり見栄えがしない。そろそろ吹雪になってきたので駅の方へ戻ることにする。アスパムという港に面した観光物産館で少し休憩。窓外に広がる公園も一面の雪景色で、完全にシーズンオフの様相を呈している。さらに駅の方へ歩いて行くと宿の裏手に酒屋があったのでふと立ち寄り、安東水軍の大吟醸を手に入れた。どうやら鰺ヶ沢の酒らしい。最後は桟橋へ向かい、八甲田丸を見に行く。暗澹たる海に向かって鉛色の空から白い雪が舞い降りる様子は、まさに津軽海峡・冬景色。これほどまでに身も心も寒くなったのはいつ以来だろうか。
・青森の夜
風呂に入った後、あけぼのと日本海を撮りに駅へ向かったが、改札口には人だかりができて何やらざわついている。見れば、奥羽本線が全面運休という昼間よりもひどい状況になっていた。想定外の大雪で、青森~弘前間での除雪作業が全然追い付かないのだという。普通列車は続々と運休が決まり、発車時刻を30分以上すぎてようやくあけぼのの運休も決まった。日本海がウヤになるのも時間の問題だろうということで、撮影は諦めて飲みに出かける。
昼間目をつけておいた「千や」という居酒屋へ。青森の地酒が一通り揃っている。津軽じょっぱりを熱燗で頂いた後、田酒、駒泉と続く。駒泉は米の味が豊かで香り高く、特に美味しかった。七戸の酒らしい。ホヤとこのわたの塩辛であるバクライという珍味も食する。外は人通りも少なく極寒の大雪だが、暖かい店に入りこうして一人ゆっくり飲むというのは、何とも冬の旅情に溢れる至福の時間である。
22時前に駅へ戻ってみると、どうやら急行はまなすは発車を1時間遅らせて運転するらしい。未だに走り続ける北の夜行急行。寝台車と座席車の混成編成が機関車に牽かれて津軽海峡をくぐり、北海道の地を走る。今夜の牽引はED79 11。機関車の足回りはすでに雪まみれになっている。客車の塗装はボロボロで、だいぶガタが来ているようだ。凍えながら何枚か写真を撮る。そうこうしていると、何と日本海が入線してくると放送があるではないか。とうに運休が決まっていたものだと思っていたが、噂によれば団体客が入っているため何としても走らせるらしい。出発は所定の時刻から7時間以上遅れ、未明の3時頃になるという。機関車はEF81 114。トワイライト色である。この塗装はどうも青色の客車になじまないし、日本海のヘッドマークも沈んでしまって見栄えがしない。しかしそんな姿もあと2週間あまりで見られなくなるとは、寂しいものである。3番線のはまなすと4番線の日本海が並び、ホームの両側にブルーの車体が佇む豪華な競演のひと時となった。23時42分、はまなすは1時間遅れで青森を発車。日本海だけが残り、凍てつく寒さの中、発車の時を待っていた。
写真
1枚目:E5系はやぶさ(@東京)
2枚目:急行はまなす(@青森)
3枚目:特急日本海(@青森)
2363文字
2/27
東京812 → 新青森1122
東北新幹線1B はやぶさ1号 E514-2
新青森1140(+20) → 青森1147(+20)
奥羽本線2041M 特急つがる1号 クハE751-3
青森観光
青森泊
東横イン青森駅正面口
・グランクラスの旅
今春のダイヤ改正で姿を消す特急日本海、その最後の勇姿を北東北の地で網膜と撮像素子に焼き付けようと思い立ったのがこの旅行の始まりである。まずは東北新幹線で青森入りする。東京から3時間あまりで着いてしまうとは、本当に便利になったものだ。
せっかくなので今回はグランクラスを取ってみた。軽食が出る上に、アルコールを含めた飲み物が飲み放題。座席も至って快適で、2+1列というゆとりある配置のため周りの乗客の存在をあまり意識することがない。絨毯は褐色、天井の照明は線路と垂直の方向に配されていて鉄道車両にしては珍しい。荷物の収納棚は航空機のそれと同等のもの。トンネルに入れば、窓枠を輪郭する間接照明が浮き上がって美しい。食事の後は気ままに飲み物を頼みつつ、時刻表に読み入ったり、フルにリクライニングして軽く眠ったり。何とも贅沢な移動時間を過ごす。そうこうしていれば3時間はあっという間で、新青森に到着となった。新幹線の定時性には毎度のことながら驚嘆する。
・厳冬の青森市街
到着前の車内放送で、スーパー白鳥が運休になっていることを知る。どうやら津軽海峡線は大雪の影響で昨日からまともに動いていないらしい。今日は津軽線油川の近くで海峡をくぐる貨物列車を撮影しようかと思っていたが、走っていないのではどうにもならない。豊盃の特別純米酒と田酒の酒粕飴をみやげに買った後、とりあえず宿に荷物を預けてから青森市街をぶらつくことにする。
まずは古川市場でのっけ丼を食べる。予め白飯の丼を買っておき、少しずつネタを買い足しながらオーダーメイドの海鮮丼を作っていくという面白いシステム。なかなか満足である。その後は雪の街をぶらつき、善知鳥(うとう)神社という古い神社にたどり着く。青森発祥の神社ということで、かなり長い歴史をもつようだ。池の水は凍り付き、除雪されていない庭園は深い雪に閉ざされている。神社を去った後は地図を頼りに色々な寺院を回ってみたが、どこの建築もかなり現代風であまり見栄えがしない。そろそろ吹雪になってきたので駅の方へ戻ることにする。アスパムという港に面した観光物産館で少し休憩。窓外に広がる公園も一面の雪景色で、完全にシーズンオフの様相を呈している。さらに駅の方へ歩いて行くと宿の裏手に酒屋があったのでふと立ち寄り、安東水軍の大吟醸を手に入れた。どうやら鰺ヶ沢の酒らしい。最後は桟橋へ向かい、八甲田丸を見に行く。暗澹たる海に向かって鉛色の空から白い雪が舞い降りる様子は、まさに津軽海峡・冬景色。これほどまでに身も心も寒くなったのはいつ以来だろうか。
・青森の夜
風呂に入った後、あけぼのと日本海を撮りに駅へ向かったが、改札口には人だかりができて何やらざわついている。見れば、奥羽本線が全面運休という昼間よりもひどい状況になっていた。想定外の大雪で、青森~弘前間での除雪作業が全然追い付かないのだという。普通列車は続々と運休が決まり、発車時刻を30分以上すぎてようやくあけぼのの運休も決まった。日本海がウヤになるのも時間の問題だろうということで、撮影は諦めて飲みに出かける。
昼間目をつけておいた「千や」という居酒屋へ。青森の地酒が一通り揃っている。津軽じょっぱりを熱燗で頂いた後、田酒、駒泉と続く。駒泉は米の味が豊かで香り高く、特に美味しかった。七戸の酒らしい。ホヤとこのわたの塩辛であるバクライという珍味も食する。外は人通りも少なく極寒の大雪だが、暖かい店に入りこうして一人ゆっくり飲むというのは、何とも冬の旅情に溢れる至福の時間である。
22時前に駅へ戻ってみると、どうやら急行はまなすは発車を1時間遅らせて運転するらしい。未だに走り続ける北の夜行急行。寝台車と座席車の混成編成が機関車に牽かれて津軽海峡をくぐり、北海道の地を走る。今夜の牽引はED79 11。機関車の足回りはすでに雪まみれになっている。客車の塗装はボロボロで、だいぶガタが来ているようだ。凍えながら何枚か写真を撮る。そうこうしていると、何と日本海が入線してくると放送があるではないか。とうに運休が決まっていたものだと思っていたが、噂によれば団体客が入っているため何としても走らせるらしい。出発は所定の時刻から7時間以上遅れ、未明の3時頃になるという。機関車はEF81 114。トワイライト色である。この塗装はどうも青色の客車になじまないし、日本海のヘッドマークも沈んでしまって見栄えがしない。しかしそんな姿もあと2週間あまりで見られなくなるとは、寂しいものである。3番線のはまなすと4番線の日本海が並び、ホームの両側にブルーの車体が佇む豪華な競演のひと時となった。23時42分、はまなすは1時間遅れで青森を発車。日本海だけが残り、凍てつく寒さの中、発車の時を待っていた。
写真
1枚目:E5系はやぶさ(@東京)
2枚目:急行はまなす(@青森)
3枚目:特急日本海(@青森)
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さらばデヤ7200・7290
2012年2月26日 鉄道と旅行
東急の電気検測車デヤ7200・7290がさよなら運転をするということで、少し撮りに行ってきました。普段のデヤ検についてはダイヤを把握していたわけでもなく、たまに見かけるレアキャラだから会えたらラッキー、というくらいにしか考えていなかったものの、引退となるとやはり足を運ばざるを得ない。大きくカーブしたホーム、ステンレスの質感にミスマッチな派手なカラーリング、ぽつりと灯った赤い尾灯・・・急行電車の待避で夜の梶ヶ谷の2番線に佇んでいた姿が妙に印象に残っています。
祐天寺で渋谷行の走行を撮ろうかと思っていましたが、ホーム先端から少し引いた位置で構えていたので、ちょうど通過時刻に入線してきた下りの各停ともろに被って撮影は撃沈。東横線渋谷では4番線に入ってしばしの停車。しかしホーム上は大混雑で、渋谷方のデヤ7200はまともに撮れず。ただ反対側の降車ホームは比較的空いていたので、7290の方はそこそこじっくり撮影できました。それにしてもこんなにも多くの人が集結するとは。程度の差こそあれ鉄道趣味というのがひろく人口に膾炙していることを改めて実感。やがて列車は粛々と渋谷を後にしていきました。もう見納めかと思うと、もっと撮っておけば良かったという後悔の念にかられる。普段通りの姿を普段通りに撮影する、これは簡単なようで意外と難しいものです。
久々に敬体を織り交ぜてみたが何だか気持ち悪いww
夕方は代々木。夜は恵比寿ガーデンプレイス。
写真(@渋谷)
1枚目:大混雑
2枚目:電気検測車
3枚目:出発の時
658文字
祐天寺で渋谷行の走行を撮ろうかと思っていましたが、ホーム先端から少し引いた位置で構えていたので、ちょうど通過時刻に入線してきた下りの各停ともろに被って撮影は撃沈。東横線渋谷では4番線に入ってしばしの停車。しかしホーム上は大混雑で、渋谷方のデヤ7200はまともに撮れず。ただ反対側の降車ホームは比較的空いていたので、7290の方はそこそこじっくり撮影できました。それにしてもこんなにも多くの人が集結するとは。程度の差こそあれ鉄道趣味というのがひろく人口に膾炙していることを改めて実感。やがて列車は粛々と渋谷を後にしていきました。もう見納めかと思うと、もっと撮っておけば良かったという後悔の念にかられる。普段通りの姿を普段通りに撮影する、これは簡単なようで意外と難しいものです。
