北の朝。
・迎撃
昨夜は電気を点けたまま布団もかぶらず寝てしまい、気がついたら朝になっていた。今日下ってくるあけぼのを迎え撃つかどうか、かねてから迷ってはいたのだが、青森市街は晴れており列車も定時運行。せっかく青森までやって来たのだから、やはり撮影を決行しよう。7時に朝食をとった後、前予科主とともに弘前行の奥羽本線に乗り込む。外務は、市街を散策してから新青森で合流するという。後から聞いたところによれば、国道7号と4号の分岐点などを訪れたらしい。これはこれで行ってみたかった。
津軽新城までは燦々と陽光が降り注いでいたものの、隣の鶴ヶ坂ではかなりの雪が降っていた。トンネルをくぐって山を越えたわけでもないのに、少し山間部に入るだけでこんなにも天候が変わるものなのか。有名撮影地に向かうべく鶴ヶ坂で下車したが、この雪の中30分も歩くのは無理だし、そもそも列車がまともに写りそうにないので転戦することに決めた。
次の青森行に乗って鶴ヶ坂を去る。雪のためか平気で10分以上遅れている。代替案としては津軽新城での駅撮りが手軽そうではあったが、帰りの新幹線に乗り遅れる可能性もあったので、ここは無難に新青森で駅撮りを行うことにした。どうしようもない場所かと思いきや、編成写真であればそこそこ撮れる。光線は順光。きれいに積もった白雪が眩しい。隣の新城から回送されてくる新青森始発のスーパー白鳥、五能線からやってきた快速深浦、そして本命のあけぼのを撮影する。EF81は豪快に雪を蹴散らしながら厳かに登場した。スノープラウの両脇から噴水のようにきれいな放物線を描いて雪が飛び散っていく。最後尾の客車は厚い雪に覆われて真っ白になっている。しばしの停車の後、列車は目前に迫った終着駅に向けてゆっくりと去って行った。
・帰路
豊盃の純米吟醸をみやげに買い、10時30分発のはやてに乗って帰京する。往路は「上野→青森」の特急券だったので、帰りは東京までではなく敢えて「新青森→上野」の区間で新幹線特急券を用意してみた。夜行列車の12時間半の旅に比べれば、新幹線の3時間半など本当にあっという間である。はやぶさであれば、東京~新青森が3時間を切る列車も存在する。車内ではほぼずっと寝ていた。
太平洋側のからっとした冬を感じながら、家路につく。
写真
1枚目:大雪の鶴ヶ坂
2枚目:特急列車の風格
3枚目:終着駅へ
1519文字
1/19
青森756 → 鶴ヶ坂813
奥羽本線642M クハ700-10
鶴ヶ坂850(+13) → 新青森859(+13)
奥羽本線637M クハ700-10
撮影(駅撮り):
4095M[901] 特急スーパー白鳥95号
3825D[924] 快速深浦 キハ40 2連
2021レ[947] 特急あけぼの
新青森1030 → 上野1402
東北新幹線3030B はやて30号
上野1412 → 秋葉原1415
京浜東北線1349B 快速
秋葉原1415 → 信濃町1427
中央・総武線各駅停車1357B
・迎撃
昨夜は電気を点けたまま布団もかぶらず寝てしまい、気がついたら朝になっていた。今日下ってくるあけぼのを迎え撃つかどうか、かねてから迷ってはいたのだが、青森市街は晴れており列車も定時運行。せっかく青森までやって来たのだから、やはり撮影を決行しよう。7時に朝食をとった後、前予科主とともに弘前行の奥羽本線に乗り込む。外務は、市街を散策してから新青森で合流するという。後から聞いたところによれば、国道7号と4号の分岐点などを訪れたらしい。これはこれで行ってみたかった。
津軽新城までは燦々と陽光が降り注いでいたものの、隣の鶴ヶ坂ではかなりの雪が降っていた。トンネルをくぐって山を越えたわけでもないのに、少し山間部に入るだけでこんなにも天候が変わるものなのか。有名撮影地に向かうべく鶴ヶ坂で下車したが、この雪の中30分も歩くのは無理だし、そもそも列車がまともに写りそうにないので転戦することに決めた。
次の青森行に乗って鶴ヶ坂を去る。雪のためか平気で10分以上遅れている。代替案としては津軽新城での駅撮りが手軽そうではあったが、帰りの新幹線に乗り遅れる可能性もあったので、ここは無難に新青森で駅撮りを行うことにした。どうしようもない場所かと思いきや、編成写真であればそこそこ撮れる。光線は順光。きれいに積もった白雪が眩しい。隣の新城から回送されてくる新青森始発のスーパー白鳥、五能線からやってきた快速深浦、そして本命のあけぼのを撮影する。EF81は豪快に雪を蹴散らしながら厳かに登場した。スノープラウの両脇から噴水のようにきれいな放物線を描いて雪が飛び散っていく。最後尾の客車は厚い雪に覆われて真っ白になっている。しばしの停車の後、列車は目前に迫った終着駅に向けてゆっくりと去って行った。
・帰路
豊盃の純米吟醸をみやげに買い、10時30分発のはやてに乗って帰京する。往路は「上野→青森」の特急券だったので、帰りは東京までではなく敢えて「新青森→上野」の区間で新幹線特急券を用意してみた。夜行列車の12時間半の旅に比べれば、新幹線の3時間半など本当にあっという間である。はやぶさであれば、東京~新青森が3時間を切る列車も存在する。車内ではほぼずっと寝ていた。
太平洋側のからっとした冬を感じながら、家路につく。
写真
1枚目:大雪の鶴ヶ坂
2枚目:特急列車の風格
3枚目:終着駅へ
1519文字
冬を歩こう。
・古川市場
十和田北線のバスまでは時間があったので、駅から歩いて5分ほどのところにある古川市場を訪れる。
ここの存在を知ったのは2年前、あけぼのと日本海を撮るために青森までやって来たものの、豪雪のために奥羽本線も東北本線も海峡線も全く動いていなかったのだった。その時、仕方なく青森市街をぶらついていて見つけたのがここである。
100円券が10綴りの1000円券を買い、まずは1枚使って白米をよそってもらう。あとは色々な店を回りながら、券を使ってこの上に好きなネタをどんどん載せていく。同じ大トロでも100円で売っている店もあれば、200円のところもある。しかしホタテについては前者が後者よりも高かったりと、店によって価格設定はさまざまである。今回は我ながら上手く立ち回ることができ、なかなか美味しそうなのっけ丼が出来上がった。新鮮な魚介を自分好みで盛っていくのは楽しい。イクラは弾力があり、東京で食べるものとはまるで異なる。また、青森の郷土料理というニシンの切り込み、これはかなり気に入った。時刻は10時45分、贅沢なブランチである。
・酸ヶ湯温泉
せっかく青森に来たので、こういう時でないと行かないような場所を訪れたい。そこで、酸ヶ湯温泉である。八甲田の山中に佇む秘湯で、有名な混浴の千人風呂があるという。11時25分に駅前を出る十和田湖駅行のJRバスみずうみ号に乗り、山奥へと向かう。夜行明けの疲労と、腸管血流の亢進も相まって、新青森駅に着くか着かないかというところで眠りに落ちてしまった。
目を覚ますと、バスは壮観な景色の中を走っていた。道路の両側は車高ほどもあろうかという雪の壁に区画され、周囲は見渡す限りの樹氷の森である。晴れ間から降り注ぐ白昼の陽光が雪に照り返し、まさしく眩いばかりの銀世界だ。そういえば週明けのニュースで報道されていたが、ついこの間、北東北には強烈な寒波が押し寄せてどっさり雪が積もったようだ。これから訪れる酸ヶ湯も3メートルを超える豪雪だったらしい。それでもバスの走る道はきれいに除雪されているから大したものである。ここは青森から十和田へと抜ける基幹道路なのだ。車内放送では名所案内が流れる。八甲田の悲しい物語として、雪中行軍の遭難事故が紹介されていた。映画のセリフ「天は我々を見放した」は当時の流行語になったという。
ロープウェー駅前で小休止の後、13時過ぎに目的地に到着した。バスはこの後も走り続け、始発から4時間以上をかけて十和田湖駅まで向かうようだ。酸ヶ湯温泉の大きな建屋は深い雪の中に佇んでいた。ちらちらと粉雪が舞い、雰囲気十分である。貸しタオルと休憩所、そして2つの風呂の両方がセットになった1000円の日帰り入浴券を購入し、まずは玉乃湯という小ぢんまりした風呂に入って体を洗う。湯は白濁している。pHはかなり低いようで、レモン水のような味がした。目に入ると沁みて痛い。そして帰りのバスまではたっぷり時間があるので、2階の休憩所でぐだぐだと寝転びながら昼下がりのまどろみを楽しむ。窓に映る極寒の雪景色をぼんやりと眺めながら、暖房の効いた室内でくつろいだ。
二度目の入浴は、ヒバ千人風呂である。体育館を思わせる広い建屋に、巨大な湯船が二つ。片方は熱の湯というが、名前とは裏腹に湯はぬるい。もう片方は四分六分の湯といい、こちらは浸かりごたえのある温度であった。調べたところによればそれぞれ源泉が異なっているらしい。充満する湯気にヒバの香りが溶け込み、肺胞を満たしていく。白く酸い湯に浸かって、霞む天井を見上げながら、非日常の湯船から日常に思いを馳せる。ところでこの風呂は混浴ということになってはいるが、見たところ男しか入っていなかったw 近年のマナー低下により、浴槽のへりには男女を隔てる境界標識が設置されている。
夕暮れ迫る頃、十和田湖駅からはるばるやって来たバスに乗って青森市街へと戻る。蒼白の闇に包まれていく山道をぼんやりと眺めながら、再び眠りに落ちていった。
・青森の宵
事前に目をつけておいた「ふく郎」という居酒屋に入る。予約は要らないだろうと高をくくっていたが、すでにテーブルが一卓しか空いておらず、入れたのは幸運であった。料理、とくにニシンやヒラメ、白子の天ぷらなどが実に美味しく、日本酒によく合う。とりとめのない話をしながらいつの間にか酒が進み、たくさん飲み食いしてしまったが、会計も良心的であった。アクセスも良いので、青森を訪れるときは是非また来てみたい。
その後ラーメンでも食べようかということになったが、営業している店が予想外に見つからず、結局東横インの裏手にある小さな居酒屋に入った。見知らぬ人と話が盛り上がり、青森の夜が更けてゆく。
写真
1枚目:のっけ丼
2枚目:酸ヶ湯温泉
3枚目:重ね盃
2319文字
1/18
古川市場
青森駅1125 → 酸ヶ湯温泉1310
JRバス東北 十和田北線 みずうみ700号 青森230い8823
酸ヶ湯温泉
酸ヶ湯温泉1632 → 青森駅1814
JRバス東北 十和田北線 みずうみ701号 青森230き8823
青森泊
・古川市場
十和田北線のバスまでは時間があったので、駅から歩いて5分ほどのところにある古川市場を訪れる。
ここの存在を知ったのは2年前、あけぼのと日本海を撮るために青森までやって来たものの、豪雪のために奥羽本線も東北本線も海峡線も全く動いていなかったのだった。その時、仕方なく青森市街をぶらついていて見つけたのがここである。
100円券が10綴りの1000円券を買い、まずは1枚使って白米をよそってもらう。あとは色々な店を回りながら、券を使ってこの上に好きなネタをどんどん載せていく。同じ大トロでも100円で売っている店もあれば、200円のところもある。しかしホタテについては前者が後者よりも高かったりと、店によって価格設定はさまざまである。今回は我ながら上手く立ち回ることができ、なかなか美味しそうなのっけ丼が出来上がった。新鮮な魚介を自分好みで盛っていくのは楽しい。イクラは弾力があり、東京で食べるものとはまるで異なる。また、青森の郷土料理というニシンの切り込み、これはかなり気に入った。時刻は10時45分、贅沢なブランチである。
