上野行の寝台特急。
・帰路
秋田を8分遅れで発車した特急あけぼのは、夜の羽越本線を南下していく。国鉄時代、特急といえばまさに特別急行、別格の列車であったと聞く。今ほど多くの本数は走っておらず、その代わり急行がたくさん行き交っていたようだ。1975年12月の時刻表を開くと、羽越本線をほぼ通しで走る定期列車のうち特急は日本海、いなほ(2往復)、白鳥の計4往復、急行は鳥海、天の川、きたぐに、羽越・あさひ(2往復)、しらゆきの計6往復である。しかし現在は急行という種別自体が消滅しかけており、羽越本線に関していえば全ての優等列車が特急いなほ(7往復)に統合されたことになる。
あけぼのは、もともと奥羽本線経由で上野と青森を結ぶ列車であった。山形新幹線の敷設と開業に伴って「鳥海」と改称された1往復が、名前を元に戻し現行のあけぼのとして走っている。運行区間が東日本の一社内で完結するうえ、高速鉄道の恩恵から隔絶された山形と秋田の日本海側を結ぶこともあってか、現在まで生き永らえてきた。しかし、ついに来年3月の改正で廃止される。車両の老朽化、というのが専らの噂である。
ゴロンとシートの通路に腰掛けてぼんやりと車内や車窓を眺めていると、客の乗降はそれなりに活発であることが分かる。羽後本荘で降りる客、象潟で乗る客、遊佐で降りる客。奥羽本線ではつがる8号、羽越本線ではいなほ14号の後に走る最終の特急として利用する人も多いだろう。そうして列車はこまめに停車しながら、日本海沿岸の町々と首都を結ぶ。この10年ほど、急速な勢いで夜行列車が姿を消している。速達性を求めるなら新幹線そして航空機の時代、また経済性を求めるなら格安高速バスの時代、蚕棚寝台に寝具とスリッパがついただけで6300円という旧態依然たる設備は中途半端な立ち位置のまま取り残されてしまった。価格設定を変えたり、ゴロンとシートの比率を増やしたりなど、まだ少し策は残っているのかもしれないが、バスより高く、新幹線や航空機よりはるかに遅い夜行列車という移動手段そのものが、時代にそぐわなくなったのかもしれない。
鶴岡を過ぎると、所々で撮影の記憶がふいに蘇る。ダイヤグラムとGPSを手にして漆黒の車窓に目をこらしていると、見慣れた景色が過ぎ去ってゆく。3月に下車した小波渡駅。不思議な形の駅舎を横目に、列車は猛然と長いホームを通過してゆく。ただの通過駅とはいっても、長大ホーム、2面3線の立派な駅が多い。さすがは羽越本線、旧国鉄の幹線である。そしてあつみ温泉を出ると、次は小岩川を通過。ここも春に訪れた場所だ。あの時もぱっとしない天気で、水平線には粟島の影が霞んでいたことを覚えている。鼠ヶ関、府屋、勝木と何度も目にした駅名が目の前をよぎっていく。そして、ナトリウムランプに浮かび上がる脇川大橋。一昨日、あそこの欄干にへばり付いて、今まさに自分が通過している線路をゆく列車を追っていたのだった。下方に目をやると、家々が寄り添うようにして寂れた集落を作っている。車窓はほぼ真っ暗だが、列車は笹川流れの海岸線を走っているらしい。しばらく回想に耽り、程よい睡魔が襲ってきた頃、列車は村上に到着した。秋田を発車して3時間あまり、日本海沿岸をひたすら南下してきたことになる。酒も回ってきたようなので、そろそろ眠りに就くとしよう。
目覚めたのは大宮を出た頃であった。車内は慌ただしく、気が付けば多くの乗客が通路に腰掛けて早朝の東京の景色に見入っていた。東北本線、京浜東北線を走るステンレス車体が否応なく目に入る。ついに戻ってきたのだ。線路は連綿と続いている。日本海の波をかぶる線路と、都心の大量輸送を支える線路群が、夜行列車を介してひとつの時間軸上、空間軸上につながった。列車は、あたかも時空間を貫く細いトンネルのようだ。鉄道旅行の面白さはここに結晶しているといっても良い。年の瀬を実感する雑踏の中、家路につく。
写真(@上野)
1枚目:夜は更ける
2枚目:上野到着
3枚目:山男、EF64 1000番台
1846文字
12/29 → 12/30
秋田2131(+8) → 上野658
羽越本線・信越本線・上越線・高崎線・東北本線2022レ