久々に敬体を織り交ぜてみたが何だか気持ち悪いww
夕方は代々木。夜は恵比寿ガーデンプレイス。
写真(@渋谷)
1枚目:大混雑
2枚目:電気検測車
3枚目:出発の時
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旧型客車に揺られて。
・千葉みなとへ
朝の久留里線を満喫した後は、SLの始発駅千葉みなとを目指す。蘇我に到着すると、構内の留置線にDL内房線100周年記念号が運転停車していた。ホームには人だかりができ、ロープによる制限が行われている。列車の先頭はDE10 1752が率い、一方の最後尾ではC61 20が白い息を吐きながらしんがりを務める。両機関車の間には7両の重厚な旧型客車が連なる。こうして見るとピカピカに磨かれたDE10もなかなか精悍なもので、赤色が実に良く映えていて美しい。辺りの空気全体を震わせるような汽笛が一声、列車はゆっくりと動き出し京葉線へ入っていく。
後続の快速で千葉みなとに到着すると、ホームは凄まじい様相を呈していた。黒山の人だかりが列車にカメラを向け、ひしめき合っている。駅員はもちろんのこと警察官も大勢出動するという体制で、必死でロープを支えながら群衆を黄線の内側へと押し返している。撮影者は交代交代で写真を撮ってはいるのだが、如何せんこの混沌ではしばらくはまともな構図で撮れそうもない。先月の三十三間堂成人射会を思い出したww 20分ほど粘ってようやく前に出ることが出来たので、数枚の編成写真をカメラに収める。普段はJR型電車しか往来しない京葉線の構内にレトロな編成が佇む様子は不思議である。
白昼の光線を受けて艶やかに黒光りする機関車は勇ましい。発車までは時間に余裕があったのでしばしC61を観察。SLに関しては素人同然なので何も分からないが、それにしてもボイラー周りの複雑怪奇な配管構造、シリンダーから伸びる主連棒、動輪にまとわりつく幾多もの走行装置、それらが金属質の鈍い輝きを放ちながら精緻に連絡し合っている機械構造には何とも惹かれるものがある。蒸気機関車は、歴史の必然とはいえ機械文明が生み出した一種の芸術作品ともいえよう。
・SLの旅
今回は幸いにも一般開放枠の指定券をボックスで確保することが出来たので、一昨年の北海道旅行の面々でSL乗車を楽しむ。よくよく考えてみれば、SLに乗ったのはこれが初めてである。いつも撮ってばかりであったから、今回乗車できたこと、それも旧型客車に乗れたことは非常に貴重な経験かもしれない。車窓に目をやると、沿線の住民がみな手を振ってくれている。地元をSLが走るとなると、やはりそれは見に来るだろう。
姉ヶ崎では1時間以上の停車時間があったので駅前で昼食を調達。ホームでは千葉県のマスコットキャラ「チーバくん」や乗務員との記念撮影イベントが盛大に行われていたので、折角なので撮ってもらったww 各車両の乗車口には2、3人ずつ車掌が立っているということは、この列車には相当多くの乗組員が乗務していることになる。姉ヶ崎を発車してから木更津まではあっという間だが、車内では車掌によるじゃんけん大会が行われ、勝ち残った乗客には数々の記念品が贈呈された。まるで試合後のレセプションのような雰囲気で、愉快なひと時が過ぎてゆく。千葉支社、やるねえ。この力の入れ具合はなかなか凄い。
・夕刻の木更津
木更津に到着すると反対側のホームはまたもや黒山の人だかりである。解放された機関車はいったん君津方へ引き上げ後、久留里線の車庫の脇をかすめて、今度は久留里線ホームの向かい側の留置線へ入ってくる。そこで再び方向転換を行い、今度は車庫の奥へと入っていった。漆黒の巨体から吐き出される白煙は実にダイナミックで、鳴り渡る汽笛は全身の感覚器を震わせる。
駅東口を出て君津方面へ歩き、突き当たった川の対岸から機関車を望む。C61 20は夕刻の斜光線に照らし出され、整備を受けている。乗務員達がぞろぞろと集まってきて、機関車の前に並んで記念撮影を始めた。20人くらいはいるだろうか、かなりの人数である。後に機関士や保線作業員達も撮影に加わり、何とも和やかな雰囲気。「ありがとう」の文字が書かれた鉢巻が掲げられ、最後は川の対岸にいる我々に向かって手を振りながら歓声、そして拍手喝采が湧き起こる。すばらしい一日であった。
・帰路
国鉄色の充当された久留里線943Dを構外から撮影した後、横浜行のアクアラインバスで木更津を後にした。宵闇の迫る東京湾、黄昏に浮かび上がった富士山のシルエットを海上で眺めながら眠りに落ちる。
写真
1枚目:SL内房線100周年記念号(@千葉みなと)
2枚目:旧型客車 スハフ32 2357
3枚目:記念撮影(@木更津)
2330文字
木更津1102(+3) → 蘇我1133(+3)
内房線4064F 快速
9120レ撮影
蘇我1150 → 千葉みなと1154
京葉線1158A 快速
9121レ撮影
千葉みなと1257 → 木更津1532
京葉線・内房線9121レ 快速SL内房線100周年記念号
スハフ32 2357
C61 20撮影
木更津駅東口1720 → 横浜駅1830(+15)
日東交通高速バス
・千葉みなとへ
朝の久留里線を満喫した後は、SLの始発駅千葉みなとを目指す。蘇我に到着すると、構内の留置線にDL内房線100周年記念号が運転停車していた。ホームには人だかりができ、ロープによる制限が行われている。列車の先頭はDE10 1752が率い、一方の最後尾ではC61 20が白い息を吐きながらしんがりを務める。両機関車の間には7両の重厚な旧型客車が連なる。こうして見るとピカピカに磨かれたDE10もなかなか精悍なもので、赤色が実に良く映えていて美しい。辺りの空気全体を震わせるような汽笛が一声、列車はゆっくりと動き出し京葉線へ入っていく。
後続の快速で千葉みなとに到着すると、ホームは凄まじい様相を呈していた。黒山の人だかりが列車にカメラを向け、ひしめき合っている。駅員はもちろんのこと警察官も大勢出動するという体制で、必死でロープを支えながら群衆を黄線の内側へと押し返している。撮影者は交代交代で写真を撮ってはいるのだが、如何せんこの混沌ではしばらくはまともな構図で撮れそうもない。先月の三十三間堂成人射会を思い出したww 20分ほど粘ってようやく前に出ることが出来たので、数枚の編成写真をカメラに収める。普段はJR型電車しか往来しない京葉線の構内にレトロな編成が佇む様子は不思議である。
白昼の光線を受けて艶やかに黒光りする機関車は勇ましい。発車までは時間に余裕があったのでしばしC61を観察。SLに関しては素人同然なので何も分からないが、それにしてもボイラー周りの複雑怪奇な配管構造、シリンダーから伸びる主連棒、動輪にまとわりつく幾多もの走行装置、それらが金属質の鈍い輝きを放ちながら精緻に連絡し合っている機械構造には何とも惹かれるものがある。蒸気機関車は、歴史の必然とはいえ機械文明が生み出した一種の芸術作品ともいえよう。
・SLの旅
今回は幸いにも一般開放枠の指定券をボックスで確保することが出来たので、一昨年の北海道旅行の面々でSL乗車を楽しむ。よくよく考えてみれば、SLに乗ったのはこれが初めてである。いつも撮ってばかりであったから、今回乗車できたこと、それも旧型客車に乗れたことは非常に貴重な経験かもしれない。車窓に目をやると、沿線の住民がみな手を振ってくれている。地元をSLが走るとなると、やはりそれは見に来るだろう。
姉ヶ崎では1時間以上の停車時間があったので駅前で昼食を調達。ホームでは千葉県のマスコットキャラ「チーバくん」や乗務員との記念撮影イベントが盛大に行われていたので、折角なので撮ってもらったww 各車両の乗車口には2、3人ずつ車掌が立っているということは、この列車には相当多くの乗組員が乗務していることになる。姉ヶ崎を発車してから木更津まではあっという間だが、車内では車掌によるじゃんけん大会が行われ、勝ち残った乗客には数々の記念品が贈呈された。まるで試合後のレセプションのような雰囲気で、愉快なひと時が過ぎてゆく。千葉支社、やるねえ。この力の入れ具合はなかなか凄い。
・夕刻の木更津
木更津に到着すると反対側のホームはまたもや黒山の人だかりである。解放された機関車はいったん君津方へ引き上げ後、久留里線の車庫の脇をかすめて、今度は久留里線ホームの向かい側の留置線へ入ってくる。そこで再び方向転換を行い、今度は車庫の奥へと入っていった。漆黒の巨体から吐き出される白煙は実にダイナミックで、鳴り渡る汽笛は全身の感覚器を震わせる。
駅東口を出て君津方面へ歩き、突き当たった川の対岸から機関車を望む。C61 20は夕刻の斜光線に照らし出され、整備を受けている。乗務員達がぞろぞろと集まってきて、機関車の前に並んで記念撮影を始めた。20人くらいはいるだろうか、かなりの人数である。後に機関士や保線作業員達も撮影に加わり、何とも和やかな雰囲気。「ありがとう」の文字が書かれた鉢巻が掲げられ、最後は川の対岸にいる我々に向かって手を振りながら歓声、そして拍手喝采が湧き起こる。すばらしい一日であった。
・帰路
国鉄色の充当された久留里線943Dを構外から撮影した後、横浜行のアクアラインバスで木更津を後にした。宵闇の迫る東京湾、黄昏に浮かび上がった富士山のシルエットを海上で眺めながら眠りに落ちる。
写真
1枚目:SL内房線100周年記念号(@千葉みなと)
2枚目:旧型客車 スハフ32 2357
3枚目:記念撮影(@木更津)
2330文字
国鉄色とタブレット交換のある風景。
・朝の久留里線
大変有難いことに久留里まで車での追っかけをして下さるとのことで、お言葉に甘え朝の撮影に出かける。まずは下郡駅近くの踏切で始発の下りを押さえた後、同じ列車を追いかけて久留里へ。まだ夜は明けたばかりで、平野部の遠くにしか日が差し込んでいない。久留里では亀山から来た上りと交換するダイヤなので、駅先の築堤から朝靄の鉄橋を渡ってくる列車を望遠で撮った後、駅での交換も撮影。線路脇は墓地になっているが、ここは敷設の際に墓地を貫く形で線路を通した経緯があるらしい。幸いなことに、上り924D(A11)の亀山方は国鉄色のキハ30 100であった。後追いでは橙色の朝日を正面から受ける瞬間があったが、このような光線状態では国鉄色は何とも妖艶に浮かび上がる。
