寝台電車

2013年9月29日 日常
寝台電車
日曜の時間は主に代々木に費やす。そういえば、循環器のQBがまだ全然終わっていなかったのだった。このまま何も勉強しないとさすがにアホになると思い、とりあえず金曜までには片付けるべく予定を立てる。婦人科の足音もひたひたと近付いてきていることだし、明日から始まる輸血・臨検の2週間はストイックに勉強するとしよう。やはり、家に帰ると駄目だ。とくに酒を飲んでしまうと何もできなくなる。

写真:特急サンライズ出雲・瀬戸@東京
思えば、2年の春休みは旅行が非常に充実していた。東海北陸、山形、山陽山陰、フランスとイタリア。今日からは、中国旅行の写真を載せていくとします。

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帰京の途

2013年9月28日 日常
帰京の途
昨夜はだいぶ飲んでしまい、活動を開始したのが11時頃。こういう休日に早起きすればもっと有意義に時間を使うことができるはずなのだが。どうもまだ日常が回っている感じがあまりしない。先週の南九州は確かに強烈な非日常ではあったのだが、それとコントラストをなすほどの日常ではなかったかもしれない。ポリクリの日々は淡々と過ぎてゆくが、結局のところ自発的に、ストイックに勉強していないからではないか。

夕方は志木へ行って弓をひく。

写真:山形新幹線@米沢
一夜明け、家路につく。また冬に訪れて、旨い酒を飲んでみたい。

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余韻

2013年9月27日 大学
余韻
余韻
やはり月曜が休みだと楽である。

麻酔科
今週は緩和医療のクルズスと、ペインクリニックの外来見学が比較的重かった。一週目に比べるとやや退屈だった感は否めない。ただGICUでの全身管理は比較的面白い内容で、麻酔科はこういうこともやっているのかという印象。この2週間は何か特別に勉強して知識を詰め込んだというよりはむしろ、診療科の実際を見学する意義が大きかったように思われる。ただ、薬理に関しては使い物にならないほど知識が抜けていたので、もう一度見直してみようという気になったw ここまで忘れていると悲しくなる。

定期練習
火曜は練習に参加。部員がどのような射をしているのかは逐一観察するようにしているが、基本的にはただ自由に弓をひいているだけの引退部員である。もちろん自分の練習もやってはいるが、「見に来ている」という側面も大きい。

金曜は前後の班員を交えて焼肉と飲み会。ひどい有様だったw

写真:酒宴
シメのご飯物です。

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十四代オンパレード
十四代オンパレード
今月2回目の三連休は、虚しくも最終日。

講師会
発表するからにはいい加減な仕事をするわけにはいかないし、最善を尽くそうということで、それなりの準備をしてきた。しかしプレゼンはやはり難しい。「プレゼンは場数」とはよく言われるが、「場数」というのは何も考えずただ回数をこなせば良いという意味ではないだろう。つまり、毎回ちゃんと考えなければならない。では今回はどうだったかと言うと、とりあえず準備してきたものを余すところなくわーっと口頭でぶちまけたような感じであった。話すのも異様に速かった。まずは内容勝負ということで、練り上げた文章なり原稿なりをインプットし、そしてあとは日本語さえ話せればアウトプットもできる、という安直な考え方である。

しかし言語としての日本語が話せることなど当たり前なので、問題は「どう話すか」というところにある。その観点が欠如していた。ここが最も難しいと感じるところで、結局、書き言葉と話し言葉は違うのだ。言葉の見た目が違うと言っているのではなくて、そもそもの論理が違う。したがって、話す論理をもっと追究していかないことには、進歩はないかもしれない。

いやしかし、準優勝で光栄であったw

写真:酒宴
七垂二十貫、龍月、双虹。これはすごい!

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酒宴始まる

2013年9月22日 日常
酒宴始まる
酒宴始まる
明日のスライドを作り込み、助言を受けつつ修正し、時間内に収まるようプレゼンの練習を行う。こういう作業を慢性的に続けているだけで一日があっという間に過ぎてゆく。あとは、木曜に締切の迫ったアメ留書類の作成にようやく本格的に取り掛かる。てかCV、CVって一体何の略なのかと思ったら、curriculum vitaeなるラテン語だった。「人生の物語」、つまり履歴書。知らんかったw 当初は書くことなさすぎてヤバいと思ったが、書き始めてみたら意外とそれっぽいやつができたので、まあ良しとする。それにしても、なかなか骨が折れる仕事であった。

写真:酒宴
「酒菜一」という山形駅近くの店にて。山形県内のあらゆる日本酒を揃えている店であった。是非また訪れたい。

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眼光

2013年9月21日 日常
眼光
眼光
今日は多摩川を渡って矯正歯科へ行くついでに、久々に「家」へ帰る。先日の三連休、鹿児島で鉄道撮影に明け暮れている間、首都圏では台風が直撃していた。まあ、とくに問題はなかったようだ。ピアノを触ったりしつつ、ここにいる時ぐらいは、と思って怠惰な時間を満喫した。

夜は代々木へ足を運び、月曜の打ち合わせを行う。いやしかし、何だかんだで今週末は大部分の時間をこれに捧げることになりそうな雲行きである。他にも色々やるべきことはあるが、何にどのように時間を使うかを明確に決めなければならない。

写真:ネコ
山形市内にて。もしや寒いのか、しっぽを足に巻きつけているのが面白いw

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冬の夕刻

2013年9月20日 大学
冬の夕刻
冬の夕刻
素晴らしいことに、今週と来週は月曜が休みである。普段なら10日分の実習を行うところが、8日分で済むというわけだ。ところで、科による差は大きいにしても、一般に10日というのは少し長くて間延びする。かといって、循内と心外、血内とリウマチのように5日ずつに分割されると、それはそれで少し忙しい。実際のところは、8日くらいがちょうど良いのではないか。

麻酔科
与えられた実習シートにひたすら書き込みを行っていくという形式。ややこしいレポートこそないが、いかにも「実習」らしい実習で、とりあえずその場にいてしっかりと見学し、まともなメモを取らねばならない。しかし実習シートの形式がイマイチで、わりと書きにくい。