・酸ヶ湯温泉
せっかく青森に来たので、こういう時でないと行かないような場所を訪れたい。そこで、酸ヶ湯温泉である。八甲田の山中に佇む秘湯で、有名な混浴の千人風呂があるという。11時25分に駅前を出る十和田湖駅行のJRバスみずうみ号に乗り、山奥へと向かう。夜行明けの疲労と、腸管血流の亢進も相まって、新青森駅に着くか着かないかというところで眠りに落ちてしまった。
目を覚ますと、バスは壮観な景色の中を走っていた。道路の両側は車高ほどもあろうかという雪の壁に区画され、周囲は見渡す限りの樹氷の森である。晴れ間から降り注ぐ白昼の陽光が雪に照り返し、まさしく眩いばかりの銀世界だ。そういえば週明けのニュースで報道されていたが、ついこの間、北東北には強烈な寒波が押し寄せてどっさり雪が積もったようだ。これから訪れる酸ヶ湯も3メートルを超える豪雪だったらしい。それでもバスの走る道はきれいに除雪されているから大したものである。ここは青森から十和田へと抜ける基幹道路なのだ。車内放送では名所案内が流れる。八甲田の悲しい物語として、雪中行軍の遭難事故が紹介されていた。映画のセリフ「天は我々を見放した」は当時の流行語になったという。
ロープウェー駅前で小休止の後、13時過ぎに目的地に到着した。バスはこの後も走り続け、始発から4時間以上をかけて十和田湖駅まで向かうようだ。酸ヶ湯温泉の大きな建屋は深い雪の中に佇んでいた。ちらちらと粉雪が舞い、雰囲気十分である。貸しタオルと休憩所、そして2つの風呂の両方がセットになった1000円の日帰り入浴券を購入し、まずは玉乃湯という小ぢんまりした風呂に入って体を洗う。湯は白濁している。pHはかなり低いようで、レモン水のような味がした。目に入ると沁みて痛い。そして帰りのバスまではたっぷり時間があるので、2階の休憩所でぐだぐだと寝転びながら昼下がりのまどろみを楽しむ。窓に映る極寒の雪景色をぼんやりと眺めながら、暖房の効いた室内でくつろいだ。
二度目の入浴は、ヒバ千人風呂である。体育館を思わせる広い建屋に、巨大な湯船が二つ。片方は熱の湯というが、名前とは裏腹に湯はぬるい。もう片方は四分六分の湯といい、こちらは浸かりごたえのある温度であった。調べたところによればそれぞれ源泉が異なっているらしい。充満する湯気にヒバの香りが溶け込み、肺胞を満たしていく。白く酸い湯に浸かって、霞む天井を見上げながら、非日常の湯船から日常に思いを馳せる。ところでこの風呂は混浴ということになってはいるが、見たところ男しか入っていなかったw 近年のマナー低下により、浴槽のへりには男女を隔てる境界標識が設置されている。
夕暮れ迫る頃、十和田湖駅からはるばるやって来たバスに乗って青森市街へと戻る。蒼白の闇に包まれていく山道をぼんやりと眺めながら、再び眠りに落ちていった。
・青森の宵
事前に目をつけておいた「ふく郎」という居酒屋に入る。予約は要らないだろうと高をくくっていたが、すでにテーブルが一卓しか空いておらず、入れたのは幸運であった。料理、とくにニシンやヒラメ、白子の天ぷらなどが実に美味しく、日本酒によく合う。とりとめのない話をしながらいつの間にか酒が進み、たくさん飲み食いしてしまったが、会計も良心的であった。アクセスも良いので、青森を訪れるときは是非また来てみたい。
その後ラーメンでも食べようかということになったが、営業している店が予想外に見つからず、結局東横インの裏手にある小さな居酒屋に入った。見知らぬ人と話が盛り上がり、青森の夜が更けてゆく。
写真
1枚目:のっけ丼
2枚目:酸ヶ湯温泉
3枚目:重ね盃
2319文字
・蒼白の朝
はっと目を覚ますと、寝台客車の丸い天井が真っ先に目に入る。上段寝台から身を乗り出して車窓を覗くが、外はまだ暗いようだ。時刻は6時20分、あと少し走れば秋田に到着というところである。結局、羽越本線内ではほとんど寝てしまった。列車は暗黒の日本海を横目に、窓から漏れるほのかな車内灯を帯のように連ねて、ただひたすらに北へ向かっていたことだろう。間島の集落も、笹川流れの海岸も、そしてあつみ温泉も、小波渡も、みな通過してきた。果たして、どんな光景だったのだろうか。
うっすらと青白くなってきた空の下、雄物川を渡ると秋田に到着となる。凍りついたホームに降り立ち、冷たい外気を肺に吸い込んだ。停車時間は短く、ほどなくして発車時刻となった。車掌室のマイクの電源が入れっぱなしだったのか、「こちら2021列車車掌、機関士どうぞ」「こちら2021列車機関士、どうぞ」「2021列車発車!」というやり取りがスピーカーから聞こえてきた。直後にピーッと汽笛一声、列車はゆっくりと動き出す。客車列車ならではの光景だ。
・奥羽路
終点の青森までは3時間あまり。ここからはのんびりと車窓を眺め、所在ない時間を過ごす。先日の豪雪でどうなるかと思ったが、列車は意外にも定時運行。ちょうど秋田圏のダイヤ過密帯にさしかかり、快速や特急との交換のためにしばしば運転停車しながら歩みを進めていく。1月18日、土曜日。窓の外では、のんびりした週末の朝がすでに始まっているようだ。上野駅13番線を発ってから10時間弱、同じ列車がはるか北東北の地を走っていると思うと、改めて不思議な気分になる。
東能代を出ると、奥羽本線は内陸へと分け入る。富根~二ツ井、前山~鷹ノ巣という、かつて訪れた撮影地を車内からぼんやりと眺めるのはなかなか面白い。主客の逆転とでもいうのか、外界から列車を見るのと、列車から外界を見るのとでは、受ける印象が全く異なるものだ。軽快に雪を蹴散らしながら、朝を迎えた一面の銀世界を駆け抜ける列車。寒さに凍えながらファインダーを覗く今朝の撮影者の目には、どう映っているのだろう。白沢~陣場の有名撮影地には、多くの人がスタンバイしていた。見ると、こちらに向かって大きく手を振ってくれている人もいる。乗客と撮影者の、ほんの一瞬の対話である。
やがて列車は青森へ入る。上越国境を越え、日本海沿岸を夜通し走り、奥羽山脈を貫いて、ついに津軽平野までやって来た。沿線の表情が刻一刻と変わってゆくさまは、いかにも在来線の鉄道旅行らしい。ガラス越しではあるが、空気を肌で感じることができる。弘前を出ると、岩木山の雄大な山容が車窓に飛び込んできた。厳然と佇む津軽富士は、はるか昔から平野の暮らしを見守ってきた。雪に閉ざされた冬景色は、厳しくも美しい。
上野を出発して12時間半あまり、列車は4分遅れで終点の青森に到着した。かつては「上野発の夜行列車」を降りた「北へ向かう人の群れ」が青函連絡船へ吸い込まれていったと聞くが、港へと続いていた長いホームは行き止まり。今は鉄路が海峡の下をくぐる。あけぼのは到着後すぐに機関車が解放され、反対側に入替用のDE10が連結された。しばらくの後、長旅を終えた客車はゆっくりと引き揚げていった。
もう乗ることはないだろう。あけぼのよ、さらばだ。
写真
1枚目:早朝の秋田
2枚目:雪景色を走る
3枚目:青森にて
1477文字
はっと目を覚ますと、寝台客車の丸い天井が真っ先に目に入る。上段寝台から身を乗り出して車窓を覗くが、外はまだ暗いようだ。時刻は6時20分、あと少し走れば秋田に到着というところである。結局、羽越本線内ではほとんど寝てしまった。列車は暗黒の日本海を横目に、窓から漏れるほのかな車内灯を帯のように連ねて、ただひたすらに北へ向かっていたことだろう。間島の集落も、笹川流れの海岸も、そしてあつみ温泉も、小波渡も、みな通過してきた。果たして、どんな光景だったのだろうか。
うっすらと青白くなってきた空の下、雄物川を渡ると秋田に到着となる。凍りついたホームに降り立ち、冷たい外気を肺に吸い込んだ。停車時間は短く、ほどなくして発車時刻となった。車掌室のマイクの電源が入れっぱなしだったのか、「こちら2021列車車掌、機関士どうぞ」「こちら2021列車機関士、どうぞ」「2021列車発車!」というやり取りがスピーカーから聞こえてきた。直後にピーッと汽笛一声、列車はゆっくりと動き出す。客車列車ならではの光景だ。
・奥羽路
終点の青森までは3時間あまり。ここからはのんびりと車窓を眺め、所在ない時間を過ごす。先日の豪雪でどうなるかと思ったが、列車は意外にも定時運行。ちょうど秋田圏のダイヤ過密帯にさしかかり、快速や特急との交換のためにしばしば運転停車しながら歩みを進めていく。1月18日、土曜日。窓の外では、のんびりした週末の朝がすでに始まっているようだ。上野駅13番線を発ってから10時間弱、同じ列車がはるか北東北の地を走っていると思うと、改めて不思議な気分になる。
東能代を出ると、奥羽本線は内陸へと分け入る。富根~二ツ井、前山~鷹ノ巣という、かつて訪れた撮影地を車内からぼんやりと眺めるのはなかなか面白い。主客の逆転とでもいうのか、外界から列車を見るのと、列車から外界を見るのとでは、受ける印象が全く異なるものだ。軽快に雪を蹴散らしながら、朝を迎えた一面の銀世界を駆け抜ける列車。寒さに凍えながらファインダーを覗く今朝の撮影者の目には、どう映っているのだろう。白沢~陣場の有名撮影地には、多くの人がスタンバイしていた。見ると、こちらに向かって大きく手を振ってくれている人もいる。乗客と撮影者の、ほんの一瞬の対話である。
やがて列車は青森へ入る。上越国境を越え、日本海沿岸を夜通し走り、奥羽山脈を貫いて、ついに津軽平野までやって来た。沿線の表情が刻一刻と変わってゆくさまは、いかにも在来線の鉄道旅行らしい。ガラス越しではあるが、空気を肌で感じることができる。弘前を出ると、岩木山の雄大な山容が車窓に飛び込んできた。厳然と佇む津軽富士は、はるか昔から平野の暮らしを見守ってきた。雪に閉ざされた冬景色は、厳しくも美しい。
上野を出発して12時間半あまり、列車は4分遅れで終点の青森に到着した。かつては「上野発の夜行列車」を降りた「北へ向かう人の群れ」が青函連絡船へ吸い込まれていったと聞くが、港へと続いていた長いホームは行き止まり。今は鉄路が海峡の下をくぐる。あけぼのは到着後すぐに機関車が解放され、反対側に入替用のDE10が連結された。しばらくの後、長旅を終えた客車はゆっくりと引き揚げていった。
もう乗ることはないだろう。あけぼのよ、さらばだ。
写真
1枚目:早朝の秋田
2枚目:雪景色を走る
3枚目:青森にて
1477文字
あけぼのよ、さらばだ。
・上野駅13番線
長いエスカレーターを降りると、インクブルーの車体が横たわっていた。行先幕には「青森」の文字。ホームには多くの人が慌ただしく行き交い、機関車と電源車の轟音が、円柱の立ち並ぶ地下神殿のような空間に共鳴している。特急あけぼの。もう何度となく乗った列車だが、始発駅の上野はいつ来ても旅情をそそられる。