特急あけぼの オハネフ24 25
・帰路
秋田を8分遅れで発車した特急あけぼのは、夜の羽越本線を南下していく。国鉄時代、特急といえばまさに特別急行、別格の列車であったと聞く。今ほど多くの本数は走っておらず、その代わり急行がたくさん行き交っていたようだ。1975年12月の時刻表を開くと、羽越本線をほぼ通しで走る定期列車のうち特急は日本海、いなほ(2往復)、白鳥の計4往復、急行は鳥海、天の川、きたぐに、羽越・あさひ(2往復)、しらゆきの計6往復である。しかし現在は急行という種別自体が消滅しかけており、羽越本線に関していえば全ての優等列車が特急いなほ(7往復)に統合されたことになる。
あけぼのは、もともと奥羽本線経由で上野と青森を結ぶ列車であった。山形新幹線の敷設と開業に伴って「鳥海」と改称された1往復が、名前を元に戻し現行のあけぼのとして走っている。運行区間が東日本の一社内で完結するうえ、高速鉄道の恩恵から隔絶された山形と秋田の日本海側を結ぶこともあってか、現在まで生き永らえてきた。しかし、ついに来年3月の改正で廃止される。車両の老朽化、というのが専らの噂である。
ゴロンとシートの通路に腰掛けてぼんやりと車内や車窓を眺めていると、客の乗降はそれなりに活発であることが分かる。羽後本荘で降りる客、象潟で乗る客、遊佐で降りる客。奥羽本線ではつがる8号、羽越本線ではいなほ14号の後に走る最終の特急として利用する人も多いだろう。そうして列車はこまめに停車しながら、日本海沿岸の町々と首都を結ぶ。この10年ほど、急速な勢いで夜行列車が姿を消している。速達性を求めるなら新幹線そして航空機の時代、また経済性を求めるなら格安高速バスの時代、蚕棚寝台に寝具とスリッパがついただけで6300円という旧態依然たる設備は中途半端な立ち位置のまま取り残されてしまった。価格設定を変えたり、ゴロンとシートの比率を増やしたりなど、まだ少し策は残っているのかもしれないが、バスより高く、新幹線や航空機よりはるかに遅い夜行列車という移動手段そのものが、時代にそぐわなくなったのかもしれない。
鶴岡を過ぎると、所々で撮影の記憶がふいに蘇る。ダイヤグラムとGPSを手にして漆黒の車窓に目をこらしていると、見慣れた景色が過ぎ去ってゆく。3月に下車した小波渡駅。不思議な形の駅舎を横目に、列車は猛然と長いホームを通過してゆく。ただの通過駅とはいっても、長大ホーム、2面3線の立派な駅が多い。さすがは羽越本線、旧国鉄の幹線である。そしてあつみ温泉を出ると、次は小岩川を通過。ここも春に訪れた場所だ。あの時もぱっとしない天気で、水平線には粟島の影が霞んでいたことを覚えている。鼠ヶ関、府屋、勝木と何度も目にした駅名が目の前をよぎっていく。そして、ナトリウムランプに浮かび上がる脇川大橋。一昨日、あそこの欄干にへばり付いて、今まさに自分が通過している線路をゆく列車を追っていたのだった。下方に目をやると、家々が寄り添うようにして寂れた集落を作っている。車窓はほぼ真っ暗だが、列車は笹川流れの海岸線を走っているらしい。しばらく回想に耽り、程よい睡魔が襲ってきた頃、列車は村上に到着した。秋田を発車して3時間あまり、日本海沿岸をひたすら南下してきたことになる。酒も回ってきたようなので、そろそろ眠りに就くとしよう。
目覚めたのは大宮を出た頃であった。車内は慌ただしく、気が付けば多くの乗客が通路に腰掛けて早朝の東京の景色に見入っていた。東北本線、京浜東北線を走るステンレス車体が否応なく目に入る。ついに戻ってきたのだ。線路は連綿と続いている。日本海の波をかぶる線路と、都心の大量輸送を支える線路群が、夜行列車を介してひとつの時間軸上、空間軸上につながった。列車は、あたかも時空間を貫く細いトンネルのようだ。鉄道旅行の面白さはここに結晶しているといっても良い。年の瀬を実感する雑踏の中、家路につく。
写真(@上野)
1枚目:夜は更ける
2枚目:上野到着
3枚目:山男、EF64 1000番台
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