・国鉄色を追う
とくに下調べをしてきたわけではなかったが、携帯で適当に検索したらダイヤと運用の関係が判明したので、A11に入った国鉄色をメインで撮ることにする。次の上り列車で下郡へ向かい、朝撮ったのと同じ踏切で国鉄色が先頭となった下り925Dを狙うことにする。撮影地はゆるいアウトカーブで、雑木林の合間から姿を現した列車を縦構図でとらえる。光線は半逆光といったところで前面の造形に少し影が出てしまったが、キハ30の武骨な感じが現れた感もある。それにしても国鉄色は美しい。
・タブレット交換
久留里線にはタブレット閉塞というもう一つの魅力がある。21世紀も10年以上が経過したこの現代にあって、それもこれほどの首都圏近郊にこの古めかしいシステムが残っていたこと自体が奇跡なのだが、ついに今春のダイヤ改正を機に廃止されてしまうようである。交換設備は横田と久留里にあり、列車交換のたびに駅員がタブレット授受に奔走する。確かにこれでは人件費もままならないだろう。やはり房総半島は動労千葉の力が強いようだ。
横田は完全な東西の線上に配置された駅なので、東横田方から構内を眺めれば美しい順光で交換風景を撮影できる。連写をフルに活かしてタブレット授受を撮影。後から見返してみればまるでパラパラ漫画のようである。辺りは開けた平野部で、東横田を出発した時には前方に富士山を望むこともできた。今日は雲一つない快晴。タブレットの円環が青空に映える。何とも気分はすがすがしい。10時台の上り930DはA11運用で、先ほど下郡で撮った列車の返しである。国鉄色のキハ30 100に乗って木更津へ出た。
写真
1枚目:朝靄そして朝霜。2両編成の列車がトコトコと鉄橋を渡る(@平山~久留里)
2枚目:国鉄色が駆ける(@馬来田~下郡)
3枚目:タブレット交換(@横田)
1511文字
921D撮影(@馬来田~下郡)
921D・924D撮影(@久留里)
久留里809 → 下郡822
久留里線926D キハ38 1
925D撮影(@馬来田~下郡)
下郡917 → 横田929
久留里線928D キハ37 2
930D・929D撮影(@横田)
横田1026 → 木更津1042
久留里線930D キハ30 100
・朝の久留里線
大変有難いことに久留里まで車での追っかけをして下さるとのことで、お言葉に甘え朝の撮影に出かける。まずは下郡駅近くの踏切で始発の下りを押さえた後、同じ列車を追いかけて久留里へ。まだ夜は明けたばかりで、平野部の遠くにしか日が差し込んでいない。久留里では亀山から来た上りと交換するダイヤなので、駅先の築堤から朝靄の鉄橋を渡ってくる列車を望遠で撮った後、駅での交換も撮影。線路脇は墓地になっているが、ここは敷設の際に墓地を貫く形で線路を通した経緯があるらしい。幸いなことに、上り924D(A11)の亀山方は国鉄色のキハ30 100であった。後追いでは橙色の朝日を正面から受ける瞬間があったが、このような光線状態では国鉄色は何とも妖艶に浮かび上がる。
・国鉄色を追う
とくに下調べをしてきたわけではなかったが、携帯で適当に検索したらダイヤと運用の関係が判明したので、A11に入った国鉄色をメインで撮ることにする。次の上り列車で下郡へ向かい、朝撮ったのと同じ踏切で国鉄色が先頭となった下り925Dを狙うことにする。撮影地はゆるいアウトカーブで、雑木林の合間から姿を現した列車を縦構図でとらえる。光線は半逆光といったところで前面の造形に少し影が出てしまったが、キハ30の武骨な感じが現れた感もある。それにしても国鉄色は美しい。
・タブレット交換
久留里線にはタブレット閉塞というもう一つの魅力がある。21世紀も10年以上が経過したこの現代にあって、それもこれほどの首都圏近郊にこの古めかしいシステムが残っていたこと自体が奇跡なのだが、ついに今春のダイヤ改正を機に廃止されてしまうようである。交換設備は横田と久留里にあり、列車交換のたびに駅員がタブレット授受に奔走する。確かにこれでは人件費もままならないだろう。やはり房総半島は動労千葉の力が強いようだ。
横田は完全な東西の線上に配置された駅なので、東横田方から構内を眺めれば美しい順光で交換風景を撮影できる。連写をフルに活かしてタブレット授受を撮影。後から見返してみればまるでパラパラ漫画のようである。辺りは開けた平野部で、東横田を出発した時には前方に富士山を望むこともできた。今日は雲一つない快晴。タブレットの円環が青空に映える。何とも気分はすがすがしい。10時台の上り930DはA11運用で、先ほど下郡で撮った列車の返しである。国鉄色のキハ30 100に乗って木更津へ出た。
写真
1枚目:朝靄そして朝霜。2両編成の列車がトコトコと鉄橋を渡る(@平山~久留里)
2枚目:国鉄色が駆ける(@馬来田~下郡)
3枚目:タブレット交換(@横田)
1511文字
冬の京都で弓を弯く。
・三十三間堂大的大会
7時過ぎに宿を出る。東山閣から歩いて5分ほどで三十三間堂に到着。受付を済ませ、選手控えに荷物を置く。まだ日が昇り切らず、招集の広場は底冷えしている。
遠的を行うのは初めてであったが、遠的とは関係なしに寒さと緊張感で体がこわばり、二本とも的の下の砂利道にズシャってしまった。もっとのびのびと素直に弯けるようになりたい。それこそ、新年の目標にも掲げた「ストレートでシンプルな美しさ」を目指したいところなのだが、どうもまだ言ってみただけという感じで全く実行に移せていないのが現状。有言不実行というのは最悪なので、理屈とか論理とか自分の考えとか、そういうものは確かに大事ではあるけれどもひとまず脇に置いておくとして、もっと人間的でもっと合理的な感覚というものを今年は磨いていきたい。何にせよ、一手だったとはいえ良い経験であった。前予科主任の彼は一手皆中という偉業を成し遂げたので、決勝に進出。どうやら全塾に勝ったようだww 「適当に狙いを上げたら二本とも中った」らしいが、こういう美しさが自分にも欲しい。女子の部までは少し暇があったので、宿の荷物置場に戻り道着を着替えてしまう。
女子の部は百花繚乱の華やかさである。朝の寒い時間帯にやたら急かされて弯いた男子の部とは比べ物にならないww やはりこの射会は振袖と袴こそがメインであって、それが京の冬の風物詩としても有名になっている。会場は一般開放され、親御さんと思しき人々、地元民らしき人々、そして凄まじい撮影機材を抱えた人々で観覧席はごった返している。全員が射場を一目見ようと押しかけ、満員電車を超える人ごみ。脚立に乗って望遠レンズを構える人が群がる様子は、有名撮影地での場所の取り合いやブルートレイン最終日の東京駅に匹敵するものがある。結局最前列から程遠いところで撮ることになってしまったので、カメラを頭上に持ち上げファインダーを覗かずに、撮影後の画像確認だけを頼りに感覚で撮りまくる。残念ながらピントの甘い写真を量産する結果に終わったが、幸い後射場に入ってくれたのでなんとか撮れるには撮れた。1時間近く背伸びをしていたので、下腿の筋に激痛が走る。
その後近くの「京旭屋」でにしんそばと鯖寿司を食べ、空いた時間で三十三間堂を拝観する。千体の千手観音が堂内に整列する様子は極めて圧巻で、仏像の森と呼ばれるのもうなずける。三十三間堂は何より通し矢でも有名で、堂内に飾られた無数の額がその歴史を物語る。それにしても、夕刻から翌夕刻までの24時間で13053本を放ち、うち8133本が120メートルの距離を射通したという壮絶な記録にはただただ驚くばかり。折角なので御守りを買って帰る。
女子の部が終わると有段者の部。どこかの立の二的が押手・勝手ともに激しく震動するという凄まじい射型だったので驚愕したww その後は決勝。我らが前予科主は残念ながら振分けられてしまったけれども、それでも十分な勇姿であった。気がつけばもう夕方である。三十三間堂大的大会、これにて終了。
・帰路へ
ずいぶん疲労もたまっていたし残った時間もいささか中途半端であったから積極的に観光というわけにもいかず、のんびりと支度をしてから全員で京都駅に向かう。土産物を買う時間があったので、伊勢丹の地下を見て回る。酒類売り場が非常に充実している。色々と試飲させてもらった上で、京都らしい地酒ということで「松の翠」の純米大吟醸を手に入れる。この他にはちりめん山椒としそのあて味噌を合わせて買っておいた。和菓子は和菓子で良いのだが、どうも開けたその場限りで終わってしまうような気がしてもったいないのである。夕食は伊勢丹11階の洋食屋に入った。旅行中にこうして集まるのも最後である。
形式にとらわれてはいけない。形式とは本来内容に追従するものであって、内容を直に反映するものであるはずだ。したがって、立場とか身分、とくに先輩とか後輩とかいった関係、そういったものは永続的にして絶対的でありながらしかし形式の一種に過ぎない。本質に目を向けてみれば、先輩だから先輩、後輩だから後輩というのではなくて、何か内容を伴っているから先輩、同じく何か別の内容を伴っているから後輩なのである。理想的には、そうあるべきだと思う。実際のところ、何の文脈もない純粋に客観的な視点から人間を見てみれば、先輩と後輩の違いというのは生まれた時期の違いでしかない。それを承知した上で、いかに互いの人間としての内容を深め合っていけるかが真の関係なのであって、ただ教えていれば良いとか、ただ言うことを聞いていれば良いとか、ただ無難に儀礼的であれば良いとか、そういういかにも単純で思考停止的な考えは次第に両者の齟齬を生んでいくばかりか、人間関係の集合体たる組織全体をも誤りかねないと思う。そういうわけで、対話を重視することは何事においてもまずは第一歩となろう。会話ではなく対話である。個人的な極論だが、会話はレトリックの類だと思っている。
写真
1枚目:大的大会 その一
2枚目:大的大会 その二
3枚目:週末の賑わい
2533文字
・三十三間堂大的大会
7時過ぎに宿を出る。東山閣から歩いて5分ほどで三十三間堂に到着。受付を済ませ、選手控えに荷物を置く。まだ日が昇り切らず、招集の広場は底冷えしている。