ここは、北の玄関口である。かつて東北本線は、最長距離路線にして北へ向かう大幹線であった。40年前の時刻表を紐解くと、昼行、夜行を問わずおびただしい本数の特急列車が青森を目指して出発し、終点では青函連絡船に接続し、果ては札幌、釧路、網走へと続く遥かな旅路があったようだ。そして東北本線に限らず、奥羽本線、常磐線、高崎線・上越線など、北へ向かう列車はみな上野から出て行った。あけぼのは、かつてさまざまな変遷を経て現在のルートに落ち着いたが、「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の時代の面影を辛うじて今に残す列車であることには変わりない。
・金曜の夜を駆ける
弁当と酒とつまみを買い、外務、前予科主任の両名とともに記念撮影をしてから、2号車に乗り込む。すでに発車まで1分を切っていて、列車が動き出したのは8号車へ向かって車内を歩いているときであった。今宵は、慌ただしい旅立ちだ。列車は徐々に速度を増し、やがて地下ホームを抜け出して夜の世界へと入り込んでいく。終着の青森までは12時間半以上の長旅である。
ポリクリ最終日の夜、三田で弓をひいた後、突如として13番線から異質の時空間に飛び込んだ。窓外には街の灯りが飛び去り、京浜東北線の電車が時おり並走する。まるで、無機質な別世界をぼんやりと眺めているかのようだ。客車の走りはしっとりと重厚で、船が海を滑るように夜を駆け抜けてゆく。そして外界から隔絶されたカプセルのごとき車内には、ゆったりとした時間が流れている。弁当を食べ、ビールを片手に、贅沢な宵を過ごす。
・国境のトンネル
大宮、高崎と停車して乗客を拾った列車はひたすらに北上を続け、23時44分、水上に運転停車した。ここは谷川岳の麓、上越国境の町だ。夜のしじまに包まれた駅前には、寂れた温泉街がひっそりと広がる。ホームには雪が積もり、向かい側には灯りの落とされた107系が無言で佇んでいる。ここでは機関士が交代するとみられ、列車はわずかばかりの停車の後、ピョーッというEF64の寂しげな鳴き声とともに再びゆっくりと動き出した。
ほどなくして、新清水トンネルに入る。谷川岳を穿つ国境のトンネルである。湯檜曽駅の下りホームが目の前をあっという間に過ぎ去り、その後しばらくは硬質な轍の音が単調に響き渡る。そして、次は土合駅の下りホーム。煌々と電灯が灯る不気味な地下空間を猛然と駆けぬけてゆく。深夜にただ一人、13kmを超える暗い長大トンネルの中、機関士はどのような思いでEF64のマスコンを握っているのだろうか。数々の乗客の眠りを乗せ、今まさに列車は上越国境を越えて日本海側へ抜けようとしている。
ところで清水峠の国境越えでは、上り線は旧線の清水トンネル、上越新幹線は大清水トンネル、そして関越自動車道は関越トンネルで谷川連峰を貫通する。一般国道はといえば、291号線という道路が地図上は存在しているようだが、山越えの区間は明治時代に開通したもののわずか半年で土砂崩れのため不通となり、以後そこは放棄されたまま、徒歩でも踏破できないほど壊滅的に荒廃してしまったらしい。代わりに、古くからある西側の三国街道が国道17号線として機能しているが、上越線の開通に伴いかつて栄えた沿道の宿場町はみるみるうちに廃れたという。道路と鉄道の歴史、そして越境の歴史はなかなかに興味深い。
・雪国へ
ふいに、轍の音が変わった。雪を踏みしめる、もふもふとした感触が足下から伝わってくる。夜の更ける車内にトトン、トトンという柔らかい音が静かに響き渡り、列車が雪国にやって来たことを思わせる。窓外に目をやると、雪原に映し出された列車の灯りが一緒に走っている。デッキの折戸から漏れる灯りはことさらに明るく、闇の銀世界にぼんやりと輝く。しばらく走ると窓枠には氷雪がこびりついた。黙々と走る列車はやがて誰もいない越後湯沢のホームを通過し、上越線は平野部へ向かってどんどん下っていく。
長岡に到着したのは1時15分頃であった。ここでは30分ほど停車し、機関車がEF81へと交換される。この1本の列車を走らせるために、たくさんの鉄道員が夜中も業務に携わっている。乗客の大半はもう眠ってしまっただろうか。寝ている間に我々をはるか遠方の地へと運んでくれる夜行列車、その陰には数多くの知られざるドラマがあるに違いない。高いホイッスルが哀しげに夜空にちぎれる。バトンタッチしたEF81に牽引され、列車は青森への旅路を再開した。車窓に広がるは闇に沈む越後平野。雪に包まれた沈黙の世界に、軽快な轍の音が反復する。酒も回ってきたことなので、心地よい振動に身を委ねてしばしの眠りにつくとしよう。
写真
1枚目:奥羽線経由、青森行
2枚目:水上に運転停車
3枚目:夜更け
2482文字
1/17
田町2043 → 上野2100
山手線2030G モハE231-505
1/17 → 1/18
上野2116 → 青森956(+4)
東北本線・高崎線・上越線・信越本線・羽越本線・奥羽本線
2021レ 特急あけぼの
・上野駅13番線
長いエスカレーターを降りると、インクブルーの車体が横たわっていた。行先幕には「青森」の文字。ホームには多くの人が慌ただしく行き交い、機関車と電源車の轟音が、円柱の立ち並ぶ地下神殿のような空間に共鳴している。特急あけぼの。もう何度となく乗った列車だが、始発駅の上野はいつ来ても旅情をそそられる。
ここは、北の玄関口である。かつて東北本線は、最長距離路線にして北へ向かう大幹線であった。40年前の時刻表を紐解くと、昼行、夜行を問わずおびただしい本数の特急列車が青森を目指して出発し、終点では青函連絡船に接続し、果ては札幌、釧路、網走へと続く遥かな旅路があったようだ。そして東北本線に限らず、奥羽本線、常磐線、高崎線・上越線など、北へ向かう列車はみな上野から出て行った。あけぼのは、かつてさまざまな変遷を経て現在のルートに落ち着いたが、「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の時代の面影を辛うじて今に残す列車であることには変わりない。
・金曜の夜を駆ける
弁当と酒とつまみを買い、外務、前予科主任の両名とともに記念撮影をしてから、2号車に乗り込む。すでに発車まで1分を切っていて、列車が動き出したのは8号車へ向かって車内を歩いているときであった。今宵は、慌ただしい旅立ちだ。列車は徐々に速度を増し、やがて地下ホームを抜け出して夜の世界へと入り込んでいく。終着の青森までは12時間半以上の長旅である。
ポリクリ最終日の夜、三田で弓をひいた後、突如として13番線から異質の時空間に飛び込んだ。窓外には街の灯りが飛び去り、京浜東北線の電車が時おり並走する。まるで、無機質な別世界をぼんやりと眺めているかのようだ。客車の走りはしっとりと重厚で、船が海を滑るように夜を駆け抜けてゆく。そして外界から隔絶されたカプセルのごとき車内には、ゆったりとした時間が流れている。弁当を食べ、ビールを片手に、贅沢な宵を過ごす。
・国境のトンネル
大宮、高崎と停車して乗客を拾った列車はひたすらに北上を続け、23時44分、水上に運転停車した。ここは谷川岳の麓、上越国境の町だ。夜のしじまに包まれた駅前には、寂れた温泉街がひっそりと広がる。ホームには雪が積もり、向かい側には灯りの落とされた107系が無言で佇んでいる。ここでは機関士が交代するとみられ、列車はわずかばかりの停車の後、ピョーッというEF64の寂しげな鳴き声とともに再びゆっくりと動き出した。
ほどなくして、新清水トンネルに入る。谷川岳を穿つ国境のトンネルである。湯檜曽駅の下りホームが目の前をあっという間に過ぎ去り、その後しばらくは硬質な轍の音が単調に響き渡る。そして、次は土合駅の下りホーム。煌々と電灯が灯る不気味な地下空間を猛然と駆けぬけてゆく。深夜にただ一人、13kmを超える暗い長大トンネルの中、機関士はどのような思いでEF64のマスコンを握っているのだろうか。数々の乗客の眠りを乗せ、今まさに列車は上越国境を越えて日本海側へ抜けようとしている。
ところで清水峠の国境越えでは、上り線は旧線の清水トンネル、上越新幹線は大清水トンネル、そして関越自動車道は関越トンネルで谷川連峰を貫通する。一般国道はといえば、291号線という道路が地図上は存在しているようだが、山越えの区間は明治時代に開通したもののわずか半年で土砂崩れのため不通となり、以後そこは放棄されたまま、徒歩でも踏破できないほど壊滅的に荒廃してしまったらしい。代わりに、古くからある西側の三国街道が国道17号線として機能しているが、上越線の開通に伴いかつて栄えた沿道の宿場町はみるみるうちに廃れたという。道路と鉄道の歴史、そして越境の歴史はなかなかに興味深い。
・雪国へ
ふいに、轍の音が変わった。雪を踏みしめる、もふもふとした感触が足下から伝わってくる。夜の更ける車内にトトン、トトンという柔らかい音が静かに響き渡り、列車が雪国にやって来たことを思わせる。窓外に目をやると、雪原に映し出された列車の灯りが一緒に走っている。デッキの折戸から漏れる灯りはことさらに明るく、闇の銀世界にぼんやりと輝く。しばらく走ると窓枠には氷雪がこびりついた。黙々と走る列車はやがて誰もいない越後湯沢のホームを通過し、上越線は平野部へ向かってどんどん下っていく。
長岡に到着したのは1時15分頃であった。ここでは30分ほど停車し、機関車がEF81へと交換される。この1本の列車を走らせるために、たくさんの鉄道員が夜中も業務に携わっている。乗客の大半はもう眠ってしまっただろうか。寝ている間に我々をはるか遠方の地へと運んでくれる夜行列車、その陰には数多くの知られざるドラマがあるに違いない。高いホイッスルが哀しげに夜空にちぎれる。バトンタッチしたEF81に牽引され、列車は青森への旅路を再開した。車窓に広がるは闇に沈む越後平野。雪に包まれた沈黙の世界に、軽快な轍の音が反復する。酒も回ってきたことなので、心地よい振動に身を委ねてしばしの眠りにつくとしよう。
写真
1枚目:奥羽線経由、青森行
2枚目:水上に運転停車
3枚目:夜更け
2482文字
最終週。
・小児外科
2週目はだいぶ暇で、レポートとスライドを適当に作る。金曜のプレゼンは「冒頭の1分で何か面白い話を」ということだったので、鉄ヲタについて語ることにしたw 数学的思考力、芸術的感性といった教養の上に、時刻表やら鉄道雑誌、ネットで基礎を積み重ねた後、実地踏査を通じてその実際的な応用を理解し、ゆくゆくは撮り鉄、乗り鉄、録り鉄、模型鉄、車両鉄などといった専門領域へと入っていく。まあこれは、一般教養、基礎医学、臨床医学、ポリクリ、研修医、専門診療科という流れとほとんど一緒じゃないかと、そういうしょうもない話をしたのだったw エストロゲン産生腫瘍の考察よりもこのスライドに手間をかけた感があって本末転倒。
いやしかし基礎は重要で、脳への動脈には内頸動脈系と椎骨動脈系があることは誰もが知っているのと同じように、青森への2大ルートとしては東北本線系と上信越・羽越・奥羽本線系があるのはおそらくほとんどの人が知っている。がん、癌、肉腫の違いが分からない人はいないのと同じく、列車、電車、気動車の違いが分からない人もいないだろうw
話がずれた。小児外科自体は、面白い2週間、というか8日間であった。消化器系の手術しかないのかと思いきや、扱う疾患が多岐にわたっていて、カバーしている範囲が広いことを見たのが大きな勉強だったか。
・学部練