どうもこの科は退屈なイメージが先行していて、月曜の夜に鹿児島から帰る飛行機の中などはそれなりに憂鬱だったのだが、実際のところはそんなにつまらないわけでもなかった。気管挿管、手術麻酔、全身管理などは色々な知識の整理にもなったし、とくに手術麻酔は、今まで訳の分らなかった部分が明らかになっていくような面白さを感じた。分かれば面白いし、分からなければ全く面白くない。これは何ごとにも言える。したがって、面白くないのは分かっていないから、という場合もかなり多いだろう。

今週は代々木の仕事が大量に降って来て、とくに週の後半は主に動画撮影に時間を費やすこととなったw こういうのを撮ってみると改めて分かるが、自分はこういう声をして、こういう喋り方をしているのかと思うと、何か妙な気持ち悪さを感じる。つまりは自分に聞こえている声や、自分がそうあるだろうと思っているところの振舞いが、実はだいぶ異なる形で外界に表出されているということに、変な感覚を抱くわけだ。

写真:山寺
1枚目は、頂上付近の風景。2枚目は、山を下りて橋を渡るところ。

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南九州撮影行 3日目
南九州撮影行 3日目
南九州撮影行 3日目
肥薩線に生きる老機関車。
9/16
新八代633 → 八代636
鹿児島本線6321M クハ814-10

八代642 → 海路734
肥薩線1223D キハ31 12

撮影(海路):
※車両表記は左が八代方
1224D[819] 普通列車 キハ140 2039

海路830 → 渡901
肥薩線1225D キハ140 2125

撮影(球磨川第二橋梁):
1081D[953] 特急くまがわ1号 キハ185+キハ185 16
1074D[1017] 九州横断特急4号 キハ185+キハ185 16
8241レ[1158] SL人吉 オハフ50 702+オハ50 701+オハフ50 701+58654
1227D[1211] 普通列車 キハ31 12

渡1243 → 球泉洞1258
肥薩線1228D キハ31 12

球泉洞観光

球泉洞1424 → 白石1430
肥薩線1230D キハ40 8102

撮影(白石):
8242レ[1523-1528] SL人吉 58654+オハフ50 702+オハ50 701+オハフ50 701
1231D[1526-1527] 普通列車 キハ31 12

白石1535 → 球泉洞1545
一勝地タクシー 熊本500あ2623

球泉洞1601 → 人吉1622
肥薩線1073D 九州横断特急3号 キハ185 1008

人吉1709 → 吉松1809
肥薩線1257D キハ31 12

吉松1828 → 嘉例川1902
肥薩線4237D キハ40 2068

嘉例川 → 鹿児島空港
妙見タクシー

鹿児島(KOJ)2035 → 東京・羽田(HND)2215
ソラシドエア82便(SNA082)

球磨川に寄り添って
八代を出た肥薩線は、悠々と流れる球磨川に沿って内陸へと分け入ってゆく。国鉄の遺産、キハ31の単行列車である。この時間帯、深い谷間にまだ日は差し込まない。瀬戸石で長停し普通列車と九州横断特急と交換した後、次の海路で列車を降りた。この一帯、すなわち瀬戸石、海路、吉尾と続く区間には球磨川に架かる橋がなく、対岸の人吉街道から隔絶された静かな世界が広がっている。

朝の海路は、幻想的な風景であった。山並みに切り取られた朝の太陽光線が、陰影のついた幾多もの平行線となって谷間を斜めに横切る。川面にはさざ波が煌めき、日の昇り始めた空を映して淡い灰色に光っている。駅のすぐ近くにある海路の集落は球磨川に注ぐ沢を囲む形でひっそりと佇み、まるで山と川が織りなす世界にぽつんと区画された小さな庭園のようだ。しかし、空家や廃屋が目立つ。人はあまり住んでいないらしい。また少し奥には海路小学校の建物があるが、既に廃校になったと見える。しかし荒廃している感じはないので、もしかしたら地域の集会所のような形で利用されているのかもしれない。

突如として現れたのは、キハ140の単行列車であった。まさか肥薩線でキハ40系列に会えるとは思っていなかったので、驚いた。アイボリーの下地に青い帯を纏う九州カラーは、深い山の緑、そして澄んだ空の色に実によく映える。そして川沿いを去りゆく後追いの構図は、絵画のような風景である。轍の音が谷に反響し、まるで列車が対岸を走っているかのような錯覚に陥る。わずか1時間足らずの滞在ではあったが、南部とはまったく異なる表情の肥薩線を楽しむことができた。

球磨川第二橋梁
次の下り列車で渡へ向かう。嬉しいことに、観光列車いさぶろうの車両であった。普通列車でも運用されているらしい。日はずいぶんと高くなり、いよいよ暑くなってきた。まずは食料調達のため、渡で下車後コンビニを目指して西人吉方面へ20分ほど歩く。ところが、まさかの改装中。完全に歩く修行であった。撮影地の球磨川第二橋梁は那良口方面にあるので、同じ道をとぼとぼと引き返す。幸いなことに駅から近いところに魚屋を称する商店があり、ここでパンを調達することができた。これなら始めから那良口方面に歩いていたら良かったことになるが、予習できなかったものは仕方ない。

縦構図で橋梁を正面打ちする場所は、橋のたもとの集落を奥まで進んだところにある。かなり狭い場所で、ベストの構図を作るのであれば2人くらいが限界だろうか。今回ばかりは三脚を構え、画面を固める。10時前後に特急くまがわと、その返しの九州横断特急が通過して以降は、1時間40分もの待ち時間である。日陰でパンを食べながら、ただただ座って時が過ぎるのを待つ。日陰といっても、正午が近付くにつれてトップライトが厳しくなり、どんどん日なたになっていく。関東は台風で暴風雨のようだが、こちらの空は晴れ渡り、日差しが容赦なく照りつけてくる。

山間に汽笛一声。赤いトラス橋が織りなす美しい幾何学文様の向こう側に、8620形が姿を現した。こういう瞬間は、本当に無心になる。一切の障壁を介さずに外界と自我がぴったり接触する感覚である。はっと我に返ったのは、連写をしすぎて書き込み速度のキャパオーバーになり、押し込んだシャッターボタンが反応しなくなった瞬間であった。「えっ」と思ったが、それでも辛うじて残り数枚は撮れた。とにかく、鉄のトンネルの中をこちらに向かって突き進んでくる機関車が、刻一刻と表情を変えてゆくさまを、忘我の境地で素子に焼き付けていったのだ。自我の制御の範疇を超えて、脳と身体が勝手に動いていたようにも思える。しかし機関車が橋を渡り終えたその時、ようやく、ようやく正気に戻って1/500秒間の対面ができた。このために、今日はここまで来たのだ。やはり、鉄道撮影はやめられない。