遠的を行うのは初めてであったが、遠的とは関係なしに寒さと緊張感で体がこわばり、二本とも的の下の砂利道にズシャってしまった。もっとのびのびと素直に弯けるようになりたい。それこそ、新年の目標にも掲げた「ストレートでシンプルな美しさ」を目指したいところなのだが、どうもまだ言ってみただけという感じで全く実行に移せていないのが現状。有言不実行というのは最悪なので、理屈とか論理とか自分の考えとか、そういうものは確かに大事ではあるけれどもひとまず脇に置いておくとして、もっと人間的でもっと合理的な感覚というものを今年は磨いていきたい。何にせよ、一手だったとはいえ良い経験であった。前予科主任の彼は一手皆中という偉業を成し遂げたので、決勝に進出。どうやら全塾に勝ったようだww 「適当に狙いを上げたら二本とも中った」らしいが、こういう美しさが自分にも欲しい。女子の部までは少し暇があったので、宿の荷物置場に戻り道着を着替えてしまう。
女子の部は百花繚乱の華やかさである。朝の寒い時間帯にやたら急かされて弯いた男子の部とは比べ物にならないww やはりこの射会は振袖と袴こそがメインであって、それが京の冬の風物詩としても有名になっている。会場は一般開放され、親御さんと思しき人々、地元民らしき人々、そして凄まじい撮影機材を抱えた人々で観覧席はごった返している。全員が射場を一目見ようと押しかけ、満員電車を超える人ごみ。脚立に乗って望遠レンズを構える人が群がる様子は、有名撮影地での場所の取り合いやブルートレイン最終日の東京駅に匹敵するものがある。結局最前列から程遠いところで撮ることになってしまったので、カメラを頭上に持ち上げファインダーを覗かずに、撮影後の画像確認だけを頼りに感覚で撮りまくる。残念ながらピントの甘い写真を量産する結果に終わったが、幸い後射場に入ってくれたのでなんとか撮れるには撮れた。1時間近く背伸びをしていたので、下腿の筋に激痛が走る。
その後近くの「京旭屋」でにしんそばと鯖寿司を食べ、空いた時間で三十三間堂を拝観する。千体の千手観音が堂内に整列する様子は極めて圧巻で、仏像の森と呼ばれるのもうなずける。三十三間堂は何より通し矢でも有名で、堂内に飾られた無数の額がその歴史を物語る。それにしても、夕刻から翌夕刻までの24時間で13053本を放ち、うち8133本が120メートルの距離を射通したという壮絶な記録にはただただ驚くばかり。折角なので御守りを買って帰る。
女子の部が終わると有段者の部。どこかの立の二的が押手・勝手ともに激しく震動するという凄まじい射型だったので驚愕したww その後は決勝。我らが前予科主は残念ながら振分けられてしまったけれども、それでも十分な勇姿であった。気がつけばもう夕方である。三十三間堂大的大会、これにて終了。
・帰路へ
ずいぶん疲労もたまっていたし残った時間もいささか中途半端であったから積極的に観光というわけにもいかず、のんびりと支度をしてから全員で京都駅に向かう。土産物を買う時間があったので、伊勢丹の地下を見て回る。酒類売り場が非常に充実している。色々と試飲させてもらった上で、京都らしい地酒ということで「松の翠」の純米大吟醸を手に入れる。この他にはちりめん山椒としそのあて味噌を合わせて買っておいた。和菓子は和菓子で良いのだが、どうも開けたその場限りで終わってしまうような気がしてもったいないのである。夕食は伊勢丹11階の洋食屋に入った。旅行中にこうして集まるのも最後である。
京都1932 → 新横浜2134前にも書いたような気がするが、帰路の新幹線では猛然と日常に引きずり戻されるような感覚を強いられる。飛ぶように後方へ消し飛んでゆく車窓、目にも止まらないほど速いかと言われれば必ずしもそうではなく、目で景色を追跡することもできる。この絶妙な速度が、それまでの旅の満足感と充足感、何とも形容しがたい哀愁と虚しさ、いよいよ旅も終局なのだというどこか寂しい思い、そして明日から何事もなかったかのように当たり前の日常が回転し始めることに気づくといういささかの憂鬱、そういった様々な感情の混合物を上手い具合に合成している。
東海道新幹線54A のぞみ54号
形式にとらわれてはいけない。形式とは本来内容に追従するものであって、内容を直に反映するものであるはずだ。したがって、立場とか身分、とくに先輩とか後輩とかいった関係、そういったものは永続的にして絶対的でありながらしかし形式の一種に過ぎない。本質に目を向けてみれば、先輩だから先輩、後輩だから後輩というのではなくて、何か内容を伴っているから先輩、同じく何か別の内容を伴っているから後輩なのである。理想的には、そうあるべきだと思う。実際のところ、何の文脈もない純粋に客観的な視点から人間を見てみれば、先輩と後輩の違いというのは生まれた時期の違いでしかない。それを承知した上で、いかに互いの人間としての内容を深め合っていけるかが真の関係なのであって、ただ教えていれば良いとか、ただ言うことを聞いていれば良いとか、ただ無難に儀礼的であれば良いとか、そういういかにも単純で思考停止的な考えは次第に両者の齟齬を生んでいくばかりか、人間関係の集合体たる組織全体をも誤りかねないと思う。そういうわけで、対話を重視することは何事においてもまずは第一歩となろう。会話ではなく対話である。個人的な極論だが、会話はレトリックの類だと思っている。
写真
1枚目:大的大会 その一
2枚目:大的大会 その二
3枚目:週末の賑わい
2533文字
冬の京都を歩く。
・朝
グランヴィア京都は駅と一体である上に高級感も漂い、なかなか良い宿であった。京都駅ビルの斬新な建築には賛否両論あるだろうが、全体を統一する暗い灰色が意外と似合っている。
朝食をとった後、とりあえず荷物を置くために東山七条にある今晩の宿、東山閣へと向かう。京都市バスに乗るのは高2の地域研究以来か。しかも当時の班員が3人、それぞれの所属を新たにして4年後の京都でふたたび一堂に会するとはなかなか感慨深くもある。
・建仁寺
女子部員が明日の振袖の試着を行っている間、我々は適当に周囲を観光する。昼は祇園で食べることになっていたので、そのすぐ南の一角に位置する京都最古の禅寺、建仁寺を訪れる。観光客で混んでいるわけでもなく、ゆっくりと境内を見て回る。本坊の庭も良いが、法堂の双龍図は圧巻。神社仏閣の歴史とか重厚感に関していえば、京都と関東とでは格の違いを感じる。碁盤目の通りをふと入った至るところにこうした立派な建築が佇んでいる様は、さすが千年の古都といったところである。
・祇園
歴史的町並の保存された花見小路通りは、すでに週末の賑やかな様相を呈している。車の往来がかなりあるのが難点だがそれでも十分な風情があり、昨冬に訪れた飛騨の小京都、高山の町並を思い出す。ただ、ここは高山とは違って露骨な観光地化がされていないのが良い。昼までまだ少し時間があり、試着も長引いているようなので、喫茶店に入って抹茶セーキを頂く。こうして外の往来を眺めながら時間をつぶすのもなかなか楽しい。
正午を半時間ほど過ぎた頃に女子部員と無事合流し、「くらした」という懐石料理の店へ行く。京料理を手軽に楽しむということで出発前の晩に下調べしてあったところで、昨夜の新幹線のデッキで予約を入れたのだった。花見小路から一本入った趣ある町屋風の店構えで、入り口をくぐると石畳のエントランスが奥まで続いている。通されたのは2階の個室で、8人にはちょうど良い広さである。雰囲気がなかなか良い。湯豆腐膳を注文し、次々と運ばれてくる品々に舌鼓を打つ。料理は期待以上のボリュームで、のんびりと食べていたら良い具合の満腹感。最後に集合写真を撮影し、店を後にした。一人旅で美味いものをしんみり食べるのも良いが、こうして大勢で会食というのにも替えがたい楽しみがある。
・銀閣
すでに14時半を回っているが、東山の慈照寺銀閣へ向かう。寺まで続く緩やかな坂道、立ち並ぶ土産物屋や食堂を眺めていると、4年前の5月の記憶が呼び戻される。あの時は雨が降っていて、何処かの食堂でにしんそばを食べたのだった。観光客はそこそこ入っているが、十分落ち着いて回れる。4年前はただ回るだけで終わってしまったが、改めて来てみると着眼点が少なからず変わっていることに気が付く。ただ、苔の地肌は何度見ても静謐な感じがある。
・哲学の道
南禅寺まで続く哲学の道を歩き始めたが、真冬なので木々の装いは寂しく、寒く乾いた雰囲気を感じるのみである。雪でも降っていればしっとりとしてまた違ったのかもしれないが、春の爛漫に思いを馳せながらとぼとぼと歩く。シーズン中はきっと大混雑することだろう。日没も近くいよいよ冷え込んできたので、途中でバス通りに戻って宿へ帰ることにする。
・ふたたび祇園
グランヴィア京都に比べると東山閣はずいぶん見劣りするが、夕食はなかなか良かった。食後はふたたび外へ繰り出す。祇園のバーに行くことになったが、如何せん大人数なので一軒目は門前払い。次へ向かうべく、妖艶にライトアップされた白川南通りを東へ歩き、花見小路通りに交わる。夜の川沿いの町並は、窓から漏れる料理屋の灯りや、ぼうっと浮かび上がる柳の並木と相まって美しい。石畳は街灯を静かに反射し、漆黒の川面には窓灯りがちらつく。「祇園359」というバーに入った。テーブルを囲んでゆっくりと話す。地域研究とか修学旅行ではおよそ実現しえなかった旅の楽しみである。
・夜
風呂に入ると、同じく明日の三十三間堂射会に参加すると思われる他校の人々が大挙していた。風呂場はかなり騒がしく、夜の祇園から突如別世界へと引き込まれた感もある。その後は深夜まで晩酌。思いのほか深い話が出た。
写真
1枚目:潮音庭@建仁寺
2枚目:慈照寺銀閣
3枚目:夜の祇園、花見小路通り
2023文字
・朝
グランヴィア京都は駅と一体である上に高級感も漂い、なかなか良い宿であった。京都駅ビルの斬新な建築には賛否両論あるだろうが、全体を統一する暗い灰色が意外と似合っている。
朝食をとった後、とりあえず荷物を置くために東山七条にある今晩の宿、東山閣へと向かう。京都市バスに乗るのは高2の地域研究以来か。しかも当時の班員が3人、それぞれの所属を新たにして4年後の京都でふたたび一堂に会するとはなかなか感慨深くもある。
・建仁寺