金曜は旅立ち前に学部練に参加。弓が重いということはないが、的中率は4割ほどで羽分けには届かない。押手が明らかに効いていないが、どうすれば上手く押せるのか、やり方を忘れてしまった。
写真:尾道市街
とにかく階段と坂が多い。
788文字
・小児外科
2週目はだいぶ暇で、レポートとスライドを適当に作る。金曜のプレゼンは「冒頭の1分で何か面白い話を」ということだったので、鉄ヲタについて語ることにしたw 数学的思考力、芸術的感性といった教養の上に、時刻表やら鉄道雑誌、ネットで基礎を積み重ねた後、実地踏査を通じてその実際的な応用を理解し、ゆくゆくは撮り鉄、乗り鉄、録り鉄、模型鉄、車両鉄などといった専門領域へと入っていく。まあこれは、一般教養、基礎医学、臨床医学、ポリクリ、研修医、専門診療科という流れとほとんど一緒じゃないかと、そういうしょうもない話をしたのだったw エストロゲン産生腫瘍の考察よりもこのスライドに手間をかけた感があって本末転倒。
いやしかし基礎は重要で、脳への動脈には内頸動脈系と椎骨動脈系があることは誰もが知っているのと同じように、青森への2大ルートとしては東北本線系と上信越・羽越・奥羽本線系があるのはおそらくほとんどの人が知っている。がん、癌、肉腫の違いが分からない人はいないのと同じく、列車、電車、気動車の違いが分からない人もいないだろうw
話がずれた。小児外科自体は、面白い2週間、というか8日間であった。消化器系の手術しかないのかと思いきや、扱う疾患が多岐にわたっていて、カバーしている範囲が広いことを見たのが大きな勉強だったか。
・学部練
金曜は旅立ち前に学部練に参加。弓が重いということはないが、的中率は4割ほどで羽分けには届かない。押手が明らかに効いていないが、どうすれば上手く押せるのか、やり方を忘れてしまった。
写真:尾道市街
とにかく階段と坂が多い。
788文字
今日は4連休の予備日のような位置づけで、主に旅行記をしたためていた。貴重な時間を割いてわざわざ旅行記を書くことにどれほどの意義があるのかと思うけれども、一つは単に記録を残すということ、もう一つは感覚と思考で構成された記憶を追体験すること、大まかにこの二つが理由として挙がってくるかもしれない。記録を残すだけなら事務作業とあまり変わらないのだが、追体験となると話は別である。無形物たる感覚と思考に言葉という姿を与えることは、そんなに簡単ではない。記憶は明確に言葉という形で脳に保持されているわけではなく、言葉は記憶を呼び起こすための手段でしかないからである。
写真:尾道市街
三重塔。重要文化財だそうです。
338文字
写真:尾道市街
三重塔。重要文化財だそうです。
338文字
散髪の後、正午に代々木へ。夕方まで入り浸り、追い込みをかける。物事を徹底的にやらないのは、始めから何もしないのとほとんど同じことなので、まさにここは勝負どころといえる。夕方は買い出しの後、同級生との飲み会。鍋というのは適当に作っても美味い。酒はといえば、箱入り娘・大吟醸、酔鯨・特別純米などなど。とにかく進む進む。楽しい夜であった。
正月休みが明けて以降、急に予定が目白押しになってきた。着実に変速段を経てから、スムーズに直結段へ移行する見通しを立てよう。
写真:尾道市街
旅先の日常を歩く。
283文字
正月休みが明けて以降、急に予定が目白押しになってきた。着実に変速段を経てから、スムーズに直結段へ移行する見通しを立てよう。
写真:尾道市街
旅先の日常を歩く。
283文字
HRS氏に誘われ、江の島へ釣りに行ってきました。どういうわけか最近は高校同期と会う機会がやたらに多いなw
・釣り
何しろ一度もやったことがないので、果たして上手くいくのか。機材を貸して頂き、色々と教えてもらいながら竿を持つ。磯で釣ったときはすぐに仕掛けが岩に引っ掛かってしまいえらく苦労したが、適当にやっていたらニシキベラという魚を釣り上げることができた。毒々しい色をしているものの、普通に食べられるらしい。記念すべきfirst fishであるw その後は防波堤に移動するも、残念ながらここは収穫なし。結構人は多かったが、みな気長に魚がかかるのを待っている。桟橋に釣り人が連なっている姿は面白い。最後は島を離れて片瀬漁港で釣ることになった。ようやく遠投のスキルが上がってきたので、色々なところへ錘を投げてみたところ、ここでは2匹が竿にかかった。ヒイラギと、あと何か。名前を失念してしまったw いわゆる「雑魚」になるのだろうが、それでも釣れると嬉しいものである。何となく動作に慣れてきたところで日没を迎え、釣りは終了。収穫は3匹であった。
・考察
どうやら釣りという趣味は鉄道撮影にも少し通じるものがある。成功の条件として、良い場所、良い腕、良い機材の三つが必要という観点からすると、両者はかなり似ているように思われるのだ。撮れる場所に行かないと写真は撮れない。加えて、構図決定や露出調整、カメラ操作といった技量も要る。さらに良い写真を撮ろうと思えば、それなりに良いカメラ、それなりに良いレンズが必要になる。同じことで、まず釣れる場所に行かないと釣れるはずがない。そして、釣りの腕がなければ釣れない。さらに良い魚を釣ろうと思えばやはりそれなりの道具が必要になる。場所、腕、機材という考え方がよく当てはまっている。
そして、趣味の性質。青イソメのようなウネウネ動いている環形動物をハサミで切って針に刺したり、色々と場所を移動して辛抱強く待ったり、内容はわりとハードである。鉄道撮影も、暴風雪の中を歩いたり、崖にかじりついて俯瞰撮影地まで登ったり、決して楽なものではない。苦労を求めるならばどこまでも苦労することができる。そういう点では両者ともかなり男性的な趣味で、実際今日見かけた釣り人は男しかいなかった。
あとは、収穫について。魚というのはまじまじ見るとよくできた生き物で、それに愛嬌があって面白い。頻繁に釣りに出かけて知識をつけていけば、ちょっとした魚ならすぐに識別できるようになるのだろう。まるで、鉄道車両の系列・形式を覚えていくように。また、良く釣れる時間帯とそうでない時間帯があるらしい。具体的には日の出、日の入りのそれぞれ前後1時間によく釣れるそうだ。それはあたかも、生きているダイヤグラムから「大物」の列車を狙い撃ちするかのような楽しみであるように思われる。今でこそ少なくなったが、早朝に寝台列車や貨物列車が立て続けに通過することはよくある。
色々と勉強になる一日だったw
写真
1枚目:釣り人
2枚目:ヒイラギ
3枚目:夕暮れの突堤
1346文字
・釣り
何しろ一度もやったことがないので、果たして上手くいくのか。機材を貸して頂き、色々と教えてもらいながら竿を持つ。磯で釣ったときはすぐに仕掛けが岩に引っ掛かってしまいえらく苦労したが、適当にやっていたらニシキベラという魚を釣り上げることができた。毒々しい色をしているものの、普通に食べられるらしい。記念すべきfirst fishであるw その後は防波堤に移動するも、残念ながらここは収穫なし。結構人は多かったが、みな気長に魚がかかるのを待っている。桟橋に釣り人が連なっている姿は面白い。最後は島を離れて片瀬漁港で釣ることになった。ようやく遠投のスキルが上がってきたので、色々なところへ錘を投げてみたところ、ここでは2匹が竿にかかった。ヒイラギと、あと何か。名前を失念してしまったw いわゆる「雑魚」になるのだろうが、それでも釣れると嬉しいものである。何となく動作に慣れてきたところで日没を迎え、釣りは終了。収穫は3匹であった。
・考察
どうやら釣りという趣味は鉄道撮影にも少し通じるものがある。成功の条件として、良い場所、良い腕、良い機材の三つが必要という観点からすると、両者はかなり似ているように思われるのだ。撮れる場所に行かないと写真は撮れない。加えて、構図決定や露出調整、カメラ操作といった技量も要る。さらに良い写真を撮ろうと思えば、それなりに良いカメラ、それなりに良いレンズが必要になる。同じことで、まず釣れる場所に行かないと釣れるはずがない。そして、釣りの腕がなければ釣れない。さらに良い魚を釣ろうと思えばやはりそれなりの道具が必要になる。場所、腕、機材という考え方がよく当てはまっている。
そして、趣味の性質。青イソメのようなウネウネ動いている環形動物をハサミで切って針に刺したり、色々と場所を移動して辛抱強く待ったり、内容はわりとハードである。鉄道撮影も、暴風雪の中を歩いたり、崖にかじりついて俯瞰撮影地まで登ったり、決して楽なものではない。苦労を求めるならばどこまでも苦労することができる。そういう点では両者ともかなり男性的な趣味で、実際今日見かけた釣り人は男しかいなかった。
あとは、収穫について。魚というのはまじまじ見るとよくできた生き物で、それに愛嬌があって面白い。頻繁に釣りに出かけて知識をつけていけば、ちょっとした魚ならすぐに識別できるようになるのだろう。まるで、鉄道車両の系列・形式を覚えていくように。また、良く釣れる時間帯とそうでない時間帯があるらしい。具体的には日の出、日の入りのそれぞれ前後1時間によく釣れるそうだ。それはあたかも、生きているダイヤグラムから「大物」の列車を狙い撃ちするかのような楽しみであるように思われる。今でこそ少なくなったが、早朝に寝台列車や貨物列車が立て続けに通過することはよくある。
色々と勉強になる一日だったw
写真
1枚目:釣り人
2枚目:ヒイラギ
3枚目:夕暮れの突堤
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世はただの金曜だが、「先生」の誕生日につき今日は休みw
・寒稽古
小児外の集合が8時とそれなりに早かったので、月曜から木曜までは参加できなかった。日曜の機会を逃してしまった以上、最終日だけキモハ参加することになるw しかし今日は付矢と田村杯だけで、練習はなし。実に1ヶ月以上空いたのでどうなるかと思いきや、田村杯は5/12で意外と中ったw その後は雑煮を食べながら新年の目標を全員が述べていく。この春から6年生になるかと思うと、隔世の感がある。
昼は一旦家に帰宅。とくに生産的なことをするでもなく、惰眠を貪ってしまった。いやー、堕落した生活だw
・飲み会
夕方からは元主将企画の新年会へ。久々に部員と会ったように思う。
写真:尾道市街
瀬戸内海を望む、千光寺の鐘楼です。
440文字
・寒稽古
小児外の集合が8時とそれなりに早かったので、月曜から木曜までは参加できなかった。日曜の機会を逃してしまった以上、最終日だけキモハ参加することになるw しかし今日は付矢と田村杯だけで、練習はなし。実に1ヶ月以上空いたのでどうなるかと思いきや、田村杯は5/12で意外と中ったw その後は雑煮を食べながら新年の目標を全員が述べていく。この春から6年生になるかと思うと、隔世の感がある。
昼は一旦家に帰宅。とくに生産的なことをするでもなく、惰眠を貪ってしまった。いやー、堕落した生活だw
・飲み会
夕方からは元主将企画の新年会へ。久々に部員と会ったように思う。
写真:尾道市街
瀬戸内海を望む、千光寺の鐘楼です。
440文字
ついに最後の診療科。
・小児外科