球泉洞
SLの後を追ってくる副産物のキハ31普通列車を撮り、駅へ戻る。そして人吉で折り返してきた同じキハ31に乗り、今度は球泉洞へ向かう。撮影の合間に鍾乳洞を探訪するというプランである。当初は駅から歩く予定であったが、送迎サービスがあるようなのでこれを利用してみる。駅に書いてあった電話番号にかけると、軽自動車で迎えに来てくれた。乗ってみると、意外にも遠い。しかも当初歩く予定だった対岸の旧道はもはや廃道になって使われておらず、少し遠回りして新道の球泉洞トンネルを通って到着となった。これは歩いていたらまた修行になるところだったかもしれない。

鍾乳洞はやはり面白い。毎回毎回、しつこいくらいにこの例えを使っているが、水のしたたる石灰岩の岩肌はまるで生きた腸管粘膜のようだ。見れば見るほど、質感がよく似ている。そして天井からぶら下がる無数の鍾乳石、地面に生えている数多もの石筍。これらも、まるで小腸の内腔面をぎっしりと埋め尽くす顕微的な絨毛構造を間近で見ているかのようだ。ぽたぽたと水の滴る音、足下を轟々と流れゆく地下水の川は、粘膜から分泌される消化液か、それとも管壁の奥深くを走るリンパ流か、血流か。そう考えると、あたかも生体の中を歩いて探索しているかのような気分になる。これはただの洞窟ではない。もはや組織(tissue)、そして器官(organ)と呼んでもおかしくはない。人知を超越した時間の流れの中、組織学的(histological)な構造と、生理学的(physiological)な営みが脈々と受け継がれてきたことが感じ取れる。まあこの文章だけを読むと、自分はいかにも頭がおかしい人間に思われるかもしれないが、しかし実際に鍾乳洞を歩いてみると、本当に自然の摂理が生み出すものの共通性を随所に実感するのだ。

白石
球泉洞から1駅、白石駅に降り立った。上りのSL人吉はここで迎え撃つ。夥しい数のトンボが景色の中を飛び交う中、列車は重たい足取りでゆっくりと入線してきた。3両の客車のみを従えた小ぢんまりした編成だが、車齢90年を超える老機関車の貫禄は十分すぎるほどだ。そして、ゆっくりと停止した。シューシューという息づかいが聞こえてくる。停車時間は5分。この5分の間に、一瞬一瞬の絵をどれだけ切り取ることができるか。

やがて列車からは人が降りてきて、記念撮影を始めた。3分後、人吉行の下り普通列車が入線。脇役、キハ31である。風景は刻一刻と変わる。一つとして同じ風景はない。そして、ひとたび過ぎ去った一瞬はもう二度と戻っては来ない。機関車から吐き出される煙の表情も、一刹那ごとに全く異なるものへと変貌してゆく。15時26分、優しく煙を吐き続ける機関車、淡い反照を映す客車、逆光に映える桜の木、ぽつんと佇む下り普通列車。やがて構内は白煙に染まりゆく。やはり忘我の境地でシャッターを切り続ける。辺りを飛び交うトンボをかわすため、連写は欠かせない。

そして発車時刻。今まで穏やかに吐き出されていた煙は一転、みるみるうちに質量感のある重厚な黒煙となって空高く噴き上がった。縦構図の画面いっぱいに広がる煙の輪郭、そして陰影が、夕刻の斜光線に照らし出されてくっきりと浮かび上がる。煙とは、ここまで美しいものなのか。じきに雲散霧消する運命にありながら、光線の力を借りて束の間の華やかな姿を体現する。それは、ほれぼれするような造形であった。ドレーン解放、力強いドラフト音。「ボッ、ボッ」という重たい音響が間歇的に空気を震わせる。どす黒い煙が煙突から吐き出されると同時に、ロッドがゆっくりと往復し、動輪は鉄路を踏みしめてゆく。蒸気機関車は生きている。強靱に生きているのだ。

列車が去った後の駅は、何ごともなかったかのようにもとの静寂を取り戻した。かすかな残り香と、白い煙幕の残骸。5分間とは思えないほど、長い5分間であった。感覚は永遠の記憶となって、脳に刻み込まれる。

帰路
午前中の空路2便は台風の影響で欠航になったようだが、どうやら午後からは遅れながらも飛んでいるらしい。本当に運が良かった。白石駅は、撮影行のクライマックスにして、行程の分水嶺でもあった。夜の便まで欠航が決まれば、SLの後を追う普通列車で新八代まで出て、九州新幹線、山陽新幹線、東海道新幹線を延々乗り継いで今日中に帰京するプランが待っていた。しかし、この様子だとその必要はなさそうだ。予定通り、タクシーを呼んで隣の球泉洞まで1駅戻る。白石には停まらない九州横断特急で人吉まで出た。

人吉から先はまたもやキハ31 12。球磨川第二橋梁でも白石でも登場し、本日大活躍である。吉松までの区間は極めて険しい山岳地帯で、よくぞこんなところに鉄道を通したものだと思う。SL時代はきっと凄まじい輸送風景が日々繰り返されたことだろう。単行列車はエンジンを唸らせながら坂を這い上がっていく。途中には大畑、矢岳、真幸の3駅しかないが、終着までは60分もかかる。大畑、真幸は有名なスイッチバック駅でなかなか面白い。また、日本三大車窓の一つに数えられる矢岳~真幸間の車窓は、淡い黄昏の空に包まれたえびの高原と霧島連山の絶景であった。遠くには煙を吐く桜島もぼんやりと見える。一日の締めくくりにふさわしい、心にしみ入る車窓であった。

乗車券は「西大山→嘉例川」。旅の終着駅は、あの嘉例川である。吉松で隼人行きに乗り換え、温かい白熱灯にライトアップされた夜の嘉例川駅に降り立った。ここから空港まではタクシーでわずか10分ほど。最後の時間は、木造駅舎の温もりの中で過ぎていった。

写真
1枚目:球磨川の流れとともに(@瀬戸石~海路)
2枚目:産業遺産のトラス橋を渡る(@那良口~渡)
3枚目:夕刻の小休止(@白石)