女子部員が明日の振袖の試着を行っている間、我々は適当に周囲を観光する。昼は祇園で食べることになっていたので、そのすぐ南の一角に位置する京都最古の禅寺、建仁寺を訪れる。観光客で混んでいるわけでもなく、ゆっくりと境内を見て回る。本坊の庭も良いが、法堂の双龍図は圧巻。神社仏閣の歴史とか重厚感に関していえば、京都と関東とでは格の違いを感じる。碁盤目の通りをふと入った至るところにこうした立派な建築が佇んでいる様は、さすが千年の古都といったところである。
・祇園
歴史的町並の保存された花見小路通りは、すでに週末の賑やかな様相を呈している。車の往来がかなりあるのが難点だがそれでも十分な風情があり、昨冬に訪れた飛騨の小京都、高山の町並を思い出す。ただ、ここは高山とは違って露骨な観光地化がされていないのが良い。昼までまだ少し時間があり、試着も長引いているようなので、喫茶店に入って抹茶セーキを頂く。こうして外の往来を眺めながら時間をつぶすのもなかなか楽しい。
正午を半時間ほど過ぎた頃に女子部員と無事合流し、「くらした」という懐石料理の店へ行く。京料理を手軽に楽しむということで出発前の晩に下調べしてあったところで、昨夜の新幹線のデッキで予約を入れたのだった。花見小路から一本入った趣ある町屋風の店構えで、入り口をくぐると石畳のエントランスが奥まで続いている。通されたのは2階の個室で、8人にはちょうど良い広さである。雰囲気がなかなか良い。湯豆腐膳を注文し、次々と運ばれてくる品々に舌鼓を打つ。料理は期待以上のボリュームで、のんびりと食べていたら良い具合の満腹感。最後に集合写真を撮影し、店を後にした。一人旅で美味いものをしんみり食べるのも良いが、こうして大勢で会食というのにも替えがたい楽しみがある。
・銀閣
すでに14時半を回っているが、東山の慈照寺銀閣へ向かう。寺まで続く緩やかな坂道、立ち並ぶ土産物屋や食堂を眺めていると、4年前の5月の記憶が呼び戻される。あの時は雨が降っていて、何処かの食堂でにしんそばを食べたのだった。観光客はそこそこ入っているが、十分落ち着いて回れる。4年前はただ回るだけで終わってしまったが、改めて来てみると着眼点が少なからず変わっていることに気が付く。ただ、苔の地肌は何度見ても静謐な感じがある。
・哲学の道
南禅寺まで続く哲学の道を歩き始めたが、真冬なので木々の装いは寂しく、寒く乾いた雰囲気を感じるのみである。雪でも降っていればしっとりとしてまた違ったのかもしれないが、春の爛漫に思いを馳せながらとぼとぼと歩く。シーズン中はきっと大混雑することだろう。日没も近くいよいよ冷え込んできたので、途中でバス通りに戻って宿へ帰ることにする。
・ふたたび祇園
グランヴィア京都に比べると東山閣はずいぶん見劣りするが、夕食はなかなか良かった。食後はふたたび外へ繰り出す。祇園のバーに行くことになったが、如何せん大人数なので一軒目は門前払い。次へ向かうべく、妖艶にライトアップされた白川南通りを東へ歩き、花見小路通りに交わる。夜の川沿いの町並は、窓から漏れる料理屋の灯りや、ぼうっと浮かび上がる柳の並木と相まって美しい。石畳は街灯を静かに反射し、漆黒の川面には窓灯りがちらつく。「祇園359」というバーに入った。テーブルを囲んでゆっくりと話す。地域研究とか修学旅行ではおよそ実現しえなかった旅の楽しみである。
・夜
風呂に入ると、同じく明日の三十三間堂射会に参加すると思われる他校の人々が大挙していた。風呂場はかなり騒がしく、夜の祇園から突如別世界へと引き込まれた感もある。その後は深夜まで晩酌。思いのほか深い話が出た。
写真
1枚目:潮音庭@建仁寺
2枚目:慈照寺銀閣
3枚目:夜の祇園、花見小路通り
2023文字
晩秋の秩父鉄道 Part 2
2011年11月21日 鉄道と旅行
・荒川橋梁
波久礼1430発の三峰口行に乗る。待避線には返空の7205(7305?)レが停車中であった。ここで待避と交換を同時に行うようである。親鼻で下車し、荒川橋梁を横から狙う定番撮影地へ向かう。駅員から聞いた貨物の時刻を参考に、夕方の撮影はここで決めることにする。
まずは親鼻橋の交差点から河原へ降り、先ほどの7205(7305?)レを撮影[1509]。残念ながら翳ってしまった。次なるは、上り7106レ[1537]。下りの返空とは異なり、上りは貨車に石灰石を積んでいるのでなかなか絵になる。合計20両の貨車が青いデキに連なってゴトゴトと橋梁を渡っていく姿は、まずこの秩父鉄道が第一に鉱山鉄道であることを思わせる。光線状態は最高で、急激に西に傾き始めた太陽から発せられる舐めるような斜光線が、あたかもスポットライトのように橋梁という舞台を照らし出しているかのようである。合間に通過するステンレス車体の普通列車は、鏡のように光線をはね返してまぶしく輝く。その後上長瀞側の対岸へ移動し、反対側の河原から見上げる形で2本ほど撮影した後、最後は橋梁の向こう側から逆光でシルエットを狙うことにした。秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、少し夕日らしくなったと思ったらあっという間に太陽高度が低くなってゆく。すでに東の空は夜のベールが包み始めており、西の空も黄昏時独特のグラデーションを見せている。
7206レはまるで影絵のように登場した[1638]。青インクを流したような色の空に燃え残るかすかな黄色い光、そのスクリーンを背にして、マッチ箱のような形をしたデキが菱形のパンタグラフを掲げ、何両ものヲキを従えながら黄昏の橋梁を渡ってゆく。満載された石灰石の山一つ一つさえも漆黒のシルエットとなって躍動し、鉱石列車独特の轍の音が長瀞の渓谷に淡々と響き渡る。物体をこうも多様に映し出す光の力に改めて心を動かされるひと時。その後まもなく日没を迎え、急激に冷え込んできた。303レ[1704]と7405レ[1722]まで粘って今日の撮影を終える。最後の方はほぼ闇に包まれてしまい大したものは写らなかったが、橋梁の後ろ、西の空低くに金星が瞬いていた。
上長瀞1739発の下り電車で去る。隣の親鼻で7306レと交換[1742]。宵闇に佇む鉱石列車というのもなかなか魅力的である。機会があればまた訪れてみたいところ。西武秩父の仲見世通りで「秩父錦」の純米吟醸と「武甲正宗」の特別純米を土産に買って帰る。充足の一日であった。
写真
1枚目:昼下がりの本線を下る(@波久礼~樋口)
2枚目:荒川橋梁を渡る鉱石列車(@親鼻~上長瀞)
3枚目:黄昏時のシルエット(@親鼻~上長瀞)
1208文字
波久礼1430発の三峰口行に乗る。待避線には返空の7205(7305?)レが停車中であった。ここで待避と交換を同時に行うようである。親鼻で下車し、荒川橋梁を横から狙う定番撮影地へ向かう。駅員から聞いた貨物の時刻を参考に、夕方の撮影はここで決めることにする。
まずは親鼻橋の交差点から河原へ降り、先ほどの7205(7305?)レを撮影[1509]。残念ながら翳ってしまった。次なるは、上り7106レ[1537]。下りの返空とは異なり、上りは貨車に石灰石を積んでいるのでなかなか絵になる。合計20両の貨車が青いデキに連なってゴトゴトと橋梁を渡っていく姿は、まずこの秩父鉄道が第一に鉱山鉄道であることを思わせる。光線状態は最高で、急激に西に傾き始めた太陽から発せられる舐めるような斜光線が、あたかもスポットライトのように橋梁という舞台を照らし出しているかのようである。合間に通過するステンレス車体の普通列車は、鏡のように光線をはね返してまぶしく輝く。その後上長瀞側の対岸へ移動し、反対側の河原から見上げる形で2本ほど撮影した後、最後は橋梁の向こう側から逆光でシルエットを狙うことにした。秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、少し夕日らしくなったと思ったらあっという間に太陽高度が低くなってゆく。すでに東の空は夜のベールが包み始めており、西の空も黄昏時独特のグラデーションを見せている。
7206レはまるで影絵のように登場した[1638]。青インクを流したような色の空に燃え残るかすかな黄色い光、そのスクリーンを背にして、マッチ箱のような形をしたデキが菱形のパンタグラフを掲げ、何両ものヲキを従えながら黄昏の橋梁を渡ってゆく。満載された石灰石の山一つ一つさえも漆黒のシルエットとなって躍動し、鉱石列車独特の轍の音が長瀞の渓谷に淡々と響き渡る。物体をこうも多様に映し出す光の力に改めて心を動かされるひと時。その後まもなく日没を迎え、急激に冷え込んできた。303レ[1704]と7405レ[1722]まで粘って今日の撮影を終える。最後の方はほぼ闇に包まれてしまい大したものは写らなかったが、橋梁の後ろ、西の空低くに金星が瞬いていた。
上長瀞1739発の下り電車で去る。隣の親鼻で7306レと交換[1742]。宵闇に佇む鉱石列車というのもなかなか魅力的である。機会があればまた訪れてみたいところ。西武秩父の仲見世通りで「秩父錦」の純米吟醸と「武甲正宗」の特別純米を土産に買って帰る。充足の一日であった。
写真
1枚目:昼下がりの本線を下る(@波久礼~樋口)
2枚目:荒川橋梁を渡る鉱石列車(@親鼻~上長瀞)
3枚目:黄昏時のシルエット(@親鼻~上長瀞)
1208文字
晩秋の秩父鉄道 Part 1
2011年11月21日 鉄道と旅行
秩父鉄道の鉱石列車を撮ってきました。武蔵溝ノ口から南武線、青梅線、八高線経由で東飯能へ。そこから西武秩父線で秩父入りする。片道3時間ほどかかるが、それでもこれほどの近くに魅力的な地方私鉄があるとはなかなか嬉しい。いまだ活躍する旧国鉄101系電車もさることながら、何よりも石灰石輸送の貨物列車が頻繁に山間部を行き交う様子は実に撮影欲をそそる。 ※[ ]内に時刻を記す
・三ノ輪引込線
まずは影森へ。ほぼ始発から乗り継ぎを重ね、824着。秩父太平洋セメント三ノ輪鉱業所への引込線がこの駅から分岐している。前の晩から影森に停泊している2本の返空列車と、10時台に影森に到着する返空列車(7303レ)の計3本が午前中にこの引込線から鉱業所内へ入り、そこで石灰石を満載して再び本線に戻ってくる。オレンジバーミリオンの1000系に乗って影森に着くと、ちょうど1本目の返空列車が発車するところであった。歩いて10分あまりの引込線に到着すると、列車は人が歩くような速度でゆっくりと鉱業所内へ引き込まれてゆく。小一時間経った頃、鉱業所を発車した7104レがデキ504の牽引で姿を現し、本線へと向かってゆく[913]。