正月ボケからのリハビリとしてはちょうど良い密度のスケジュール。しかも金曜と月曜が祝日で間に4連休が挟まるので、実質8日間しかない。腎内代から始まり、全班の中で最も早く内科が終わり、年末にかけて産婦と小児がなだれ込み、年明けはのんびり小児外という我々のローテーション、なかなか恵まれているような気がする。これから婦人科を回る班は本当にお疲れさまとしか言いようがない。
なぜか出席を取るというシステムがほぼ存在しないため、回診もオペもほとんど行かなかったという猛者の話も耳に挟んではいたが、真面目なわが班は全出席w 何だかんだ、般外と同じくらいの密度でオペに入ったように思う。木曜の外病院も一日だけとはいえ、充実していた。毎朝の回診も教育的だったし、もっと自主的に学ぶ姿勢があればさらに面白かったと思う。ポリクリというのはたいてい1週目の前半に色々と頑張って、あとはその惰性といっては語弊があるが、流れでころころと転がっていくものだ。
そして、インド人留学生の登場w 多くの時間、我々と行動を共にすることになったのだが、自分の英語力のなさを痛感した。かわいそうだったのは、回診も何もかもすべてが日本語なので、彼は何も理解できないという点。したがって、つたない翻訳をしてその都度内容を教えることになる。しかし、簡単な医学用語がなかなか出てこない。それに、手術操作の表現方法もよく分からない。とにかく、話したいことが話せないのである。
インドの医学教育では、英語の教科書を使い、英語で講義が行われ、英語で会話をする。そもそも医学に限らず、ある程度の教育を受けた人はたいてい英語が話せるという。一方で我々日本人はといえば、ほとんど全てを日本語で勉強することができるため、ともすれば英語に触れずとも事足りてしまう。
全てを日本語で学べるというのは素晴らしい一面ではあるが、国際的な視点からすれば、対応する英語表現をいちいち覚えなければならないという二度手間を余儀なくされる。彼が言っていたことを例にとると、たとえば"iris"は"iris"であって、これを意味するヒンズー語はないらしいが、日本語では「虹彩」という名前がついている。また彼が驚いていたのは、あらゆる医学用語や病名に日本語の翻訳が対応しているという点。"infarction"は「梗塞」、"ulcer"は「潰瘍」、"fistula"は「瘻孔」。"necrotizing enterocolitis"は「壊死性腸炎」、"hyperthyroidism"は「甲状腺機能亢進症」、"insomnia"は「不眠症」。こんなことは当たり前のように思われるが、あらゆる言葉にまともな訳語があてられているというのは偉大な先人達の努力によるものだと実感する。しかしそれは諸刃の剣で、学問の理解としては完全に日本語ベースになる。我々はそれに上乗せする形で、英語を永久に学んでいかねばならないわけだ。
写真:尾道市街
黄色一色の普通列車が走り去っていきます。
1336文字
・小児外科
正月ボケからのリハビリとしてはちょうど良い密度のスケジュール。しかも金曜と月曜が祝日で間に4連休が挟まるので、実質8日間しかない。腎内代から始まり、全班の中で最も早く内科が終わり、年末にかけて産婦と小児がなだれ込み、年明けはのんびり小児外という我々のローテーション、なかなか恵まれているような気がする。これから婦人科を回る班は本当にお疲れさまとしか言いようがない。
なぜか出席を取るというシステムがほぼ存在しないため、回診もオペもほとんど行かなかったという猛者の話も耳に挟んではいたが、真面目なわが班は全出席w 何だかんだ、般外と同じくらいの密度でオペに入ったように思う。木曜の外病院も一日だけとはいえ、充実していた。毎朝の回診も教育的だったし、もっと自主的に学ぶ姿勢があればさらに面白かったと思う。ポリクリというのはたいてい1週目の前半に色々と頑張って、あとはその惰性といっては語弊があるが、流れでころころと転がっていくものだ。
そして、インド人留学生の登場w 多くの時間、我々と行動を共にすることになったのだが、自分の英語力のなさを痛感した。かわいそうだったのは、回診も何もかもすべてが日本語なので、彼は何も理解できないという点。したがって、つたない翻訳をしてその都度内容を教えることになる。しかし、簡単な医学用語がなかなか出てこない。それに、手術操作の表現方法もよく分からない。とにかく、話したいことが話せないのである。
インドの医学教育では、英語の教科書を使い、英語で講義が行われ、英語で会話をする。そもそも医学に限らず、ある程度の教育を受けた人はたいてい英語が話せるという。一方で我々日本人はといえば、ほとんど全てを日本語で勉強することができるため、ともすれば英語に触れずとも事足りてしまう。
全てを日本語で学べるというのは素晴らしい一面ではあるが、国際的な視点からすれば、対応する英語表現をいちいち覚えなければならないという二度手間を余儀なくされる。彼が言っていたことを例にとると、たとえば"iris"は"iris"であって、これを意味するヒンズー語はないらしいが、日本語では「虹彩」という名前がついている。また彼が驚いていたのは、あらゆる医学用語や病名に日本語の翻訳が対応しているという点。"infarction"は「梗塞」、"ulcer"は「潰瘍」、"fistula"は「瘻孔」。"necrotizing enterocolitis"は「壊死性腸炎」、"hyperthyroidism"は「甲状腺機能亢進症」、"insomnia"は「不眠症」。こんなことは当たり前のように思われるが、あらゆる言葉にまともな訳語があてられているというのは偉大な先人達の努力によるものだと実感する。しかしそれは諸刃の剣で、学問の理解としては完全に日本語ベースになる。我々はそれに上乗せする形で、英語を永久に学んでいかねばならないわけだ。
写真:尾道市街
黄色一色の普通列車が走り去っていきます。
1336文字
荷物をまとめ、都内へ戻る。日本海旅行、大晦日、そして正月を存分に満喫する冬休みであった。心を入れ替えて、明日からの日常に復帰するとしよう。ひたすら深海を潜航していたが、いよいよ急速浮上。今夏はアメ留があるので、ひとまずはそこへ向かって走ることになる。マッチングもそろそろ手を打ち始めねば。
夕方は高校同期と久々に再会し、明治神宮へ参拝したw その後は飲み会。皆ほとんど変わっていない。
写真:尾道市街
対岸は向島です。
246文字
夕方は高校同期と久々に再会し、明治神宮へ参拝したw その後は飲み会。皆ほとんど変わっていない。
写真:尾道市街
対岸は向島です。
246文字
写真整理、旅程整理など諸々の雑務に取り掛かる。気が付けば明後日から再び日常が待っているので、スムーズに移行できるようできるだけのことは片付けておきたい。三日間も怠惰な生活が続けば、さすがにこれではまずかろうと無意識のうちに脳が反応してくるようだ。
写真:尾道市街
山を登り切ったところから、尾道城と尾道水道。
190文字
写真:尾道市街
山を登り切ったところから、尾道城と尾道水道。
190文字
ついにぐうたら生活から抜け出せないまま三が日最終日を迎えてしまった。この三日間、生産的なことは何一つしていないw しかし来年の今頃は国試勉強に勤しんでいるはずだから、これほどまで怠けて過ごせる正月は今年で最後なのかもしれない。そう考えるとこの怠惰な生活が名残惜しい。
夜は溜池山王にて食事。
写真:尾道市街
中国旅行の連載写真に戻ります。
206文字
夜は溜池山王にて食事。
写真:尾道市街
中国旅行の連載写真に戻ります。
206文字
何をしていたのか全く思い出せないほど、本当に何もしていない。これぞ正月。まあ、旅行の写真を整理したり、旅行記を書いたり、模試やら内科やらの復習をしたりなど、これほど時間があればいくらでも仕事ができそうな気はするが、怠けた生活にすっかり慣れてしまって全然やる気が起きない。
写真:雪の茅舎
日本海旅行で買ってきて年末の飲み会に持参した由利本荘の酒ですが、美味しかったので再び手に入れました。
230文字
写真:雪の茅舎
日本海旅行で買ってきて年末の飲み会に持参した由利本荘の酒ですが、美味しかったので再び手に入れました。
230文字
明けましておめでとうございます。
自発的に腕を磨き、知恵をアップデートする
ということを目標にしたいと思います。
今日は朝からひたすら酒を飲み、午後はソファーに寝そべりながら映画を3本見て、夜は近所へ初詣に行くという一日。何もしないという贅沢、と言えば聞こえは良いが、要はぐうたら正月の幕開けというわけですw
写真:〆張鶴
おせちというのは、実によく酒に合う。
252文字
自発的に腕を磨き、知恵をアップデートする
ということを目標にしたいと思います。
今日は朝からひたすら酒を飲み、午後はソファーに寝そべりながら映画を3本見て、夜は近所へ初詣に行くという一日。何もしないという贅沢、と言えば聞こえは良いが、要はぐうたら正月の幕開けというわけですw
写真:〆張鶴
おせちというのは、実によく酒に合う。
252文字
例によって今年一年を振り返るとしよう。年末の慌ただしさと年明けの怠惰のせいで、1月が半分以上過ぎてからこんな記事を書くことになってしまった。適当に日付枠を埋めるだけの内容ならいくらでも書けるのだが、何しろ激動の一年であったから振り返らないのももったいない。さて、年初に掲げた目標は
ひろく社会と人間に関心をもち、有機的な関係の構築を目指す
であった。まず社会と人間に関心をもつというところは、かなり低いレベルではあるものの達成できたのではないか。そもそも従来はこういう観点すら欠落しがちであったので、それを意識するようになっただけでも大きな進歩かもしれない。ただ今の水準で十分かというと全くそうではなく、もっと能動的に視野を広げていく必要がある。そして有機的な関係という部分、これはなかなかに難しい。すでに構築された関係性についてはより熟成して強固になった感はあるが、あたかも毛細血管が新生するかのごとく新たなネットワークが拡大したか言われればそれは否である。目の粗い網を大きく広げたまま維持するというのは、人によってはたやすいのかもしれないが、自分にとっては難題といえる。
この目標とはまた別に、たびたび意識していたのは個々人の才能と能力という点。いくら関心が広く、有機的な関係が構築できていても(もちろんこのこと自体は一種の才能と能力ではあるが)、それらを活かすに足るだけの才能なり能力がなければ何にもならないと考える。ドラえもんの「道具を使うのはけっきょく人間だからね」というセリフは実に奥が深い。別に関心や関係のことを「道具」だと言いたいのではなくて、「けっきょく人間」というところが重要なのだ。これからの時代、情報が氾濫し、誰しもが簡単に情報を手に入れ、あらゆる関係性の構築が容易になると予想される。そのような中で方向性を見失わず正しく進むためには、年初に掲げた目標を達成するのもさることながら、個人のもつ力を常に磨いていかねばならないと思うに至った。
あとは、それぞれについて。
・学業