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南九州撮影行 2日目
南九州撮影行 2日目
南九州撮影行 2日目
薩摩の地を走る国鉄型気動車。
9/15
山川615 → 西大山626
指宿枕崎線5321D キハ40 8056

撮影(大山~西大山):
※車両表記は左が鹿児島中央方
1328D[707] 普通列車 キハ47 8051+キハ47 9097
5323D[729] 普通列車 キハ40 8063
5322D[832] 普通列車 キハ40

西大山829 → 指宿916
指宿枕崎線5324D キハ40 8063

指宿940 → 宮ヶ浜947
指宿枕崎線1336D キハ47 131

撮影(薩摩今和泉~宮ヶ浜):
1329D[955] 普通列車 キハ47 or 147+キハ47 or 147
1338D[1017] 普通列車 キハ40 8063+キハ40 8056
1331D[1024] 普通列車 キハ200+キハ200
3071D[1039] 特急指宿のたまて箱1号 キハ140 2066+キハ47 9079+キハ47 8060
3072D[1100] 特急指宿のたまて箱2号 キハ140 2066+キハ47 9079+キハ47 8060
1333D[1106] 普通列車 キハ47 8124+キハ47 9078

宮ヶ浜1126 → 薩摩今和泉1130
指宿枕崎線1340D キハ200-1010

撮影(生見~薩摩今和泉 インカーブ):
1335D[1148] 普通列車 キハ147 105+キハ47 9046

撮影(生見~薩摩今和泉 S字カーブ):
1342D[1223] 普通列車 キハ147 30+キハ147 1055
3073D[1236] 特急指宿のたまて箱3号 キハ140 2066+キハ47 9079+キハ47 8060

撮影(生見~薩摩今和泉 ストレート):
1337D[1257] 普通列車 キハ47 or 147+キハ47 9097
3074D[1306] 特急指宿のたまて箱4号 キハ140 2066+キハ47 9079+キハ47 8060

撮影(生見~薩摩今和泉 俯瞰):
1344D[1347] 普通列車 キハ147 105+キハ47 9046

観音崎1407 → 蛸山1440
鹿児島交通バス 鹿児島200か1437

撮影(平川~瀬々串 海岸線その1):
1341D[1445] 普通列車 キハ47+キハ47

撮影(平川~瀬々串 錦江湾バック):
1346D[1519] 普通列車 キハ47 8124+キハ47 9078
1343D[1530] 普通列車 キハ147 105+キハ47 8046
3076D[1540] 特急指宿のたまて箱6号 キハ140 2066+キハ47 9079+キハ47 8060
343D[1549] 普通列車 キハ200-1503+キハ200

撮影(平川~瀬々串 海岸線その2):
344D[1619] 普通列車 キハ200-1503+キハ200
1347D[1631] 普通列車 キハ47+キハ47

平川1652 → 喜入1704
指宿枕崎線345D キハ200-9

撮影(喜入~前之浜):
1352D[1752] 普通列車 キハ47 8051+キハ47 9097
1349D[1757] 普通列車 キハ200+キハ200
1354D[1814] 普通列車 キハ147 105+キハ47 9046

喜入1835 → 鹿児島中央1919
指宿枕崎線350D キハ200-1502

鹿児島中央2053 → 新八代2138
九州新幹線5414A さくら414号 788-7019

新八代泊(東横イン)

日本最南端駅へ
撮影行の朝は早い。この世界でも「早起きは三文の得」とはよく言われる格言のようで、典型的な例としては早朝の時間帯に貨物列車や夜行列車が立て続けにやってきたり、特殊な列車運用があったりする場合が多い。ただし今回の「得」はもっと地味なもので、山川以西の区間で3本の列車を撮ることができるというささやかな楽しみである。山川~枕崎間は鹿児島中央~山川間に比べて極端に本数が少なく、日中は5時間以上列車が来ない時間帯もある。しかし早朝は比較的本数が密なので、開聞岳バックの有名撮影地で朝の撮影を楽しめる。

日本最南端の駅、西大山から歩くこと25分ほど、跨線橋からストレートの線路を小俯瞰する撮影地に到着した。背後には雄大な開聞岳の山容。稜線の左手奥には東シナ海が小さくのぞく。開聞岳は本当に美しい山で、左右対称で均整のとれた姿は薩摩富士の名にふさわしい。70年近く前、知覧を離陸した数々の特攻隊員は、ランドマークたるこの開聞岳を横目に故郷に別れを告げながら東シナ海へ針路をとり、死出の旅路についたという。沈黙した山が泰然と居座る景色の中、列車はまぶしい朝日を一面に浴びて、トコトコと指宿枕崎線の鉄路を踏みしめてゆく。

宮ヶ浜
西大山の駅に戻ると、車でここまで来たと思しき観光客でにぎわっていた。その多くは、列車がこの時間に来ることを知らなかったようである。列車に乗り込んだのは我々を含めたったの3人であった。指宿では少し時間があったので、駅撮りを楽しむ。ちょうどキハ40どうしの連結作業が行われ、構内には2編成のキハ40系列が停車中。快速なのはなを先に見送り、後を追う普通列車で指宿を去る。3月の鹿児島旅行の日記を見返してみたら、当時と同じ列車であった。そういえばあの時は、なのはなにぎりぎり間に合わず、後続の普通列車で鹿児島中央まで向かったのだった。

錦江湾に面した宮ヶ浜という駅で列車を降りる。今日の撮影は、ここから急に忙しくなる。西大山の撮影地では1時間以上の待ち時間があったというのに、指宿以北では、上下線を合わせると10~20分か場合によってはそれよりも短い間隔で列車がやって来るので、1本ごとに微妙に場所を変えるとなるとかなり慌ただしい。防波堤からの望遠、漁港の突堤からの側面打ちを中心に、1本ごとに画面を作っていく。しかし障害物が予想外に多く、それらを上手い具合にカットするのになかなか骨が折れる。さらに台風が接近しているとあり、空は晴れて日差しは燦々と降り注いでいるものの、海はだいぶ荒れていた。

風の試練
昼前の列車で一駅隣の薩摩今和泉へ向かう。生見方面へ歩いたところにある築堤のインカーブで下り列車をしっかり押さえた後、しばしの昼休みである。今日は暑いし、とにかく風が強い。日差しも強い。食料のパンをかじっていたら、何やら切り口に黒い粒がついている。バニラビーンズでも入っているのかと思いきや、地面に置いていた荷物はいつの間にか一面にカビが生えたかのごとく埃をかぶっていた。分かった、これは火山灰だ。南東の海上に台風がいるということは、今日の薩摩半島には強い北風が吹くということになる。今まさに、桜島から運ばれてきた火山灰をかぶっていることになる。