今度は、影森駅構内に停車していたもう1本の返空列車が引込線へやってくる[934]。構内でいったん後退してから急坂を登ってくる様子が面白い。鉱業所内に入ると電気機関車はすぐに解放され、かわりに入替用のディーゼル機関車が20両の貨車をゆっくり奥へと引っ張っていく。煙突から噴き上がる白いエギゾーストが逆光の朝日に映え、機関音が武甲山の山あいに響き渡る。30分ほどで、貨車に石灰石を満載した7204レがデキ303の牽引で姿を現した[1012]。黙々と連なる漆黒の車列にはただならぬ迫力を感じる。
・波久礼~樋口にて
7303レの到着をホームから見届けた後[1033]、影森1038発の上り電車に乗って昼は波久礼に向かう。途中の野上で7403レと交換し[1112]、波久礼の一つ手前の樋口で先ほどの7204レを追い抜いた[1115]。今回は最新のダイヤグラムを準備する時間がなく、手元の古い貨物ダイヤが今も使えるかどうか不明である。しかも貨物時刻表では武川、武州原谷、影森の時刻しか分からないうえ、所要時間から考えるとどの鉱石列車も途中で間違いなく普通列車の待避やら交換やらで長時間停車を行っている。ところがほぼ全ての駅が交換・待避設備をもっているため、ダイヤグラムが手に入らないとまるで正確な予想がつかない。昨年4月の鉄道ダイヤ情報に付録として載っていたようなので、近く次回訪れるときはこれを携えていくとしよう。
波久礼で降り、交通量が多いにもかかわらず歩道の整備されていない国道140号線を樋口方面へ歩く。つい先ほど追い抜いた7204レがいつやって来てもおかしくないので撮影地探しに焦っていると、運良く築堤を登る獣道が見つかった。おそらく撮り鉄の先人が残した道だと思われる。ここは山腹をなぞるように国道と荒川に沿って線路が走っている。山の木々はうっすら黄褐色に色づき、いかにも晩秋らしい。まもなく7204レが登場[1127]。国道を走る車がたまたま途切れて幸運であった。その後、さらに樋口方面へ歩いて編成写真が収められるストレートの撮影地に向かうが、のんびり普通列車などを撮っていたら下り7005レに間に合わず、敢えなく国道から見送るという失態を犯してしまった[1155]。気を取り直して、国道が線路と別れ始めるあたりの小さな第4種踏切から線路沿いの道を歩き、果樹園のそばから下り列車を順光で狙う。ハイライトは、朝にも乗ったオレンジバーミリオンの1000系[1236]、7105レ[1309]。上りは完全な逆光ではあったが、7304レ[1230]、7404(7006?)レ[1358]を撮影。聞くところによると昨日まで貨物は運休だったとのこと。貨物列車はどうしても工場の生産状況や荷主の都合に左右される部分があるが、ちゃんと走っていてほっとした。
写真
1枚目:鉱業所から出てきた上り列車(@三ノ輪鉱業所~影森)
2枚目:晩秋の山間部をゆく(@樋口~波久礼)
3枚目:オレンジバーミリオン(@波久礼~樋口)
1908文字
・三ノ輪引込線
まずは影森へ。ほぼ始発から乗り継ぎを重ね、824着。秩父太平洋セメント三ノ輪鉱業所への引込線がこの駅から分岐している。前の晩から影森に停泊している2本の返空列車と、10時台に影森に到着する返空列車(7303レ)の計3本が午前中にこの引込線から鉱業所内へ入り、そこで石灰石を満載して再び本線に戻ってくる。オレンジバーミリオンの1000系に乗って影森に着くと、ちょうど1本目の返空列車が発車するところであった。歩いて10分あまりの引込線に到着すると、列車は人が歩くような速度でゆっくりと鉱業所内へ引き込まれてゆく。小一時間経った頃、鉱業所を発車した7104レがデキ504の牽引で姿を現し、本線へと向かってゆく[913]。
今度は、影森駅構内に停車していたもう1本の返空列車が引込線へやってくる[934]。構内でいったん後退してから急坂を登ってくる様子が面白い。鉱業所内に入ると電気機関車はすぐに解放され、かわりに入替用のディーゼル機関車が20両の貨車をゆっくり奥へと引っ張っていく。煙突から噴き上がる白いエギゾーストが逆光の朝日に映え、機関音が武甲山の山あいに響き渡る。30分ほどで、貨車に石灰石を満載した7204レがデキ303の牽引で姿を現した[1012]。黙々と連なる漆黒の車列にはただならぬ迫力を感じる。
・波久礼~樋口にて
7303レの到着をホームから見届けた後[1033]、影森1038発の上り電車に乗って昼は波久礼に向かう。途中の野上で7403レと交換し[1112]、波久礼の一つ手前の樋口で先ほどの7204レを追い抜いた[1115]。今回は最新のダイヤグラムを準備する時間がなく、手元の古い貨物ダイヤが今も使えるかどうか不明である。しかも貨物時刻表では武川、武州原谷、影森の時刻しか分からないうえ、所要時間から考えるとどの鉱石列車も途中で間違いなく普通列車の待避やら交換やらで長時間停車を行っている。ところがほぼ全ての駅が交換・待避設備をもっているため、ダイヤグラムが手に入らないとまるで正確な予想がつかない。昨年4月の鉄道ダイヤ情報に付録として載っていたようなので、近く次回訪れるときはこれを携えていくとしよう。
波久礼で降り、交通量が多いにもかかわらず歩道の整備されていない国道140号線を樋口方面へ歩く。つい先ほど追い抜いた7204レがいつやって来てもおかしくないので撮影地探しに焦っていると、運良く築堤を登る獣道が見つかった。おそらく撮り鉄の先人が残した道だと思われる。ここは山腹をなぞるように国道と荒川に沿って線路が走っている。山の木々はうっすら黄褐色に色づき、いかにも晩秋らしい。まもなく7204レが登場[1127]。国道を走る車がたまたま途切れて幸運であった。その後、さらに樋口方面へ歩いて編成写真が収められるストレートの撮影地に向かうが、のんびり普通列車などを撮っていたら下り7005レに間に合わず、敢えなく国道から見送るという失態を犯してしまった[1155]。気を取り直して、国道が線路と別れ始めるあたりの小さな第4種踏切から線路沿いの道を歩き、果樹園のそばから下り列車を順光で狙う。ハイライトは、朝にも乗ったオレンジバーミリオンの1000系[1236]、7105レ[1309]。上りは完全な逆光ではあったが、7304レ[1230]、7404(7006?)レ[1358]を撮影。聞くところによると昨日まで貨物は運休だったとのこと。貨物列車はどうしても工場の生産状況や荷主の都合に左右される部分があるが、ちゃんと走っていてほっとした。
写真
1枚目:鉱業所から出てきた上り列車(@三ノ輪鉱業所~影森)
2枚目:晩秋の山間部をゆく(@樋口~波久礼)
3枚目:オレンジバーミリオン(@波久礼~樋口)
1908文字
四国西部をぐるりと回る。
・四万十川
朝起きるのがなかなか辛かったが、高知8時21分発の特急で窪川へ向かう。土讃線といえば窪川までかなりの長旅だった記憶があるのだが、振り子車両の特急は身をよじりながら快走を続け、わずか1時間あまりの道のりであった。窪川からは予土線の旅である。キハ32の単行列車、その車窓から四万十川を眺める。地方交通線だけあり線路は低規格のようで、レールの継ぎ目ごとに激しく上下に揺すぶられる。土佐大正の付近で、四万十川は最大の支流である檮原川を合流して川幅が広くなる。ここから江川崎まではちょうど四万十川の中流域にあたり、列車はゆるやかな川の流れに沿いながらのんびりと西進する。沈下橋がいくつか架かっているのも目にしたが、コンクリートの路盤が川に落下している橋が二本ほどあった。沈下橋には欄干がなく、増水時には水中に沈む形で水を受け流すことを目的とした独特の設計であるが、路盤が落下しているということは近頃増水して流されたのだろうか。半家(はげ)~江川崎間にある長生(ながおい)沈下橋は7年前の12月に自転車で訪れたが、ここも橋が寸断されていた。清流をまたぐ道路の縁に腰かけながら、予土線の列車を一本撮影したことをよく覚えている。四万十川の本流は江川崎の付近から中村を目指して南下に転じ、西進を続ける予土線と別れる。それに伴って車窓も次第に変化し、清流の渓谷ではなく山あいの里を縫うようになる。
(余談)
7年前の12月といえばなんと中2である。自分でも驚きだが実はその当時の記録がこの日記に残っていて、見返してみて仰天したww 読むに堪えないし、消してしまいたいのもやまやまなのだが、7年という時の重みが辛うじて羞恥心に打ち勝っているからこれはこのままで残しておくとする。
・宇和島にて
終着の宇和島に着いたのは出発から2時間後、ほぼ正午である。松山行の特急まで40分ほど時間があるので、駅近くの「かどや」という店で鯛めしを食べることにする。ガイドブックで下調べをしておいて良かった。鯛めしとは愛媛の郷土料理で、とくに宇和島などの南予地方では、鯛の刺身を生卵と独特のタレに和え、それを白飯にかけて食べるという不思議な料理である。もちろん刺身そのままでも美味しいのだが、卵が絡まることで何となく味に深みが出るうえ、甘口のタレもそこによく調和している。もう少しゆっくりしたかったものの、半時間ほどで食事を終え駅へ戻る。駅前に人通りは少なく、白昼の日差しが容赦なく照りつけている。
・松山
宇和島を出た予讃線は上り勾配を駆け上がる。伊予吉田の入り江や漁港の風景はなかなか美しい。列車はさらに高度を稼ぎ、やがてリアス式海岸を俯瞰するところまで来る。急峻な地形が宇和海の海岸線に迫り、豊後水道の水平線は霞んでいる。八幡浜から先の車窓は単調で、特急だからかもしれないがあまり印象に残っていない。松山には1時間半足らずで到着である。
まずは道後温泉へ向かう。松山の街にも路面電車が走っていて、ベージュとオレンジの車体が旅愁をそそる。道後温泉本館は歴史ある3階建ての建築で、最上階からは道後の町並を眺められる。ここでは「神の湯」に入浴。浴槽の深いことが7年前の記憶に重なる。温泉は冬場に限るような気もするが、今日のような日の湯上りにサイダーを飲み干すのもまた良い。気がつけば、日が西に傾き始めている。高知を出たのは朝の8時であるから、松山までの道のりは長かった。本当は多度津経由の方が2時間ほど早いのだが、それではあまりに味気ないので予土線を通ってきたわけである。