年明けから続いた婦人科編集長、CBT、OSCE、定期試験の流れは、とくに諸々の主将業務とまるごと重なったこともあり、これまで生きてきた中で間違いなく最も忙しい2ヶ月であった。かつての受験勉強などとはまるで比較にならず、いや人はこれだけの短期間で集中的に知識を詰め込めるものなのかと、今さらながらその密度の濃さに驚く。そして3月には東北、英国、屋久島と旅行も詰め込んでいたものだから、まさに立ち止まる暇がなかった。
で、4月に病棟デビュー。当初はえらく緊張していたが、慣れとはすごいもので、徐々にこの生活が身体に馴染んでくる。ここで直面したのは「能動的な学習」という問題。ポリクリは一部の科を除いて、楽をしようとすればいくらでも楽をできるし、その逆もまた然りである。つまり個々人の意識の持ちようで学べる内容が大幅に変わってくる。座学での勉強はどうしても試験対策の域を出なかったが、実臨床に出ると学ぶべき内容は無限に広がっていて、何をどれだけ勉強するのかは基本的には自分で決めなければならない。したがって、意欲のある人はどんどん生きた知識をつけていくし、サボる人はますます堕落していく。
しかし自分はというと、どんどん楽な方向へと流れていく。適当に流してしまった科としてとくに反省しているのは、循環器内科、麻酔科、産科、小児科あたり。他大学の話を聞いていると、我々の実習は非常に充実しているようだ。座学とはうって変わって、臨床の先生方はみな教育熱心で懇切丁寧に指導してくれる。そこでもう一歩、与えられたことをこなすだけ、教えられた内容に満足するだけ、という段階から踏み出したい。また、試験を通すためだけの勉強でついた知識は大半が頭から流出している。それを補うべく、本来ならば日ごろから自主的に復習を繰り返すべきであったのだ。来年度はこの辺りが目標の中心になるだろうか。
・弓道
東医体までの現役生活をここにまとめるのはあまりにも難しいが、ひとまず主将の務めが終わった。残念ながら全医体出場は叶わなかったが、しかし部誌にも書いたように、今年はこれまでの弓道部生活の中で最も楽しい時間であった。そして、こうすればこうなる、ああすればああなる、といった基本的な摂理や道理といったものとようやく親しくなってきた。客観的にはどう見えているのかは分からないが、少なくとも主観的には人間的に成長した部分は大きかったと感じている。
とくに、その立場にならないと分からないことがある、という当たり前のことを理解するに至った。先輩と後輩は、生まれた年の差はたかだか5年、されど5年という絶妙な関係である。10年も20年も違うわけではないこれくらいの差なら、人間の成熟度として大して変わらない部分も多ければ、一方で両者の間で歴然たる差がつく部分や、後輩が先輩に先んじている部分もかなりある。したがって両者は主従の関係ではなく、互いに互いから学び合わなければならない。学年として上に立つ者は、自らの経験をもとにより良い環境を整備して後輩に還元していく責務があるのだ。
秋以降は、日大戦と三医大戦にキモハ参戦したw これから先、ますます時間は制限されていくのかもしれないが、それでも弓に、そして部活に関わる時間はできる限り確保していきたい。
・旅行など
今年は本当に色々行った。3月は東北、英国、屋久島。8月に東医体ついでの利尻旅行、そして急遽決まった英国滞在。9月に南九州、12月にふたたび東北。日帰りの撮影行では、秩父鉄道、烏山線2回、小湊鉄道。のすり氏には毎回お世話になっている。ポリクリ生はいわば半社会人であり、自由に使える時間は格段に減った。その分、週末やら連休やら長期休暇やら、時間のあるときはここぞとばかりに旅行や撮影行を詰め込むことになる。代々木の貯金は減っていく一方だが、各方面からの話を聞くに、もう2年後からいよいよ何処へも行けなくなりそうな上、国鉄型車両の急速な淘汰状況も相まって、今しかない機会を何とか活かそうとしている。
そして、効率的に時間を使うことがいよいよ重要な時期になってきた。微視的であれ巨視的であれ、細切れの時間をいかにつなぎ合わせるか、その時間の質に合った時間の使い方をいかに選ぶか、こういった点をさらに意識していきたいと思う。時間は、作ろうと思えば本来いくらでも作れるはずなのだ。どれだけ作り、どれだけ活用するかは、結局自分次第ということになる。まさにさっきの「けっきょく人間」というのと同じことだ。
あとは、自分でものを考え、見識を深めていきたい。
写真:〆張鶴 銀ラベル
大みそかの食卓、銀ラベルを開栓。
2941文字
ひろく社会と人間に関心をもち、有機的な関係の構築を目指す
であった。まず社会と人間に関心をもつというところは、かなり低いレベルではあるものの達成できたのではないか。そもそも従来はこういう観点すら欠落しがちであったので、それを意識するようになっただけでも大きな進歩かもしれない。ただ今の水準で十分かというと全くそうではなく、もっと能動的に視野を広げていく必要がある。そして有機的な関係という部分、これはなかなかに難しい。すでに構築された関係性についてはより熟成して強固になった感はあるが、あたかも毛細血管が新生するかのごとく新たなネットワークが拡大したか言われればそれは否である。目の粗い網を大きく広げたまま維持するというのは、人によってはたやすいのかもしれないが、自分にとっては難題といえる。
この目標とはまた別に、たびたび意識していたのは個々人の才能と能力という点。いくら関心が広く、有機的な関係が構築できていても(もちろんこのこと自体は一種の才能と能力ではあるが)、それらを活かすに足るだけの才能なり能力がなければ何にもならないと考える。ドラえもんの「道具を使うのはけっきょく人間だからね」というセリフは実に奥が深い。別に関心や関係のことを「道具」だと言いたいのではなくて、「けっきょく人間」というところが重要なのだ。これからの時代、情報が氾濫し、誰しもが簡単に情報を手に入れ、あらゆる関係性の構築が容易になると予想される。そのような中で方向性を見失わず正しく進むためには、年初に掲げた目標を達成するのもさることながら、個人のもつ力を常に磨いていかねばならないと思うに至った。
あとは、それぞれについて。
・学業
年明けから続いた婦人科編集長、CBT、OSCE、定期試験の流れは、とくに諸々の主将業務とまるごと重なったこともあり、これまで生きてきた中で間違いなく最も忙しい2ヶ月であった。かつての受験勉強などとはまるで比較にならず、いや人はこれだけの短期間で集中的に知識を詰め込めるものなのかと、今さらながらその密度の濃さに驚く。そして3月には東北、英国、屋久島と旅行も詰め込んでいたものだから、まさに立ち止まる暇がなかった。
で、4月に病棟デビュー。当初はえらく緊張していたが、慣れとはすごいもので、徐々にこの生活が身体に馴染んでくる。ここで直面したのは「能動的な学習」という問題。ポリクリは一部の科を除いて、楽をしようとすればいくらでも楽をできるし、その逆もまた然りである。つまり個々人の意識の持ちようで学べる内容が大幅に変わってくる。座学での勉強はどうしても試験対策の域を出なかったが、実臨床に出ると学ぶべき内容は無限に広がっていて、何をどれだけ勉強するのかは基本的には自分で決めなければならない。したがって、意欲のある人はどんどん生きた知識をつけていくし、サボる人はますます堕落していく。
しかし自分はというと、どんどん楽な方向へと流れていく。適当に流してしまった科としてとくに反省しているのは、循環器内科、麻酔科、産科、小児科あたり。他大学の話を聞いていると、我々の実習は非常に充実しているようだ。座学とはうって変わって、臨床の先生方はみな教育熱心で懇切丁寧に指導してくれる。そこでもう一歩、与えられたことをこなすだけ、教えられた内容に満足するだけ、という段階から踏み出したい。また、試験を通すためだけの勉強でついた知識は大半が頭から流出している。それを補うべく、本来ならば日ごろから自主的に復習を繰り返すべきであったのだ。来年度はこの辺りが目標の中心になるだろうか。
・弓道
東医体までの現役生活をここにまとめるのはあまりにも難しいが、ひとまず主将の務めが終わった。残念ながら全医体出場は叶わなかったが、しかし部誌にも書いたように、今年はこれまでの弓道部生活の中で最も楽しい時間であった。そして、こうすればこうなる、ああすればああなる、といった基本的な摂理や道理といったものとようやく親しくなってきた。客観的にはどう見えているのかは分からないが、少なくとも主観的には人間的に成長した部分は大きかったと感じている。
とくに、その立場にならないと分からないことがある、という当たり前のことを理解するに至った。先輩と後輩は、生まれた年の差はたかだか5年、されど5年という絶妙な関係である。10年も20年も違うわけではないこれくらいの差なら、人間の成熟度として大して変わらない部分も多ければ、一方で両者の間で歴然たる差がつく部分や、後輩が先輩に先んじている部分もかなりある。したがって両者は主従の関係ではなく、互いに互いから学び合わなければならない。学年として上に立つ者は、自らの経験をもとにより良い環境を整備して後輩に還元していく責務があるのだ。
秋以降は、日大戦と三医大戦にキモハ参戦したw これから先、ますます時間は制限されていくのかもしれないが、それでも弓に、そして部活に関わる時間はできる限り確保していきたい。
・旅行など
今年は本当に色々行った。3月は東北、英国、屋久島。8月に東医体ついでの利尻旅行、そして急遽決まった英国滞在。9月に南九州、12月にふたたび東北。日帰りの撮影行では、秩父鉄道、烏山線2回、小湊鉄道。のすり氏には毎回お世話になっている。ポリクリ生はいわば半社会人であり、自由に使える時間は格段に減った。その分、週末やら連休やら長期休暇やら、時間のあるときはここぞとばかりに旅行や撮影行を詰め込むことになる。代々木の貯金は減っていく一方だが、各方面からの話を聞くに、もう2年後からいよいよ何処へも行けなくなりそうな上、国鉄型車両の急速な淘汰状況も相まって、今しかない機会を何とか活かそうとしている。
そして、効率的に時間を使うことがいよいよ重要な時期になってきた。微視的であれ巨視的であれ、細切れの時間をいかにつなぎ合わせるか、その時間の質に合った時間の使い方をいかに選ぶか、こういった点をさらに意識していきたいと思う。時間は、作ろうと思えば本来いくらでも作れるはずなのだ。どれだけ作り、どれだけ活用するかは、結局自分次第ということになる。まさにさっきの「けっきょく人間」というのと同じことだ。
あとは、自分でものを考え、見識を深めていきたい。
写真:〆張鶴 銀ラベル
大みそかの食卓、銀ラベルを開栓。
2941文字
あけぼのを下車したら、そこには年の瀬の日常が待っている。8時頃に帰宅し、荷ほどきをして、シャワーを浴び、写真を取り込み、ひと通りの片づけを終える。夜行明けの一日というのは有効に使えそうなものだが、自分が思っている以上に疲労が蓄積しているもので、結局昼間に2、3時間の惰眠を貪ってしまった。
夕方は忘年会。秋田で買った雪の茅舎を手土産に、湯島へ。こうして鍋を囲みながら日本酒を飲む宵は格別である。気が付けば明日で今年が終わろうとしている。このままずるずると正月休みへ引きずり込まれていくのかもしれない。
写真:尾道市街
階段と坂を登って行った先には、天守閣風の建物があります。