S字カーブの後追いで海側にカメラを振ったとき、レンズをやられてしまった。灰は常に飛んできているわけではなく、大量の灰が時おり突発的に運ばれてくるようだ。実にタイミングが悪かった。しかし画面に影響はなさそうなので、レンズは後で屋内へ入ったときにクリーニングするとして、とりあえずサングラスに帽子をかぶり、それに濡れタオルを巻いて口と鼻を覆う。異様な出で立ちになりつつも撮影を継続し、予定通り歩いて観音崎に到着した。ここでは踏切からの標準的なストレート、それに後追いと、トンネルのポータル上からの俯瞰撮影を行った。いかにも九州の残暑といったような画面が出来上がる。

錦江湾
指宿枕崎線は事前にキハ40系列の充当列車を徹底的に調べ上げていたが、今のところ読みは外れていない。今日の撮影スケジュールはキハ40系列を中心に組まれていて、とにかく貪欲に、1枚でも多く新しい絵を作ることを目指している。普段ならそこで出てくるのは「撮ったら乗れない、乗ったら撮れない」という徒歩鉄特有のジレンマだが、しかしこれを解決するのは他ならぬ路線バスである。鹿児島交通のバスが絶妙なタイミングで走っているので、これに乗って喜入を通り越し、平川~瀬々串まで一気に向かった。

下車したのは蛸山というバス停。海のすぐ近くにある駐車場から、頴娃街道と並走する指宿枕崎線の列車をとらえることができる。ここは風の強さがとくに異常で、立っているのがやっとくらいであった。思えば、東北では雪に埋もれ、あられに打たれ、豪雨に濡れ、そして九州では風に吹かれ、火山灰にまみれ、日差しに焼かれてと、これまで数々の過酷な撮影を経験してきたわけだ。

その後、俗に「そば屋カーブ」と呼ばれているらしい有名撮影地へと移動する。道が非常に分かりにくかったが、ここでもGPSが役に立った。5月に移行したスマホの利便性をつくづく実感する。もはや旅行に地図は不要なわけだが、しかしこういう便利な機能ばかり使っていてはどんどん思考力が低下し、いずれ紙の地図が読めなくなる日が来るのではないかと、少し不安になる。この有名撮影地は錦江湾をバックにして、右奥から曲がってきた列車を正面からとらえる場所である。しかし周囲の樹木の生長が著しく、どう頑張っても教科書的な構図にはなりえない。それでも、欄干の柵に足をかけて高さを稼いだり、構図を研究してなるべく障害物をカットして、何とか撮影。ここも風がとにかく強く、線路に転落する恐怖と背中合わせであった。しかし、コバルトブルーの海を背景にカーブを曲がる列車は、やはり美しい。有名撮影地には有名撮影地たるゆえんがあるのだ。

そして特筆すべきは、特急指宿のたまて箱。3月の鹿児島旅行で初めて見たときには実にとんでもない車両だと思ったが、改めてファインダー越しに対面してみると、じわじわ訴えかけてくるものがある。屋根にまで伸びる正中線ですっぱりと左右に分割された塗装は、もちろん奇をてらった部分もあるのだろうが、しかし白と黒、光と影、正と負、陽性と陰性といった相克する二面性を見事に体現しているように思える。人間を含めあらゆるものの中に潜むこの二面性が、容赦なく見せつけられているかのようだ。

4本を撮影した後は近くの浜辺へ降りた。沖合にはたくさんの船が見える。喜入に石油備蓄基地があるためか、タンカーが多い。離島から帰ってきたと思しきカーフェリーもある。西日に染まりゆく浜辺でのんびりとしながら、オマケのような撮影を行った。

夕刻の喜入
本日最後の撮影地は、喜入近くの水田地帯である。夕刻の斜光線に染め上げられた金色の稲穂を絡めて、3本の列車を撮影した。日中こそ暑かったが、このくらいの時間帯になると、心なしか風は秋を感じさせる。逆光に映える野焼きの煙、黒い稜線へと沈んでゆく橙色の太陽。どことなく漂う寂寥感に身を包まれ、一日が終わってゆく。早朝に朝日を浴びた開聞岳を撮っていたのが、はるか昔のことのようだ。灼熱の宮ヶ浜、白昼の火山灰、吹き荒れる強風。いつも黄昏時になると、意図せずともその日の出来事が回想される。そうして一日を回想し、非日常を回想し、やがては日常も非日常もひっくるめた全ての時間を回想し、新たなる明日が形作られてゆく。それはまるで、極めて複雑な漸化式に従って生きているかのようだ。

新八代へ
「わっぜえか丼」という独特の料理を鹿児島中央で食べた後、九州新幹線に乗り込んだ。そういえば、鹿児島本線の八代~川内はだいぶ昔に第三セクター化されてしまったのだった。あれは中1の夏だったか、まだこの区間が鹿児島本線だった頃、車窓から見た水俣の海、夏の不知火海が素晴らしく美しかったことは、今でもよく覚えている。新幹線は無情にもトンネルで内陸を貫き、ぐいぐいとスピードを上げていく。

写真
1枚目:開聞岳に抱かれて(@大山~西大山)
2枚目:錦江湾沿いを走る(@平川~瀬々串)
3枚目:黄昏時(@喜入~前之浜)

5555文字
南九州撮影行 1日目
南九州撮影行 1日目
南九州撮影行 1日目
南九州へ飛ぶ。
9/14
東京・羽田(HND)820 → 鹿児島(KOJ)1005
ソラシドエア71便(SNA071)

鹿児島空港 → 撮影地
妙見タクシー

撮影(中福良~表木山):
※車両表記は左が八代方
4224D[1049] 普通列車 キハ40 8050
4229D[1115] 普通列車 キハ140 2061

撮影(表木山):
4226D[1159-1208] 普通列車 キハ140 2061
6021D[1207] 特急はやとの風1号 キハ147 1045+キハ47 8092