道後温泉の後は大街道で市電を降りる。この付近はずいぶんと賑やかである。JRの駅前は人通りが少なかったが、むしろ伊予鉄道の松山市駅付近の方が松山市街の中心部にあたるのだろう。夕食には少し早いが商店街でラーメンを食べた後、大通りに面した「蔵元屋」という愛媛の地酒のアンテナショップを訪れる。ここには県内の全蔵元の酒が揃っていて、1杯300~400円程度で立ち飲みができる。酒肴も美味しく、とくにじゃこ天が良い。石鎚のひやおろしと純米大吟醸、それに城川郷の純米大吟醸。後者はとくに気に入ったので、土産に買って帰ることにした。愛媛の酒造米「松山三井」を使っているという。
店を出るとすでに黄昏時で、何本もの路面電車が夕空を背に行き交っている。自動車や人の往来も多く、慌ただしい時間帯となった。駅へ戻り、18時40分発の特急で松山を去ることにする。伊予北条までの車窓、夕闇に沈みゆく海岸線の風景が脳裏に焼きつく。終点高松までは2時間半の道のり。日が沈んでからは何もすることがなくなってしまった。
・帰途につく
高松21時26分発のサンライズ瀬戸で四国を後にする。往路と同じノビノビ座席であるが、カーペットが硬いのが難点。バスタオルを巻いたものを枕にして、岡山を過ぎた頃に眠りに落ちた。
起きてみると、列車は大雨の影響ということでひどく遅延している。旅客線の朝のラッシュにかぶることを避けてか、列車は小田原に臨時停車した後、貨物線の方に入った。東戸塚から先は本線から別れ、横浜羽沢貨物駅を通過して鶴見に至る。ここからは品鶴線(横須賀線)のルートを通るらしい。そして本来の東京到着時刻から118分遅れで、ようやく品川の臨時ホームに終着である。同時に旅も終幕。なかなか密度の高い旅行であった。
写真
1枚目:予土線車窓、落下した長生沈下橋(@半家~江川崎)
2枚目:宇和島の鯛めし
3枚目:道後温泉本館
3104文字
8/31
高知821 → 窪川926
土讃線2001D 特急しまんと1号 2119
窪川1004 → 宇和島1211
土佐くろしお鉄道中村線・予土線4819D キハ32 9
宇和島1254 → 松山1417
予讃線1064D 特急宇和海14号 2204
松山駅前1444 → 道後温泉1503
伊予鉄道5系統221 68
道後温泉
道後温泉1631 → 大街道1640
伊予鉄道3系統3158 2103
大街道1814 → 松山駅前1824
伊予鉄道5系統280 52
松山1840 → 高松2110
予讃線30M・1030M 特急いしづち30号 8203
8/31 → 9/1
高松2126 → 品川906(+118)
予讃線・本四備讃線・宇野線・山陽本線・東海道本線5032M
特急サンライズ瀬戸 モハネ285-202
・四万十川
朝起きるのがなかなか辛かったが、高知8時21分発の特急で窪川へ向かう。土讃線といえば窪川までかなりの長旅だった記憶があるのだが、振り子車両の特急は身をよじりながら快走を続け、わずか1時間あまりの道のりであった。窪川からは予土線の旅である。キハ32の単行列車、その車窓から四万十川を眺める。地方交通線だけあり線路は低規格のようで、レールの継ぎ目ごとに激しく上下に揺すぶられる。土佐大正の付近で、四万十川は最大の支流である檮原川を合流して川幅が広くなる。ここから江川崎まではちょうど四万十川の中流域にあたり、列車はゆるやかな川の流れに沿いながらのんびりと西進する。沈下橋がいくつか架かっているのも目にしたが、コンクリートの路盤が川に落下している橋が二本ほどあった。沈下橋には欄干がなく、増水時には水中に沈む形で水を受け流すことを目的とした独特の設計であるが、路盤が落下しているということは近頃増水して流されたのだろうか。半家(はげ)~江川崎間にある長生(ながおい)沈下橋は7年前の12月に自転車で訪れたが、ここも橋が寸断されていた。清流をまたぐ道路の縁に腰かけながら、予土線の列車を一本撮影したことをよく覚えている。四万十川の本流は江川崎の付近から中村を目指して南下に転じ、西進を続ける予土線と別れる。それに伴って車窓も次第に変化し、清流の渓谷ではなく山あいの里を縫うようになる。
(余談)
7年前の12月といえばなんと中2である。自分でも驚きだが実はその当時の記録がこの日記に残っていて、見返してみて仰天したww 読むに堪えないし、消してしまいたいのもやまやまなのだが、7年という時の重みが辛うじて羞恥心に打ち勝っているからこれはこのままで残しておくとする。
・宇和島にて
終着の宇和島に着いたのは出発から2時間後、ほぼ正午である。松山行の特急まで40分ほど時間があるので、駅近くの「かどや」という店で鯛めしを食べることにする。ガイドブックで下調べをしておいて良かった。鯛めしとは愛媛の郷土料理で、とくに宇和島などの南予地方では、鯛の刺身を生卵と独特のタレに和え、それを白飯にかけて食べるという不思議な料理である。もちろん刺身そのままでも美味しいのだが、卵が絡まることで何となく味に深みが出るうえ、甘口のタレもそこによく調和している。もう少しゆっくりしたかったものの、半時間ほどで食事を終え駅へ戻る。駅前に人通りは少なく、白昼の日差しが容赦なく照りつけている。
・松山
宇和島を出た予讃線は上り勾配を駆け上がる。伊予吉田の入り江や漁港の風景はなかなか美しい。列車はさらに高度を稼ぎ、やがてリアス式海岸を俯瞰するところまで来る。急峻な地形が宇和海の海岸線に迫り、豊後水道の水平線は霞んでいる。八幡浜から先の車窓は単調で、特急だからかもしれないがあまり印象に残っていない。松山には1時間半足らずで到着である。
まずは道後温泉へ向かう。松山の街にも路面電車が走っていて、ベージュとオレンジの車体が旅愁をそそる。道後温泉本館は歴史ある3階建ての建築で、最上階からは道後の町並を眺められる。ここでは「神の湯」に入浴。浴槽の深いことが7年前の記憶に重なる。温泉は冬場に限るような気もするが、今日のような日の湯上りにサイダーを飲み干すのもまた良い。気がつけば、日が西に傾き始めている。高知を出たのは朝の8時であるから、松山までの道のりは長かった。本当は多度津経由の方が2時間ほど早いのだが、それではあまりに味気ないので予土線を通ってきたわけである。
道後温泉の後は大街道で市電を降りる。この付近はずいぶんと賑やかである。JRの駅前は人通りが少なかったが、むしろ伊予鉄道の松山市駅付近の方が松山市街の中心部にあたるのだろう。夕食には少し早いが商店街でラーメンを食べた後、大通りに面した「蔵元屋」という愛媛の地酒のアンテナショップを訪れる。ここには県内の全蔵元の酒が揃っていて、1杯300~400円程度で立ち飲みができる。酒肴も美味しく、とくにじゃこ天が良い。石鎚のひやおろしと純米大吟醸、それに城川郷の純米大吟醸。後者はとくに気に入ったので、土産に買って帰ることにした。愛媛の酒造米「松山三井」を使っているという。
店を出るとすでに黄昏時で、何本もの路面電車が夕空を背に行き交っている。自動車や人の往来も多く、慌ただしい時間帯となった。駅へ戻り、18時40分発の特急で松山を去ることにする。伊予北条までの車窓、夕闇に沈みゆく海岸線の風景が脳裏に焼きつく。終点高松までは2時間半の道のり。日が沈んでからは何もすることがなくなってしまった。
・帰途につく
高松21時26分発のサンライズ瀬戸で四国を後にする。往路と同じノビノビ座席であるが、カーペットが硬いのが難点。バスタオルを巻いたものを枕にして、岡山を過ぎた頃に眠りに落ちた。
起きてみると、列車は大雨の影響ということでひどく遅延している。旅客線の朝のラッシュにかぶることを避けてか、列車は小田原に臨時停車した後、貨物線の方に入った。東戸塚から先は本線から別れ、横浜羽沢貨物駅を通過して鶴見に至る。ここからは品鶴線(横須賀線)のルートを通るらしい。そして本来の東京到着時刻から118分遅れで、ようやく品川の臨時ホームに終着である。同時に旅も終幕。なかなか密度の高い旅行であった。
写真
1枚目:予土線車窓、落下した長生沈下橋(@半家~江川崎)
2枚目:宇和島の鯛めし
3枚目:道後温泉本館
3104文字
さすらい氏と四国へ行ってきました。
・四国へ
眠い目を車窓に向けると、列車は瀬戸大橋を走行中。天候は曇天、鉛色の海峡。やがて列車は四国に上陸。造船所や石油コンビナートなどの工業地帯が出迎える。昨晩、出発前の東京駅で手に入れた四国のガイドブックをもとに旅程を検討してみたわけだが、香川と徳島を回る時間はどうやらなさそうだ。まずは高知へ向かう特急しまんとに乗り換えるべく、サンライズ瀬戸を坂出で降りた。今回は四国ゾーンの周遊きっぷを利用しているので特急列車も自由に乗り降りできる。普通列車でののんびりした風情を味わえないのは残念だが、そのかわり、移動の幅が大きく広がるうえに時間も有効利用できる。
・龍河洞
土佐山田で特急を降りる。龍河洞という鍾乳洞があるらしいので、午前中はここを訪れることにする。バスの本数があまりに少なくとても利用できるダイヤではなかったので、タクシーに乗ろうかと思っていたものの、どうやら片道2000円を超えるようだ。それも少しもったいないということで、駅前にあった無料のレンタサイクルを利用することにした。道のりは片道8km。灼熱の日差しの下、延々自転車をこぐ。物部川を越えたあたりから道路はゆるい上り坂が続き、山間部へ分け入ってゆく。最後はつづら折りの山道になったので、さすがに耐えかねて手押しで登りつめた。出発から40分後、ようやく到着である。
鍾乳洞の入口までは食堂や土産物屋などが軒を連ねていたが、その大半がシャッターを閉めていて、かなり寂れている。人通りもまばらで、およそ観光地の賑わいはない。鍾乳洞といえば3月の中国旅行で岡山の井倉洞を訪れたが、やはり入口付近は似たような雰囲気であった。あの時と違って冷雨ではないのがせめてもの救いだが、それでもわびしい印象は拭えない。洞内の気温は18℃程度とかなり涼しく、汗に濡れた身としてはむしろ寒い。コースの前半は見所に乏しかったものの、「記念の滝」以降は数々の造形に出会いそれなりの見応えがある。井倉洞でも同様の感想を抱いたが、鍾乳洞というのはどうも生体組織、ことに腸内の組織に似ている気がしてならない。反復構造や、鍾乳石の色と質感、水の流れや水の滴りなど、どうも自然の作用が作り出すものはみな似たような姿になるらしい。人によっては、ここに造物主の存在を見出すかもしれない。龍河洞で特筆すべきは弥生人の生活の痕跡が残っていることで、とくに石灰華に呑み込まれた土器は「神の壺」と名付けられていた。この鍾乳洞は考古学的にも重要な意味を帯びているようだ。