324文字
夕方は忘年会。秋田で買った雪の茅舎を手土産に、湯島へ。こうして鍋を囲みながら日本酒を飲む宵は格別である。気が付けば明日で今年が終わろうとしている。このままずるずると正月休みへ引きずり込まれていくのかもしれない。
写真:尾道市街
階段と坂を登って行った先には、天守閣風の建物があります。
324文字
上野行の寝台特急。
・帰路
秋田を8分遅れで発車した特急あけぼのは、夜の羽越本線を南下していく。国鉄時代、特急といえばまさに特別急行、別格の列車であったと聞く。今ほど多くの本数は走っておらず、その代わり急行がたくさん行き交っていたようだ。1975年12月の時刻表を開くと、羽越本線をほぼ通しで走る定期列車のうち特急は日本海、いなほ(2往復)、白鳥の計4往復、急行は鳥海、天の川、きたぐに、羽越・あさひ(2往復)、しらゆきの計6往復である。しかし現在は急行という種別自体が消滅しかけており、羽越本線に関していえば全ての優等列車が特急いなほ(7往復)に統合されたことになる。
あけぼのは、もともと奥羽本線経由で上野と青森を結ぶ列車であった。山形新幹線の敷設と開業に伴って「鳥海」と改称された1往復が、名前を元に戻し現行のあけぼのとして走っている。運行区間が東日本の一社内で完結するうえ、高速鉄道の恩恵から隔絶された山形と秋田の日本海側を結ぶこともあってか、現在まで生き永らえてきた。しかし、ついに来年3月の改正で廃止される。車両の老朽化、というのが専らの噂である。
ゴロンとシートの通路に腰掛けてぼんやりと車内や車窓を眺めていると、客の乗降はそれなりに活発であることが分かる。羽後本荘で降りる客、象潟で乗る客、遊佐で降りる客。奥羽本線ではつがる8号、羽越本線ではいなほ14号の後に走る最終の特急として利用する人も多いだろう。そうして列車はこまめに停車しながら、日本海沿岸の町々と首都を結ぶ。この10年ほど、急速な勢いで夜行列車が姿を消している。速達性を求めるなら新幹線そして航空機の時代、また経済性を求めるなら格安高速バスの時代、蚕棚寝台に寝具とスリッパがついただけで6300円という旧態依然たる設備は中途半端な立ち位置のまま取り残されてしまった。価格設定を変えたり、ゴロンとシートの比率を増やしたりなど、まだ少し策は残っているのかもしれないが、バスより高く、新幹線や航空機よりはるかに遅い夜行列車という移動手段そのものが、時代にそぐわなくなったのかもしれない。
鶴岡を過ぎると、所々で撮影の記憶がふいに蘇る。ダイヤグラムとGPSを手にして漆黒の車窓に目をこらしていると、見慣れた景色が過ぎ去ってゆく。3月に下車した小波渡駅。不思議な形の駅舎を横目に、列車は猛然と長いホームを通過してゆく。ただの通過駅とはいっても、長大ホーム、2面3線の立派な駅が多い。さすがは羽越本線、旧国鉄の幹線である。そしてあつみ温泉を出ると、次は小岩川を通過。ここも春に訪れた場所だ。あの時もぱっとしない天気で、水平線には粟島の影が霞んでいたことを覚えている。鼠ヶ関、府屋、勝木と何度も目にした駅名が目の前をよぎっていく。そして、ナトリウムランプに浮かび上がる脇川大橋。一昨日、あそこの欄干にへばり付いて、今まさに自分が通過している線路をゆく列車を追っていたのだった。下方に目をやると、家々が寄り添うようにして寂れた集落を作っている。車窓はほぼ真っ暗だが、列車は笹川流れの海岸線を走っているらしい。しばらく回想に耽り、程よい睡魔が襲ってきた頃、列車は村上に到着した。秋田を発車して3時間あまり、日本海沿岸をひたすら南下してきたことになる。酒も回ってきたようなので、そろそろ眠りに就くとしよう。
目覚めたのは大宮を出た頃であった。車内は慌ただしく、気が付けば多くの乗客が通路に腰掛けて早朝の東京の景色に見入っていた。東北本線、京浜東北線を走るステンレス車体が否応なく目に入る。ついに戻ってきたのだ。線路は連綿と続いている。日本海の波をかぶる線路と、都心の大量輸送を支える線路群が、夜行列車を介してひとつの時間軸上、空間軸上につながった。列車は、あたかも時空間を貫く細いトンネルのようだ。鉄道旅行の面白さはここに結晶しているといっても良い。年の瀬を実感する雑踏の中、家路につく。
写真(@上野)
1枚目:夜は更ける
2枚目:上野到着
3枚目:山男、EF64 1000番台
1846文字
12/29 → 12/30
秋田2131(+8) → 上野658
羽越本線・信越本線・上越線・高崎線・東北本線2022レ
特急あけぼの オハネフ24 25
・帰路
秋田を8分遅れで発車した特急あけぼのは、夜の羽越本線を南下していく。国鉄時代、特急といえばまさに特別急行、別格の列車であったと聞く。今ほど多くの本数は走っておらず、その代わり急行がたくさん行き交っていたようだ。1975年12月の時刻表を開くと、羽越本線をほぼ通しで走る定期列車のうち特急は日本海、いなほ(2往復)、白鳥の計4往復、急行は鳥海、天の川、きたぐに、羽越・あさひ(2往復)、しらゆきの計6往復である。しかし現在は急行という種別自体が消滅しかけており、羽越本線に関していえば全ての優等列車が特急いなほ(7往復)に統合されたことになる。
あけぼのは、もともと奥羽本線経由で上野と青森を結ぶ列車であった。山形新幹線の敷設と開業に伴って「鳥海」と改称された1往復が、名前を元に戻し現行のあけぼのとして走っている。運行区間が東日本の一社内で完結するうえ、高速鉄道の恩恵から隔絶された山形と秋田の日本海側を結ぶこともあってか、現在まで生き永らえてきた。しかし、ついに来年3月の改正で廃止される。車両の老朽化、というのが専らの噂である。
ゴロンとシートの通路に腰掛けてぼんやりと車内や車窓を眺めていると、客の乗降はそれなりに活発であることが分かる。羽後本荘で降りる客、象潟で乗る客、遊佐で降りる客。奥羽本線ではつがる8号、羽越本線ではいなほ14号の後に走る最終の特急として利用する人も多いだろう。そうして列車はこまめに停車しながら、日本海沿岸の町々と首都を結ぶ。この10年ほど、急速な勢いで夜行列車が姿を消している。速達性を求めるなら新幹線そして航空機の時代、また経済性を求めるなら格安高速バスの時代、蚕棚寝台に寝具とスリッパがついただけで6300円という旧態依然たる設備は中途半端な立ち位置のまま取り残されてしまった。価格設定を変えたり、ゴロンとシートの比率を増やしたりなど、まだ少し策は残っているのかもしれないが、バスより高く、新幹線や航空機よりはるかに遅い夜行列車という移動手段そのものが、時代にそぐわなくなったのかもしれない。
鶴岡を過ぎると、所々で撮影の記憶がふいに蘇る。ダイヤグラムとGPSを手にして漆黒の車窓に目をこらしていると、見慣れた景色が過ぎ去ってゆく。3月に下車した小波渡駅。不思議な形の駅舎を横目に、列車は猛然と長いホームを通過してゆく。ただの通過駅とはいっても、長大ホーム、2面3線の立派な駅が多い。さすがは羽越本線、旧国鉄の幹線である。そしてあつみ温泉を出ると、次は小岩川を通過。ここも春に訪れた場所だ。あの時もぱっとしない天気で、水平線には粟島の影が霞んでいたことを覚えている。鼠ヶ関、府屋、勝木と何度も目にした駅名が目の前をよぎっていく。そして、ナトリウムランプに浮かび上がる脇川大橋。一昨日、あそこの欄干にへばり付いて、今まさに自分が通過している線路をゆく列車を追っていたのだった。下方に目をやると、家々が寄り添うようにして寂れた集落を作っている。車窓はほぼ真っ暗だが、列車は笹川流れの海岸線を走っているらしい。しばらく回想に耽り、程よい睡魔が襲ってきた頃、列車は村上に到着した。秋田を発車して3時間あまり、日本海沿岸をひたすら南下してきたことになる。酒も回ってきたようなので、そろそろ眠りに就くとしよう。
目覚めたのは大宮を出た頃であった。車内は慌ただしく、気が付けば多くの乗客が通路に腰掛けて早朝の東京の景色に見入っていた。東北本線、京浜東北線を走るステンレス車体が否応なく目に入る。ついに戻ってきたのだ。線路は連綿と続いている。日本海の波をかぶる線路と、都心の大量輸送を支える線路群が、夜行列車を介してひとつの時間軸上、空間軸上につながった。列車は、あたかも時空間を貫く細いトンネルのようだ。鉄道旅行の面白さはここに結晶しているといっても良い。年の瀬を実感する雑踏の中、家路につく。
写真(@上野)
1枚目:夜は更ける
2枚目:上野到着
3枚目:山男、EF64 1000番台
1846文字
日本海旅行 3日目 Part 4
2013年12月29日 鉄道と旅行
塩見崎を再訪。
・ふたたび絶景
やはり諦め切れなかった。深浦~横磯間で効率的に3本を撮影したとはいえ、一度あの場所を訪れると、どうしても列車が走っている姿を見たくなってしまう。
「国道101号線を横磯方面へ向かってください。目立つ格好をした2人がいます」という迎車の連絡、かなり不審だったのではなかろうか。328D通過後の15時ちょうどに岡崎大間の撮影地にタクシーを呼び、深浦、広戸、追良瀬を通り越して10kmあまり、午前中に訪れた塩見崎南側の防風林の近くまで乗せてもらう。運転手はついさっきまで家でこたつに入っていました、といった感じの出で立ちで、口数は少ないながらもこの辺りの沿線についてたまに説明を挟んでくれる。追良瀬から驫木へ向けて山を登り詰めた先で下車。16時に再びここに来てもらうようお願いした。
道なき防風林を抜け、荒れた藪をかき分けて崖っぷちまでやって来たとき、思わず叫んでしまった。午前中とは打って変わって、海岸線は夕刻の陽光を目一杯に浴びて妖しく輝いていた。褐色の陸と群青の海が強烈なコントラストをなし、圧倒的な姿で目の前に迫ってくる。波の音そして風の音が轟々と共鳴し、巨大なシアターの中に佇んでいるかのようだ。深浦駅に確認すると、2830Dは強風のため20分ほど遅れて走っているらしい。それまで光線がもつかどうか不安であったが、残念ながら間もなく太陽は厚い雲の陰に隠れてしまった。ふいに景色は寒々しくなり、表情は劇変する。蒼白の荒波が次から次へと海岸に押し寄せ、猛烈な海風が身を切りつける。寒い、とにかく寒いが、待つしかない。
そして、ついに列車は現れた。朝に立っていた塩見崎のすぐそば、小さなポータルの闇にヘッドライトが光る。厳冬の日本海に面する北辺の鉄路。これが、強大な自然の中に生きる鉄道の姿だ。2両編成の列車は思いのほか軽快に画面を駆け抜けてゆく。もう何も考えず、全てを忘れてシャッターを切り続ける。複雑な思考や論理を介さず、脳が直接に対象を知覚するこの感覚は、必ずしも鉄道撮影に特有のものではない。しかし、50Dの無味乾燥なシャッター音と共に撮像が行われるとき、自らがその「場」と対面したという記憶が永久に残っていくように思われるのだ。
タクシーは、ちゃんと来てくれていた。往路に比べるとだいぶ運転手とも打ち解け、深浦駅まで乗せてもらう。駅前の酒屋で鰺ヶ沢の酒、安東水軍の本醸造を土産に買った後、リゾートしらかみで深浦の地を去る。自由に使える時間がだんだんと減っている今、またここを訪れることはあるのだろうか。あっという間に日が暮れてしまい、秋田までは車内で眠るのみであった。
・秋田の夜
