保存鉄道の旅。
・蒸気機関車の息吹
ロンドン・ヴィクトリア(Victoria)駅を出た列車は、ぐいぐいと速度を上げながら南へ向かう。1時間足らずでイースト・グリンステッド(East Grinstead)という盲腸線の終点に到着した。ここへ来たのは他でもない、ブルーベル(Bluebell)鉄道に乗りに来たのだ。東医体と利尻旅行が終わってからというもの、2、3日は抜け殻のような生活をしていたわけだが、イギリスのガイドブックをぱらぱらとめくっていて、ふと思い立った。この国には保存鉄道がある。今となっては大陸に比べてずいぶんと遅れをとり、道路網の発達や航空機の隆盛に伴って、鉄道の黄金時代はすっかり過去のものとなってしまった。それでも鉄道発祥の地というだけあって、廃線を復活させた保存鉄道が各地で走っている。異国の地で、生きたSLに出会うというのはなかなか面白そうではないか。ブルーベル鉄道は、1967年に廃線となったハートフィールド(Hartfield)地方のローカル線を復活させた鉄道である。線路がイースト・グリンステッドまで延伸されたのはごく最近のことらしい。昔はナショナル・レールとの接続がなく、イースト・グリンステッドからキングスコート(Kingscote)までバスに乗っていたというから、だいぶ便利になった。首都ロンドンから1時間足らずのところにSLが走り回っているとは、本当にすばらしい。
ナショナル・レールの駅からほど近いところにあるホームで一日乗車券(£16.00)を買って入場すると、シェフィールド・パーク(Sheffield Park)から到着した列車がちょうど機回しをしているところであった。タンク機関車とテンダー機関車の重連が客車から解放され、側線を通って反対側へと走っていく。石炭の香りがほのかに漂い、ピカピカに磨かれた車体からは白い蒸気が吐き出される。蒸気機関車の息吹を身近に感じるのは久しぶりで、まさに現代に生きるくろがねの馬といったところか。馬は水をがぶ飲みして、黒い石を貪り食いながら走る。ボイラーの内部では血管のように張り巡らされた煙管が水を沸騰させ、爆発的な蒸気が運動器たるシリンダーを、ピストンを、ロッドを駆動させるわけだ。鉄の心臓、鉄の肺、鉄の血管、鉄の神経、鉄の骨、鉄の筋肉、すべてが鉄でできている。そして、生きている。
とりあえず全線を走破すべく、終点のシェフィールド・パークまで乗ってみる。ハイシーズンの8月は、ほとんどの日がSL2本体制のダイヤである。途中駅はキングスコート、ホーステッド・ケインズの2つで、いずれの駅も鉄道黄金時代のまま時が止まってしまったかのような姿で良好に保存されている。ホーステッド・ケインズでは上下列車が交換するダイヤが組まれている。唯一残念なのは、機関車の頭が常にイースト・グリンステッド側に向いていることで、線路はほぼ南北に走っているため、北上する上り列車はすべて逆光になってしまう。イースト・グリンステッドに転車台がないのが難点と思われる。保存されているのは蒸気機関車と駅だけではなく、往時の客車はもちろん、腕木式信号や、タブレット閉塞など、ありとあらゆる鉄道設備が昔のまま残されている。まさに保存鉄道という名前そのものであり、日本にこのような場所はなかなかないだろう。
シェフィールド・パークでは機回しが行われ、反対側のホームで炭水車に水が補給される。蒸気機関車の給水風景を見たのは初めてで、レンガ造りのいかめしい給水塔こそないものの、やはり機関車が生き物であることを実感する。その後、駅近くから折返しイースト・グリンステッド行の列車の撮影を試みたが、まったく線路に近付くことができない。そこで望遠でサイドを狙う方針に切り替えたものの、なんと線路は丘陵の窪地のようなところを走っていた。結局列車自体が見えず、牧草地の地平に煙だけが噴き上がるという滑稽な空振り撮影に終わってしまった。
駅へ戻り、併設のショップと博物館を訪れる。ショップは一見子供向けのおみやげがたくさん並んでいるかと思いきや、奥の一角にはガチヲタ向けのコーナーがあり、とくに鉄道書籍の古本が素晴らしかった。SL関連の本、鉄道雑誌のバックナンバーなどなど、いつまでもここで時間を潰せそうである。厳選の上、
"Complete Atlas of Railway Station Names"
"BRITISH RAIL TRACK DIAGRAMS, Eastern & Anglia Regions"
の2冊を購入。前者は廃線、廃駅まで含めたイギリス全土の鉄道線区と鉄道駅を網羅した地図で、眺めているだけで面白い。日本の時刻表とは違いこちらでは全線全駅を載せた地図というのは意外と存在しないので、こういう本はありがたい。後者は配線図で、キングス・クロス(Kings Cross)から始まる東海岸のメインラインを中心に、職人芸の手書きで線路形態が記されている。各駅の側線、引上線、貨物ヤードの配線、連絡線など、あらゆる線路という線路が正確に表現されており、はたから見れば相当にキチガイじみたおみやげw 駅の博物館は反対側のホームにあり、イギリスの鉄道の歴史が充実した資料とともに解説されている。信号システムの仕組み、転轍機の仕組みなどなど、内容はかなりマニアックで面白い。本当はもっとゆっくりと見たかったのだが、発車時刻が迫っているので駆け足になってしまった。