1時間ほどで歩き通し、入館無料の博物館に立ち寄った後、駅へ戻る。帰り道はほとんどが完全な下り坂なので、自転車をこがなくともすいすい走る。行きの上り坂であれほど苦労していたのが嘘のようである。25分ほどで駅へ戻ってくることができた。
・佐川の町
12時16分発の特急で土佐山田を去り、高知に出る。そして21分後の窪川行普通に乗り継ぎ、佐川(さかわ)へ行く。辺りを山々に囲まれたこの小さな町には、400年以上の歴史をもつ司牡丹酒造の土蔵が立ち並ぶ。昼下がりのうだるような暑さの中、漆喰の白壁が印象的な町並をぶらぶらと散策する。道路から中をのぞくことのできた工場では、ひやおろしの瓶詰め作業の真最中であった。秋の到来を告げる酒らしい。わずか1時間足らずでひと通り歩き終え、最後は酒蔵の立ち並ぶ一角にある司牡丹の直販店を訪れる。純米大吟醸の限定醸造酒を手に入れて帰った。
・桂浜
佐川でのごくごく短い滞在を終え、高知へ引き返す。普通では50分近くかかったところを23分で駆け抜けるものだから、やはり特急は速い。まだ15時過ぎだが、幸いにもチェックインすることができた。荷物を置いて一休みしてから、堺町より桂浜へ向かうバスの時刻に合わせて再出発である。
高知の街には路面電車が残る。自動車の往来に混ざってガタガタと電車が行き交うさまは実に雑然としているが、人々の生活がまさにそのままの形で表れているようにも思われて、都会に慣れた身としては一種の風情を感じる。バスに揺られること40分、桂浜に到着である。ここはもともと波の高い場所のようだが、台風が近いためかとくに波が高いように思われる。そういえば今月は死亡事故が起きている。砂浜にはロープが張られ警備員も常駐し、波打ち際には近付くことができない。日没が近く、湾内にかかる龍宮橋を渡り岩山を登ったところにある龍王展望台からは、海岸線に押し寄せる土佐湾の波と、夕暮れに向かって走る県道の車列を一望できる。波飛沫は細かな霧となって漂流し、一面の景色にいくぶん幻想的な印象を添えている。
・高知の夜
酒盗と芋せんべい、そして司牡丹酒造の柚子酒を土産に買って、18時ちょうどのバスで市の中心部へ戻る。鬼田酒店に立ち寄ってから宿へ戻り、再び出直す。今晩は、宿から徒歩5分程度のところにある「一本釣り」という居酒屋にて酒と肴を堪能。船中八策、美丈夫、藤娘、文佳人、志ら菊。ウツボのタタキは珍しかった。他にもはらんぼ(カツオの腹皮)のタタキ、カツオの塩タタキ、土佐ジローの網焼き、グレ(メジナ)の刺身やゴリ(小さい川魚)の唐揚げなど、当地の料理を存分に味わう。そろそろ夏休みも終幕であるが、こういう美味い料理と酒はその最後にふさわしい。シメはカツオ飯を頂いた。
二軒目は近くのバーへ。サイドカー、x.y.z.、Ballantine’s 21年。普段から通う楽しみもさることながら、旅行でバーを訪れてみるのもまた楽しい。食後の至福の時間といった感じで、さすがに酔いも回って来た。23時半頃に宿に戻る。静かなる高知の夜、旅の疲れも相まってか、気付かない間に眠りに落ちてしまった。
写真
1枚目:龍河洞
2枚目:夕刻の桂浜
3枚目:酒を愉しむ
3177文字
8/29 → 8/30
東京2200 → 坂出708
東海道本線・山陽本線・宇野線・本四備讃線・予讃線5031M
特急サンライズ瀬戸 モハネ285-3202
8/30
坂出737 → 土佐山田926
予讃線・土讃線2003D・31D 特急しまんと3号・南風1号 2121
龍河洞
土佐山田1216 → 高知1228
土讃線35D 特急南風5号 2115
高知1249 → 佐川1337
土讃線747D 1034
佐川散策
佐川1440 → 高知1503
土讃線50D 特急南風20号 2213
堺町1616 → 桂浜1657(+10)
高知県交通バス 高知22き401
桂浜散策
桂浜1800 → 南はりまや橋1830
高知県交通バス 高知22き64
高知泊
タウンセンターホテル
・四国へ
眠い目を車窓に向けると、列車は瀬戸大橋を走行中。天候は曇天、鉛色の海峡。やがて列車は四国に上陸。造船所や石油コンビナートなどの工業地帯が出迎える。昨晩、出発前の東京駅で手に入れた四国のガイドブックをもとに旅程を検討してみたわけだが、香川と徳島を回る時間はどうやらなさそうだ。まずは高知へ向かう特急しまんとに乗り換えるべく、サンライズ瀬戸を坂出で降りた。今回は四国ゾーンの周遊きっぷを利用しているので特急列車も自由に乗り降りできる。普通列車でののんびりした風情を味わえないのは残念だが、そのかわり、移動の幅が大きく広がるうえに時間も有効利用できる。
・龍河洞
土佐山田で特急を降りる。龍河洞という鍾乳洞があるらしいので、午前中はここを訪れることにする。バスの本数があまりに少なくとても利用できるダイヤではなかったので、タクシーに乗ろうかと思っていたものの、どうやら片道2000円を超えるようだ。それも少しもったいないということで、駅前にあった無料のレンタサイクルを利用することにした。道のりは片道8km。灼熱の日差しの下、延々自転車をこぐ。物部川を越えたあたりから道路はゆるい上り坂が続き、山間部へ分け入ってゆく。最後はつづら折りの山道になったので、さすがに耐えかねて手押しで登りつめた。出発から40分後、ようやく到着である。
鍾乳洞の入口までは食堂や土産物屋などが軒を連ねていたが、その大半がシャッターを閉めていて、かなり寂れている。人通りもまばらで、およそ観光地の賑わいはない。鍾乳洞といえば3月の中国旅行で岡山の井倉洞を訪れたが、やはり入口付近は似たような雰囲気であった。あの時と違って冷雨ではないのがせめてもの救いだが、それでもわびしい印象は拭えない。洞内の気温は18℃程度とかなり涼しく、汗に濡れた身としてはむしろ寒い。コースの前半は見所に乏しかったものの、「記念の滝」以降は数々の造形に出会いそれなりの見応えがある。井倉洞でも同様の感想を抱いたが、鍾乳洞というのはどうも生体組織、ことに腸内の組織に似ている気がしてならない。反復構造や、鍾乳石の色と質感、水の流れや水の滴りなど、どうも自然の作用が作り出すものはみな似たような姿になるらしい。人によっては、ここに造物主の存在を見出すかもしれない。龍河洞で特筆すべきは弥生人の生活の痕跡が残っていることで、とくに石灰華に呑み込まれた土器は「神の壺」と名付けられていた。この鍾乳洞は考古学的にも重要な意味を帯びているようだ。
1時間ほどで歩き通し、入館無料の博物館に立ち寄った後、駅へ戻る。帰り道はほとんどが完全な下り坂なので、自転車をこがなくともすいすい走る。行きの上り坂であれほど苦労していたのが嘘のようである。25分ほどで駅へ戻ってくることができた。
・佐川の町
12時16分発の特急で土佐山田を去り、高知に出る。そして21分後の窪川行普通に乗り継ぎ、佐川(さかわ)へ行く。辺りを山々に囲まれたこの小さな町には、400年以上の歴史をもつ司牡丹酒造の土蔵が立ち並ぶ。昼下がりのうだるような暑さの中、漆喰の白壁が印象的な町並をぶらぶらと散策する。道路から中をのぞくことのできた工場では、ひやおろしの瓶詰め作業の真最中であった。秋の到来を告げる酒らしい。わずか1時間足らずでひと通り歩き終え、最後は酒蔵の立ち並ぶ一角にある司牡丹の直販店を訪れる。純米大吟醸の限定醸造酒を手に入れて帰った。
・桂浜
佐川でのごくごく短い滞在を終え、高知へ引き返す。普通では50分近くかかったところを23分で駆け抜けるものだから、やはり特急は速い。まだ15時過ぎだが、幸いにもチェックインすることができた。荷物を置いて一休みしてから、堺町より桂浜へ向かうバスの時刻に合わせて再出発である。
高知の街には路面電車が残る。自動車の往来に混ざってガタガタと電車が行き交うさまは実に雑然としているが、人々の生活がまさにそのままの形で表れているようにも思われて、都会に慣れた身としては一種の風情を感じる。バスに揺られること40分、桂浜に到着である。ここはもともと波の高い場所のようだが、台風が近いためかとくに波が高いように思われる。そういえば今月は死亡事故が起きている。砂浜にはロープが張られ警備員も常駐し、波打ち際には近付くことができない。日没が近く、湾内にかかる龍宮橋を渡り岩山を登ったところにある龍王展望台からは、海岸線に押し寄せる土佐湾の波と、夕暮れに向かって走る県道の車列を一望できる。波飛沫は細かな霧となって漂流し、一面の景色にいくぶん幻想的な印象を添えている。
・高知の夜
酒盗と芋せんべい、そして司牡丹酒造の柚子酒を土産に買って、18時ちょうどのバスで市の中心部へ戻る。鬼田酒店に立ち寄ってから宿へ戻り、再び出直す。今晩は、宿から徒歩5分程度のところにある「一本釣り」という居酒屋にて酒と肴を堪能。船中八策、美丈夫、藤娘、文佳人、志ら菊。ウツボのタタキは珍しかった。他にもはらんぼ(カツオの腹皮)のタタキ、カツオの塩タタキ、土佐ジローの網焼き、グレ(メジナ)の刺身やゴリ(小さい川魚)の唐揚げなど、当地の料理を存分に味わう。そろそろ夏休みも終幕であるが、こういう美味い料理と酒はその最後にふさわしい。シメはカツオ飯を頂いた。
二軒目は近くのバーへ。サイドカー、x.y.z.、Ballantine’s 21年。普段から通う楽しみもさることながら、旅行でバーを訪れてみるのもまた楽しい。食後の至福の時間といった感じで、さすがに酔いも回って来た。23時半頃に宿に戻る。静かなる高知の夜、旅の疲れも相まってか、気付かない間に眠りに落ちてしまった。
写真
1枚目:龍河洞
2枚目:夕刻の桂浜
3枚目:酒を愉しむ
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