撮影(表木山~日当山):
4231D[1242] キハ47 8158+キハ47 9077

表木山1311 → 大隅横川1337
肥薩線2930D キハ47 8158

撮影(栗野~大隅横川):
2929D[1414] 普通列車 キハ40
6024D[1442] 特急はやとの風4号 キハ147 1045+キハ47 8092

大隅横川1520 → 栗野1530
肥薩線4228D キハ147 106

撮影(吉松~栗野):
4233D[1552] 普通列車 キハ147 106+キハ40 2068
4235D[1642] 普通列車 キハ140 2061
2934D[1705] 普通列車 キハ47 8126+キハ147
4230D[1755] 普通列車 キハ147 106+キハ40 2068

栗野1837 → 隼人1921
肥薩線4237D キハ47 9077

隼人1938 → 鹿児島中央2021
日豊本線・鹿児島本線6961M クハ816-1006

鹿児島中央2040 → 指宿2147
指宿枕崎線1361D キハ200-7

今村温泉入浴

指宿2304 → 山川2311
指宿枕崎線1363D キハ200-10

山川泊(くりや)

突如、非日常へ
南国の空港に降り立ってから1時間と経たないうちに、我々は山間の撮影地でキハ40の単行列車をファインダー越しに覗いていた。九州の地はまだまだ暑い。しかし、稲刈り間近の田んぼの脇に咲くヒガンバナは9月を告げている。

空港を出てすぐタクシーに乗り、中福良駅方面へ向かうようお願いした。「嘉例川の方へは立派な道があって何回か行ったことあるんだけど、中福良は分からないなあ」とのことだったが、GPSを頼りにまずは空港の裏側へと回ってもらう。滑走路をくぐってしばらく走るといきなり牛舎が姿を現し、道路は農道のような狭さになった。しかし地図の示す通りに暗い林の中へ入り、ぐにゃぐにゃと曲がる狭隘な山道を下っていく。空港から5分と経たないうちにこんな山奥に来てしまった。やがて、肥薩線の線路が姿を現した。少し中福良方面に向かうと景色が開け、アウトカーブの鉄路が山間部の水田地帯を優雅に横切っている。ここはもう、撮影地だ。タクシーが行ってしまうと、そこにはただ九州の暑い9月の風景が広がるのみであった。空路で鉄道撮影に行くのは初の試みであったが、それにしても、まさかここまで唐突に非日常に放り込まれるとは、本当に驚いた。

今回の撮影行は、英国から帰国した日の夜に急遽決定したものである。九州のキハ40系列の姿を収める、またとない機会だ。思い立ったときに動かねば永久に悔いが残ってしまう。残席数わずかだったソラシドエアの学割を早速確保したのであった。

表木山
アウトカーブの撮影地で単行2本を撮った後は、表木山へ移動する。時おり雲の奥から聞こえてくる轟音は、鹿児島空港に発着する飛行機の音である。ひとつ山を隔てたところに空港があるわけだが、そんなことなど想像もつかないような風景である。表木山駅は草むした線路が印象的な山間の小駅。深緑色の森をバックにして、緑の絨毯の上にぽつんと佇む単行列車の姿は絵になる。特急はやとの風は漆黒の塗装を見に纏う重厚な出で立ち。普通列車と交換した際、黒光りする側面に九州カラーがぎらりと映り込んだのは意外な美しさであった。日当山方面に少し歩いたところにある切通し地点で下り列車を撮った後、列車で移動する。

大隅横川
この駅は嘉例川と並ぶ、鹿児島県内最古の木造駅舎である。柱には、太平洋戦争中に受けた機銃掃射の跡が残されている。駅舎はなかなか立派な造りで、肥薩線の雰囲気に実に良く合っている。駅から栗野方面へ歩くこと30分、湧水町に入る。本当はトンネル飛び出しの構図を狙ってここまでやってきたのだが、どう見ても線路に近づけるような場所ではなく、やむなく跨線橋から俯瞰することになった。これはこれで深い山奥のような雰囲気が出て面白い。しかし、気温が最も上がる時間帯にてくてく歩いてきたため、ずいぶんと体力を削がれた。コンビニで2リットルのグリーン・ダカラを買って、水分補給を行う。

川内川橋梁
本日最後の撮影地は、吉松~栗野間の川内川橋梁である。至ってシンプルなガーダー橋だが、1両や2両の列車を収めるのにはちょうど良い。撮影したのは計4本。1本目は並走する道路橋から側面を狙い、2本目は吉松側のたもとから列車を見上げた。3本目はやはり橋のたもとから、今度は線路と同じ高さで構えてみたものの、背景はごちゃごちゃで、2両編成はずでーんと斜めに間延びするという、まるで中学生の鉄道写真みたいになってしまった。最後の列車は外せないということで、今度は栗野側のたもとから俯瞰する形で後追いに懸ける。日没が近くみるみるうちに太陽光が弱まっていく中、通過直前まで色彩と露出を調整して何とか思い通りの一枚になったか。この報われた感じがあるからこそ、鉄道撮影は面白い。

指宿へ
今晩は山川に宿を取っている。黄昏の栗野駅から「栗野→西大山」の学割乗車券を使い、ひたすら薩摩半島を目指して南下していく。すでに車窓は一面の闇。今日一日の撮影を振り返りながら、しばしの愉悦に浸る。鹿児島空港は、市内に出るのであれば不便な立地なのだろうが、肥薩線の撮影を行うのであればこれほどアクセスの良い空港はない。今朝はまだ東京にいたとは思えないほど、効率の良い撮影プランであった。鹿児島中央で駅弁とビールを買い、指宿枕崎線の車内でささやかな酒宴を楽しみつつ、山川の一つ手前、指宿で列車を降りた。

ここで降りたのは、今村温泉なる銭湯に入浴するためである。山川の宿は既に入浴時間が終了しているため、指宿の銭湯に浸かってみることにした。しかし下調べによれば、ここは恐ろしく古い銭湯のようだ。真っ暗な夜道を数ブロック歩いていくと、銭湯は忽然と姿を現した。白熱灯に照らされた玄関だけが闇に浮かび上がっている。脱衣所の様子はとても21世紀のものとは思えず、備え付けのマッサージチェアや体重計はもはやアンティークの域に達している。浴場は誰もいないかと思いきや、地元民と思しき人々がかわるがわる出入りしていた。ここも凄まじい古さで、ボロボロの鏡、見たことのないような旧式の蛇口など、至るところに時代を感じる。「昭和中期の生き残り銭湯」と評されるのにも非常に納得が行く。お世辞にも衛生的とは言えないが、さすが温泉自体はかなりの浸かり応えがあった。不思議と、今日一日の筋肉疲労が癒されていくかのようだ。昔から指宿の地元の人々に愛され、今も変わらず生き続ける銭湯。今宵、身をもって体験したのは貴重な機会であった。