あけぼのの発車までは2時間ほどある。もう撮影地へは行かないのを良いことに、駅ビルの酒屋で再び土産を買って荷物を増やす。雪の茅舎の純米吟醸、縄文能代の吟醸、それに刈穂と大平山のカップ酒。旅先で酒を買って帰る楽しみは大きい。夕食は昨夜と同じくトピコ内のレストラン街にて。3月にも訪れた比内地鶏の店で親子丼とそば、それに焼き鳥を食しつつ、新政の特別純米を飲みながら、この長旅を振り返るひと時を過ごした。
写真
1枚目:蒼白の世界に現れる
2枚目:北辺の鉄路をゆく
3枚目:夕食
1614文字
12/29
タクシーによる移動
撮影(塩見崎海岸線 その2):
2830D[1554] 普通列車(キハ40 2連)
タクシーによる移動
深浦1649(+15) → 秋田1913(+21)
五能線8524D 快速リゾートしらかみ4号 キハ48 704
・ふたたび絶景
やはり諦め切れなかった。深浦~横磯間で効率的に3本を撮影したとはいえ、一度あの場所を訪れると、どうしても列車が走っている姿を見たくなってしまう。
「国道101号線を横磯方面へ向かってください。目立つ格好をした2人がいます」という迎車の連絡、かなり不審だったのではなかろうか。328D通過後の15時ちょうどに岡崎大間の撮影地にタクシーを呼び、深浦、広戸、追良瀬を通り越して10kmあまり、午前中に訪れた塩見崎南側の防風林の近くまで乗せてもらう。運転手はついさっきまで家でこたつに入っていました、といった感じの出で立ちで、口数は少ないながらもこの辺りの沿線についてたまに説明を挟んでくれる。追良瀬から驫木へ向けて山を登り詰めた先で下車。16時に再びここに来てもらうようお願いした。
道なき防風林を抜け、荒れた藪をかき分けて崖っぷちまでやって来たとき、思わず叫んでしまった。午前中とは打って変わって、海岸線は夕刻の陽光を目一杯に浴びて妖しく輝いていた。褐色の陸と群青の海が強烈なコントラストをなし、圧倒的な姿で目の前に迫ってくる。波の音そして風の音が轟々と共鳴し、巨大なシアターの中に佇んでいるかのようだ。深浦駅に確認すると、2830Dは強風のため20分ほど遅れて走っているらしい。それまで光線がもつかどうか不安であったが、残念ながら間もなく太陽は厚い雲の陰に隠れてしまった。ふいに景色は寒々しくなり、表情は劇変する。蒼白の荒波が次から次へと海岸に押し寄せ、猛烈な海風が身を切りつける。寒い、とにかく寒いが、待つしかない。
そして、ついに列車は現れた。朝に立っていた塩見崎のすぐそば、小さなポータルの闇にヘッドライトが光る。厳冬の日本海に面する北辺の鉄路。これが、強大な自然の中に生きる鉄道の姿だ。2両編成の列車は思いのほか軽快に画面を駆け抜けてゆく。もう何も考えず、全てを忘れてシャッターを切り続ける。複雑な思考や論理を介さず、脳が直接に対象を知覚するこの感覚は、必ずしも鉄道撮影に特有のものではない。しかし、50Dの無味乾燥なシャッター音と共に撮像が行われるとき、自らがその「場」と対面したという記憶が永久に残っていくように思われるのだ。
タクシーは、ちゃんと来てくれていた。往路に比べるとだいぶ運転手とも打ち解け、深浦駅まで乗せてもらう。駅前の酒屋で鰺ヶ沢の酒、安東水軍の本醸造を土産に買った後、リゾートしらかみで深浦の地を去る。自由に使える時間がだんだんと減っている今、またここを訪れることはあるのだろうか。あっという間に日が暮れてしまい、秋田までは車内で眠るのみであった。
・秋田の夜
あけぼのの発車までは2時間ほどある。もう撮影地へは行かないのを良いことに、駅ビルの酒屋で再び土産を買って荷物を増やす。雪の茅舎の純米吟醸、縄文能代の吟醸、それに刈穂と大平山のカップ酒。旅先で酒を買って帰る楽しみは大きい。夕食は昨夜と同じくトピコ内のレストラン街にて。3月にも訪れた比内地鶏の店で親子丼とそば、それに焼き鳥を食しつつ、新政の特別純米を飲みながら、この長旅を振り返るひと時を過ごした。
写真
1枚目:蒼白の世界に現れる
2枚目:北辺の鉄路をゆく
3枚目:夕食
1614文字
日本海旅行 3日目 Part 3
2013年12月29日 鉄道と旅行
南へ転戦。
・深浦海岸
追良瀬1155発の2826Dもバス代行となると、いよいよ撮るものがなくなった。次にここを通る列車は1535発の2830Dである。
深浦~鰺ヶ沢間は普通列車が1日5往復のみで、今日のようにそのうち1往復がバス代行になるだけで撮影には大打撃となる。午後は方針を転換し、2826Dの代行バスに乗って深浦まで出た後、南側の深浦~横磯間で3本の列車を狙うことにした。驫木や塩見崎、追良瀬のような雄大な景色は期待できないが、夏にここを訪れたことのあるのすり氏のガイドで撮影地を探索する。代行バスは5分ほど遅れて現れたが、終着の深浦までに遅延が拡大することはなかった。乗客は10人もいなかったか。こういった状況ならば全ての列車をバスで代行でき、必ずしも鉄道がいらないということになってしまう。
深浦を出た五能線は小さな入り江の深浦港を見下ろしながら、横磯までの間に5本のトンネルをくぐる。まずは深浦から2本目のトンネルを出た下り321Dを正面から撮影。101号線から山側へ分岐する坂道があり、その途中、ガードレールをまたいだ場所からやや俯瞰気味に縦構図で切り取る。左手の枯れ藪が邪魔だったので撮影前にしばらく刈り作業を行ったところ、撮りやすい景色になった。何の変哲もない、キハ40系列の編成写真といったところである。
次なる撮影地は、深浦から4本目と5本目のトンネルを通して見渡せる場所。小さな川沿いに県道192号線を山側へと歩き、民家の裏にある小高い藪から逆S字カーブの線路と二重のトンネルを望遠する。しかし列車は上りなので後追い。後追いの撮影というのは構図を固めても直前に全視界を遮られるので、三脚でも立てない限りなかなか難度が高いのだ。列車は東能代側にタラコ色を連結した3両編成でやってきた。画面右下の隅に右側の線路を合わせたかったのだが、少しずれてしまった。しかし尾灯を光らせてトンネルに吸い込まれていく姿は面白い。
ところで、そばの民家にいた飼い犬は実に人懐っこい奴であった。我々の姿を見るなり、小屋から出てきて臭いをかぎ回ったり飛びついたりしてくる。列車は1時間強の間隔で通過するためあまり余裕はなかったが、しばしの撮影を楽しむ。白い雪道をバックに動物を撮ると、輪郭がくっきりと強調される。しかし、当たり前のことだが鉄道撮影と違って動きが全く読めないので、良い写真を撮るにはかなり苦労した。さて、そろそろ立ち去ろうとすると、見るからに悲しげな顔つきになる。犬も分かっているのだろう。毎日相当に暇なものだから、たまに見かけるヒトの姿が嬉しくてたまらないのかもしれない。
最後の撮影地は、101号線をひたすら横磯方面へと歩いた場所。地図によれば岡崎大間という地名がついていて、道路がカーブした先はもう横磯の駅である。一軒だけある民家の向かい側、松の木が飄々と佇む辺りから、ガードレールに乗っかって海を入れつつ上り列車をサイドから撮影した。高さというのは構図に大きな影響を与える要素で、1メートルも足場が高くなれば手前の障害物はずいぶんとカットされ、景色もがらりと変わる。高い脚立に登ったり、あるいは隣の松の木に登ったりすればだいぶ様子も違ったのだろうが、この状況ではガードレールに乗るのが精一杯であった。
写真
1枚目:アウトカーブ
2枚目:二重のトンネルに吸い込まれる
3枚目:夕刻の海を横目に
1689文字
12/29
追良瀬1200(+5) → 深浦1210(+5)
五能線2826D 代行バス
撮影(トンネル その1):
321D[1238] 普通列車(キハ40 2連)
撮影(トンネル その2):
326D[1334] 普通列車(キハ40 2連)
撮影(岡崎大間):
328D[1450] 普通列車(キハ40 2連)
・深浦海岸
追良瀬1155発の2826Dもバス代行となると、いよいよ撮るものがなくなった。次にここを通る列車は1535発の2830Dである。
深浦~鰺ヶ沢間は普通列車が1日5往復のみで、今日のようにそのうち1往復がバス代行になるだけで撮影には大打撃となる。午後は方針を転換し、2826Dの代行バスに乗って深浦まで出た後、南側の深浦~横磯間で3本の列車を狙うことにした。驫木や塩見崎、追良瀬のような雄大な景色は期待できないが、夏にここを訪れたことのあるのすり氏のガイドで撮影地を探索する。代行バスは5分ほど遅れて現れたが、終着の深浦までに遅延が拡大することはなかった。乗客は10人もいなかったか。こういった状況ならば全ての列車をバスで代行でき、必ずしも鉄道がいらないということになってしまう。
深浦を出た五能線は小さな入り江の深浦港を見下ろしながら、横磯までの間に5本のトンネルをくぐる。まずは深浦から2本目のトンネルを出た下り321Dを正面から撮影。101号線から山側へ分岐する坂道があり、その途中、ガードレールをまたいだ場所からやや俯瞰気味に縦構図で切り取る。左手の枯れ藪が邪魔だったので撮影前にしばらく刈り作業を行ったところ、撮りやすい景色になった。何の変哲もない、キハ40系列の編成写真といったところである。
次なる撮影地は、深浦から4本目と5本目のトンネルを通して見渡せる場所。小さな川沿いに県道192号線を山側へと歩き、民家の裏にある小高い藪から逆S字カーブの線路と二重のトンネルを望遠する。しかし列車は上りなので後追い。後追いの撮影というのは構図を固めても直前に全視界を遮られるので、三脚でも立てない限りなかなか難度が高いのだ。列車は東能代側にタラコ色を連結した3両編成でやってきた。画面右下の隅に右側の線路を合わせたかったのだが、少しずれてしまった。しかし尾灯を光らせてトンネルに吸い込まれていく姿は面白い。
ところで、そばの民家にいた飼い犬は実に人懐っこい奴であった。我々の姿を見るなり、小屋から出てきて臭いをかぎ回ったり飛びついたりしてくる。列車は1時間強の間隔で通過するためあまり余裕はなかったが、しばしの撮影を楽しむ。白い雪道をバックに動物を撮ると、輪郭がくっきりと強調される。しかし、当たり前のことだが鉄道撮影と違って動きが全く読めないので、良い写真を撮るにはかなり苦労した。さて、そろそろ立ち去ろうとすると、見るからに悲しげな顔つきになる。犬も分かっているのだろう。毎日相当に暇なものだから、たまに見かけるヒトの姿が嬉しくてたまらないのかもしれない。
最後の撮影地は、101号線をひたすら横磯方面へと歩いた場所。地図によれば岡崎大間という地名がついていて、道路がカーブした先はもう横磯の駅である。一軒だけある民家の向かい側、松の木が飄々と佇む辺りから、ガードレールに乗っかって海を入れつつ上り列車をサイドから撮影した。高さというのは構図に大きな影響を与える要素で、1メートルも足場が高くなれば手前の障害物はずいぶんとカットされ、景色もがらりと変わる。高い脚立に登ったり、あるいは隣の松の木に登ったりすればだいぶ様子も違ったのだろうが、この状況ではガードレールに乗るのが精一杯であった。
写真
1枚目:アウトカーブ
2枚目:二重のトンネルに吸い込まれる
3枚目:夕刻の海を横目に
1689文字