3/14
横浜1555 → 東京1620
東海道本線866M サハE231-3038
東京1626 → 四ツ谷1635
中央快速線1609T 中央特快 モハE233-541
四ツ谷1637 → 信濃町1639
中央・総武線各駅停車1539B サハE230-5
換装
信濃町1707 → 新宿1713
中央・総武線各駅停車1603C モハ209-512
新宿1720 → 大宮1752
埼京線1683S 通勤快速 70-077
大宮1758 → 高崎1830
上越新幹線339C Maxとき339号 E459-217
高崎1837 → 水上1941
上越線747M クハ115-1096
水上1945 → 土樽2002
上越線8751M モハ114-1072
撮影(土合~土樽 新清水トンネル出口)
1753M[2052] 普通
2091レ[2256] 貨物
3/15
9021レ[001] 特急あけぼの
撮影(土樽)
2070レ[256] 貨物
9022レ[353] 特急あけぼの
2090レ[420] 貨物
土樽628 → 水上650
上越線1720M クモハ115-1060
水上653 → 高崎758
上越線726M 車番記録忘れ
朝食
高崎911 → 新宿1059
高崎線・東北本線・山手線[湘南新宿ライン]3120Y 特別快速
モハE230-3569
新宿1104 → 信濃町1109
中央・総武線各駅停車1014B モハE230-57
・惜別の春
横浜からは分刻みのスケジュールである。特定区間通過の特例により信濃町で途中下車し、国対部屋に戻ってスーツから着替える。予め用意してあった防水靴を履き、撮影装備を携えて、15分後に再出発。埼京線で大宮まで出てから、6分の接続で上越新幹線の自由席に乗車。この時間帯は帰宅ラッシュで全く座れず、デッキに立ちっ放しであった。高崎では7分の接続で水上行の普通列車に乗り換える。ここで無事にのすり氏と落ち合ったのであった。
あけぼの最終列車を上越線で見送る・・・大勢の人でごった返す始発の上野もそれはそれでオーソドックスな見送りの場だったかもしれない。しかし、何度となく乗った特急あけぼのだが、夜の闇を切って走るその姿を外から眺めたことは一度もなかった。上越線に入ると急に車窓が雪深くなったことや、越後湯沢の近くの大カーブでは真っ白な雪原が車内から漏れる灯りを点々と反映していたことなどは、とくに印象深い乗車体験である。雪に閉ざされて赤く明滅する小さな踏切が、その悲しげな警報音とともに一瞬のうちに後方へと飛び去っていく様などを眺めながら、深夜の上越線でこの列車を見送るとどのように見えるのだろうと、思いを馳せたこともあった。最終列車が走る今宵こそ、上越国境でその最後の勇姿を見届けようではないか。
・最後の越境
新潟はまだ深い雪の中、遠い春を待っていた。小川のようなせせらぎを奏でるスプリンクラーをまたぎながら、土樽駅の外に出る。雪の夜は、思いのほか不気味である。頭上を走る関越自動車道の高架からは轟音が響いてくる。ナトリウムランプは夜空をも淡橙色に染め上げ、いっそう気味悪い。薄く積もった雪をかき分け、橋を二回渡ってから坂道を登りつめると、撮影地に到着した。ちょうど高速道路の高架下にあたる場所で、風雪をしのげるから助かる。下り線はアウトカーブを描きながら新清水トンネルから出てくる。上り線も並行してカーブしながら清水トンネルのポータルへと消えてゆく。上越国境の長いトンネルを抜けた列車が最初に目にする景色が、この土樽の山あいなのだ。
後続の下り普通列車や貨物列車で動画撮影の練習をしているうちに、どこからともなく大勢の撮影者が集結してきた。みな考えることは同じで、最後のあけぼのを見送りに来たのだ。気が付けば3時間以上もここに立っている。来たときは真っ暗だった辺りの景色も、目が慣れたのか、よく見えるようになった。関越自動車道の高架下で暗順応のコールラウシュ点を越えるとは、なかなか面白い経験だ。