夜も更ける頃、山川駅に降り立ち、駅からすぐのところにある旅館に入る。安いだけあってトイレも水道もない殺風景な8畳部屋だが、到着が遅く出発が早い今回のスケジュールにはぴったりの宿。何とエアコンが有料だったので、網戸にして扇風機をかける。暑いかと思ったが意外とそうでもなく、あっという間に深い眠りに落ちていった。

写真
1枚目:稲穂を横目に(@中福良~表木山)
2枚目:山間部をゆく(@栗野~大隅横川)
3枚目:黄昏の川内川橋梁(@吉松~栗野)

3781文字

仙山線

2013年9月13日 大学
仙山線
仙山線
あっという間に2週目がやってくる。

整形外科
1週目にそこそこ頑張ってレポートを書いたからだいぶ楽かと思いきや、自分は今週に外来のレポートを書かねばならない上、試問やらOSCEやらもあるのでその勉強もしなければならない。まあ勉強というよりは「対策」という言葉が正しい。しかし、この2週間で本当に整形外科の実用的な知識が身についたかと言われれば、まだまだ不十分な感がある。肩関節については異様に詳しくなったものの、たとえば脊椎とか股関節とかは最低限しか分かっていない。国試的な疾患のキモどころも押さえられていない。結局のところ、与えられたことしかやらず自主的な勉強をしていないからなのだが。

ここは他とはある程度独立した科である上、頸から下のすべての領域を扱うので、それぞれでかなり専門化しているといえる。言うなれば「上肢外科」とか「下肢骨盤外科」とか「脊椎外科」とかを全部まとめて「整形外科」と呼んでいる感があるw たぶん整形外科医にはならない気がするが、全体を通して見ればなかなか面白い2週間であった。

学部練習
火曜日は久々に弓に触れた。8月8日、東医体の大止めが6時にズシャって以来、弓をひいていなかったので、実に一か月以上空いたことになる。全ての感覚が忘却され、筋力も少なからず減退し、一体どうなるのかと思ったが、最初の数本こそヤバい感じではあったものの、意外と普通にひけるw いやしかし、久しぶりに弓をひくとやはり楽しい。的前に立ち、的に正対して、色々な運動や力学を考えながら体を動かすという楽しみを再認識した。

木曜はアメ留の報告会に参加して情報を収集する。応募用紙の締切が再来週に迫っているので準備をしなければならないが、空き時間は8月分のためた日記の処理やら、三連休の旅程の詰めやらに消費することとなった。

写真:仙山線普通列車@山寺
俯瞰撮影ができます。しかし被写体が銀色なのでどうも景色に映えない。ゲレンデ蔵王の583系だったら面白かったかもしれません。

945文字

眺望

2013年9月8日 日常
眺望
眺望
ゆうべの二次会を引きずって、午前中は部屋の掃除と仮眠。午後はいつものように代々木を往復する。そして帰り際、二つ返事で「やります」と言ってしまった。当初、発表を行うつもりは全くなかったが、やる流れになってしまったw まあ自らに試練を課すのは必ずしも悪いことではないし、何よりプレゼンの練習にもなりそうなので、ここはひとまず頑張ってみることにしよう。それに、色々な予定が立て込んでいた方が、日常はスムーズに回転するというものである。

写真:山寺
五大堂からの眺望。山寺駅と、仙山線の列車が眼下に見えます。

286文字

立石寺へ

2013年9月7日 弓道
立石寺へ
立石寺へ
立石寺へ
今週は整形外科のポリクリと、循環器QBといったその他の自習で何となく終わってしまった。唐突に降ってきた代々木の仕事も片付いたので、ゆったりとした週末の到来である。休みになった途端、何もせずぐだぐだと過ごしてしまう。

主将交代式
夕方は外苑前にて主将交代式を開催して頂いた。有能で優しい多くの後輩に恵まれ、嬉しい限りである。就任から一年、個人的には長い一年であった。「部活動は部員の高度な自主性のもとに成り立つ」という提言を行い、各人が明確な目標を設定して練習に取り組む環境を整備しようと思った矢先、例の問題が発生した。学生課をはじめ各方面と調整を重ね、部報として記録を残し、幹部と相談する日々が慢性的に継続し、現在の状況に落ち着くまでは半年以上を要したように思う。とくに年明けからの苦労は本当に激烈で、ひとつ下の幹部諸君の協力なくしては職務が全うできなかった。そして、幹部学年体制の見直し。この機会を逸してしまっては後輩全員が不幸になると考え、春先から徐々に準備を進めてきた。どうしても当該の立場にならないと分からないことがある。まさに自分が提案すべき制度変更であった。

環境は劇変した。本当に劇変した。この一年は、今後しばらくの間の「型」を作るための一年であった。「当たり前のことを当たり前にやる」というのがどれほど難しいことなのかを改めて思い知らされたわけだし、伝わったかどうかは不明だがそれを今日のメッセージとしても提供した。あとはこの「型」をベースに脈々とわが部の伝統が継承され、制約条件の多い中でもさらなる進歩と発展を遂げることを願うばかりである。自分も、その努力の一環に可能な限り参画して、これからの様子を見守っていきたいと思う。

新主将、新副将と共に夜を明かす。

写真:山寺
雪の積もった山道をせっせと登り、頂上に到達。

840文字

閑さや

2013年9月6日 大学
閑さや
閑さや
一か月前のことを書くとなると、もはやあまり鮮明に覚えていない。記憶は褪色していく。面白いのは、時間が経つほどに熟成されていく記憶もあれば、陳旧性心筋梗塞のように線維化してしまう記憶もある。

整形外科
整形外科の試験は前日からデュプロを読み始めて通したというひどい有様だったので、もはや何も知識が残っていないw 一応週末に診察手技のビデオは視聴して、ノートに適当にメモを取っておいたものの、やはり主体的に勉強しないことには何も頭に入ってこないことを痛感する。まあしかし、3年前にひたすら勉強させられた解剖学と最もリンクした内容でもあるから、興味は持てる。おまけに上肢班に配属されたので、とくに肩の解剖などは弓道との関連が感じられて面白い。