そして、ついにその時はやって来た。全員が自ずと無言になる。日付が変わって間もない午前0時1分、トンネルの内壁を照らす橙色の灯りが徐々に大きくなってきたかと思うと、2灯のヘッドライトを燦然と輝かせ、新清水トンネルのポータルからEF64率いる9021列車が突如として姿を現した。ポータル付近にはサイリュームのような灯りを振りかざしていた数名の団体がおり、機関士はそれに応えたのか、ピーッという高く長い汽笛を吹鳴した。寂しい鳴き声を国境の山あいにこだまさせながら、列車はカーブを切ってどんどん近づいてくる。ヘッドライトに照らされ、線路の周りの雪景色がくっきりと露わになる。やがてマシンガンのようなカメラの連写音が撮影地に響き渡ったが、程なくしてそれはEF64の抵抗器の轟音と客車が奏でる轍の音にかき消された。そして、眼前を幾多もの灯りが等速で過ぎ去ってゆく。青白い灯りはB寝台車の通路の蛍光灯、温かい灯りは個室寝台車の白熱灯。等間隔で客車ごとに並んでいるのは行先幕の灯り。車内をよく見ると、通路の椅子に腰かけてぼうっとしている人もいれば、興味深そうにこちらに見入っている人もいる。最終列車の中は、どのような非日常なのだろう。また今宵の旅人は、何を思うのだろう。本当に一瞬の対面であった。ジョイント音は、彼方へと消え去ってゆく。谷川連峰を穿つ最後の国境越えが、今終わったのである。
・土樽の夜
余韻に浸りながら駅へと引き返す。ほとんどの撮影者は車でどこかへ行ってしまった。土樽は駅寝が公認されている節があり、待合室には弱い暖房がかかっている。今晩も、4人の登山者が寝床を準備して寝ようとしているところであった。色とりどりの寝袋が平行に並んでいる様は、明太子を彷彿させる。あけぼのの最終列車を撮りに来た我々を見て、驚いているようだった。深夜帯もしばしばホームに出入りしたため、彼らの安眠をかなり妨害してしまったかもしれず、申し訳ない。ときどき貨物列車を撮ったり、駅ノートに落書きをしたりして、ひたすら時間をつぶす。583系のわくわくドリーム号を撮り損ねたのは不覚であった。
上りの最終列車は3時53分頃にやって来た。融雪スプリンクラーが奏でるせせらぎの中、列車はしずしずと低速で登場した。ちらちらと舞い降りる粉雪の粒子が、2灯のヘッドライトに乱反射する。いよいよ、定期のあけぼのをこの目で見るのは最後になる。カメラを回しながら、列車に大きく手を振った。意外なことに、ポッという軽い汽笛が機関車から漏れた。嬉しいことに、機関士が応じてくれたのだ。長岡から水上までの乗務と思われるが、最終列車牽引の任に就くその心境はいかなるものだろう。EF64は物言わぬ客車を後ろに連ねて、ゆっくりと土樽を通過してゆく。ゴトン、ゴトンというジョイント音の一つ一つが心に重く響き渡る。毎夜毎夜、当たり前のように繰り返されてきたこの風景も、次の晩からは過去のものとなるのだ。テールマークを寂しげに光らせて、列車は深夜の国境へと消えていった。そしてその光跡は、永久に網膜に焼き付いた。さらば、あけぼの。
自らを振り返ると、中学高校の頃から東海道ブルトレの淘汰が始まり、大学入学前の富士・はやぶさ廃止を最後に東海道・山陽筋の寝台特急は消滅した。そして今度は、北陸、能登、日本海、きたぐに。この数年で、各地を走り回っていた夜行列車が急速に姿を消している。そして最後の砦と思われたあけぼのも、今まさに終焉を迎えた。あと10年、いや5年も早く生まれていたら、どんなに時代は違っただろう。今できることは、残っている者たちの姿を、網膜の記憶として、そして脳の記憶として悔いの残らないよう心に留めていくだけである。写真も、動画も、結局は記憶を助ける付随的な手段にすぎない。ファインダーばかり覗いていては見えないこともあると、今になって悟る。全人的な感覚を大切にしながら、一期一会の一瞬一瞬に向き合って行かねばならない。
・帰路
浅い仮眠から目覚めると、辺りはもう明るくなっている。3月15日の朝だ。6時28分の一番列車で土樽を去り、水上で乗り換えて高崎まで戻る。車中はほとんど眠っていた。太平洋側はすがすがしい晴天である。燦々と朝日の差し込むパン屋で美味しい朝食をとった後、湘南新宿ラインで都内へ帰った。
写真
1枚目:9021列車(動画より)(@土合~土樽)
2枚目:9022列車(動画より)(@土樽)
3枚目:上越線115系(@水上)
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コメント
明太子のくだり、完全に不意を突かれて爆笑したww
明太子の光景も忘れられないなw
最後の汽笛が 寂しかったのを思い出します
深夜の上越国境に響き渡ったあけぼのの汽笛も、本当に寂しいものでした。