月曜はいきなり予診をとり、急激に「緊張感」の世界に引き戻される。東医体後、あまりにぐだぐだしていたせいか。しかし、これぞポリクリという感じがあって良い。水曜は関節鏡手術に入る。当たった指導医の先生が実に丁寧で良かった。整形のポリクリはクルズスというクルズスがないが、レポートにそれなりの労力を使う。せっかくなので、Campbellの手術書を原書で読むという試みもやってみる。

夏休みに1ページも進んでいなかったQBを再開することにした。循環器が厚過ぎて心が折れる。内科は、血液、リウマチ、内分泌、消化器がまだどっさりと残っているorz

写真:山寺
登山道の入口にある、芭蕉の句碑です。

684文字

山寺駅

2013年9月1日 日常
山寺駅
気が付けば9月。主将資料の作成が終わったかと思いきや今度は代々木の仕事が降ってきたので、その処理に追われる。さすがに一日で終わらせるのは無理だったので、また平日に行くとしよう。昨年も一昨年も担当した内容とはいえ、要領をつかむまではなかなか大変である。そろそろ本格的に火を入れていかないと、明日からの日常が回らない。

写真:山寺駅
夕方まで暇だったので、山寺を観光することにしました。

227文字

左沢線

2013年8月31日 日常
左沢線
左沢線
飲みすぎた翌日は、午前中の作業効率がだいぶ低下する。どうもまだ夏休みの気分から抜け切れていないというか、ぼーっとしているとすぐに時間を無駄にしてしまう。今日は主将資料の最終仕上げに取り掛かり、準備を整える。

写真:左沢線普通列車@左沢
寒河江にある古澤酒造を訪れるべく、山形から左沢線に乗りました。こういう機会でないとまず乗らないと思われるので、乗りつぶしを目的に終点の左沢までやって来たというわけです。

238文字

定番構図

2013年8月30日 大学
定番構図
定番構図
ついに2学期が始動。

医療政策・管理学
これは何というか、まあ大事な内容であるというのは分かるけれども、内容はつまらない。しかし社会に目が向いているかどうかという観点からしてみると、本当に関心の高い人にとってはこれほど面白い話はないのかもしれない。

ところでこの一週間の授業中はずっと内職して「主将資料」の作成に心血を注いでいた。これまで体系だった資料がなかったことと、昨年から今年にかけて部活の環境が劇変したことを踏まえ、改めてプリントを作ることにした。

しかしこと細かに色々と書いていったら、30ページを超える大著になってしまった。授業中に限らず、それ以外のほとんどの時間もこの資料の作成に捧げたと言っても良い。まあロンドンでごろごろしている時間があったら、その時から地道に書きためておけよという話ではあるが、物事はそう上手く運ぶわけではない。あとは来週月曜、酒を飲みながら新主将にこれを引き継げば、いよいよ仕事は終わりである。

医療科学Ⅲ
法医、公衆衛生、医療政策の諸問題についてグループディスカッションを行い、それを発表するという面倒な内容。しかも学生同士で互いの評価をさせられるというシステムなので、どうもやりにくい。しかし、いきなり編成されたチームで実りのあるディスカッションを行い、当日のうちにまともな結論を出すというのは、なかなか難しい話である。

この週は月、火、水、金と飲み会が目白押しだった。肝臓が壊れるw

写真:快速ゲレンデ蔵王@山形
国鉄型車両ではこの構図をやらねば。

755文字

巨体

2013年8月25日 日常
巨体
巨体
渡英に伴う予定調整により、木曜日の代々木は今日に移動。いやしかし、何事も作業に成り下がってしまってはおしまいだとつくづく感じる。どこまでも積極的に追求していく姿勢を大切にしなければならない。

「積極的に追求していく姿勢」といえば、QBはどうなったんだw 1学期に回った科のQBを夏休み中に解き終えるという目標は虚しくもどこかへ消し飛んでいき、結局夏休み前から1ページも1問も進んでいないw 休暇であっても自分を律しながら勉強している人は本当によく勉強しているんだろうと思うと、何とも情けない気分になる。

ついに夏休みが終わってしまった。

写真:快速ゲレンデ蔵王@山形
ホームから眺める583系の巨体も壮観です。

343文字

貫通型の先駆者

2013年8月24日 日常
貫通型の先駆者
貫通型の先駆者
貫通型の先駆者
時差ボケは意外とひどくないのかと思いきや、やはりサーカディアンリズムがどこか狂っているらしく、体内時計が現実の時計から5時間ほど遅れているかのような感覚。未明3時、4時になっても不思議と眠くならず、むしろますます目が冴えてくる。さすがに夜明けまでには寝ようということで床に就くも、起床するのは10時半とか11時とかなので、最も作業効率の良い時間帯を使えないという悲しい生活である。

全医体に出場していたならば、今日明日は仙台にいたはずだ。全然違った夏休みになっていたことだろう。

(ところで、1ヶ月前を回想して日記を書いているという状況と、「いたならば」「いたはずだ」「なっていたことだろう」という過去形の表現とは、どの程度関連しているのだろうか。少し難しい。仮にこれを当日に書くならば、どれも「いるならば」「いるはずだ」「なっていることだろう」という表現になるだろうか。それだと、あまりに実況的すぎて逆に不自然ではあるまいか。いや、それほど不自然でもないだろうか)

写真:快速ゲレンデ蔵王@山形
思いがけず山形駅で遭遇した583系。その後の485系、381系、183系に継承される前面の貫通スタイル。

539文字

遭遇

2013年8月23日 日常
遭遇
遭遇
1ヶ月以上前の日記を書いていることになるので、もはや何も覚えていないw 14時過ぎに成田に到着し、都内に戻ってきたのは17時頃になるだろうか。荷解きをして、洗濯をして、写真を取り込み、カメラを手入れし、そんなこんなであっという間に夜になってしまった。

そして、9月の3連休に新たなる非日常がねじ込まれることが決定ww

写真:奥羽本線普通列車、快速ゲレンデ蔵王@山形
旅行記以外の日記に昔の写真を連載するという方式をとっていると、どんどん遅れていってしまう。2年半前の山形旅行の写真をぼちぼち再開します。まあ時間が経ってから改めて見返す写真というのは、帰った直後に見返すそれと違ってどこか熟成された懐かしさを感じるものであります。

351文字

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