走行写真の撮影は、ホーステッド・ケインズの駅を降りて少しイースト・グリンステッド方面に歩いたところにある、レンガ造りの跨線橋から行うことにした。この辺りは本当にのどかで、牧草地を通る散歩道が整備されている。黙々と草をはむヒツジの群れを見ながら、昼下がりの丘を逍遥する。ヒツジという動物を観察すると意外に面白く、大部分の個体はただひたすら牧草に熱中している一方、木陰に座ってまったりしているのもいれば、寝ているらしきのもいる。また遠くを見ていると、ある一頭が走り出したかと思えば、近くにいた他の数頭もそれについていくように走り出し、やがて群れ全体が何となくその方向へ動き出し、あっという間に牧草地の端に群れが固まってしまうこともある。さて、撮影地の線形はゆるやかなカーブで、少し遠くにはホーステッド・ケインズの構内が見える。相変わらずイースト・グリンステッド行はド逆光。反対のシェフィールド・パーク行は良い光線状態だが、炭水車が先頭になる後進運転ではどうも迫力に欠けてしまう。上下列車が駅で交換するので、2本をほぼ立て続けに撮影できた。煙を期待できるかと思いきや、チョロチョロと漏れ出すのみ。しかし正面打ちを終えて後追いに移行したときにようやく吐いてくれた。
残りの時間はホーステッド・ケインズの駅構内でまったりして過ごす。鉄道全盛時代の雰囲気がそのまま残されている。いかにもテーマパーク的に作りました、といったようなわざとらしさもない。古い設備を復活させ、綺麗にメンテナンスしている様子がうかがえる。16時過ぎの列車でイースト・グリンステッドに戻った。一日を通して見たところ、小さい子供を連れた家族連れ、そして老夫婦が乗客の大半を占めているように思われた。では鉄ヲタが一人で来るのは珍しいかと思いきや、少数派ながら何人かは見かけた。こんなところまでわざわざ蒸気機関車の写真を撮りに来るアジア人が珍しいのか、話しかけてくる人もいる。この国では、鉄道趣味は紳士的な趣味だそうだw
ナショナル・レールの車中、おみやげに買った"Complete Atlas of Railway Station Names"を開きながら車窓に目をやると、当たり前だが地図に書いてある通りに駅名が進んでゆく。面白いのは、イースト・クロイドン(East Croydon)やクラプハム・ジャンクション(Clapham Junction)といった分岐駅周辺の配線も正確に描かれていることで、よくぞここまで調べ上げたものだと感嘆する。ロンドンに戻ってきたのは18時過ぎ。異国の地で鉄道を満喫する、楽しい一日であった。
写真
1枚目:機回し中のSL(@Sheffield Park)
2枚目:跨線橋からの後追い(@Horsted Keynes - Kingscote)
3枚目:入線(@Horsted Keynes)
4213文字
8/19
High Street Kensington → Victoria
Circle Line
London Victoria 923 → East Grinstead 1017
Southern Service
East Grinstead 1045 → Sheffield Park 1132
Bluebell Railway
シェフィールド・パーク(Sheffield Park)駅観光
Sheffield Park 1330 → Horsted Keynes 1345
Bluebell Railway
鉄道撮影、ホーステッド・ケインズ(Horsted Keynes)駅観光
Horsted Keynes 1617 → East Grinstead 1641
Bluebell Railway
East Grinstead 1707 → London Victoria 1805
Southern Service
Victoria → High Street Kensington
Circle Line
・蒸気機関車の息吹
ロンドン・ヴィクトリア(Victoria)駅を出た列車は、ぐいぐいと速度を上げながら南へ向かう。1時間足らずでイースト・グリンステッド(East Grinstead)という盲腸線の終点に到着した。ここへ来たのは他でもない、ブルーベル(Bluebell)鉄道に乗りに来たのだ。東医体と利尻旅行が終わってからというもの、2、3日は抜け殻のような生活をしていたわけだが、イギリスのガイドブックをぱらぱらとめくっていて、ふと思い立った。この国には保存鉄道がある。今となっては大陸に比べてずいぶんと遅れをとり、道路網の発達や航空機の隆盛に伴って、鉄道の黄金時代はすっかり過去のものとなってしまった。それでも鉄道発祥の地というだけあって、廃線を復活させた保存鉄道が各地で走っている。異国の地で、生きたSLに出会うというのはなかなか面白そうではないか。ブルーベル鉄道は、1967年に廃線となったハートフィールド(Hartfield)地方のローカル線を復活させた鉄道である。線路がイースト・グリンステッドまで延伸されたのはごく最近のことらしい。昔はナショナル・レールとの接続がなく、イースト・グリンステッドからキングスコート(Kingscote)までバスに乗っていたというから、だいぶ便利になった。首都ロンドンから1時間足らずのところにSLが走り回っているとは、本当にすばらしい。
ナショナル・レールの駅からほど近いところにあるホームで一日乗車券(£16.00)を買って入場すると、シェフィールド・パーク(Sheffield Park)から到着した列車がちょうど機回しをしているところであった。タンク機関車とテンダー機関車の重連が客車から解放され、側線を通って反対側へと走っていく。石炭の香りがほのかに漂い、ピカピカに磨かれた車体からは白い蒸気が吐き出される。蒸気機関車の息吹を身近に感じるのは久しぶりで、まさに現代に生きるくろがねの馬といったところか。馬は水をがぶ飲みして、黒い石を貪り食いながら走る。ボイラーの内部では血管のように張り巡らされた煙管が水を沸騰させ、爆発的な蒸気が運動器たるシリンダーを、ピストンを、ロッドを駆動させるわけだ。鉄の心臓、鉄の肺、鉄の血管、鉄の神経、鉄の骨、鉄の筋肉、すべてが鉄でできている。そして、生きている。
とりあえず全線を走破すべく、終点のシェフィールド・パークまで乗ってみる。ハイシーズンの8月は、ほとんどの日がSL2本体制のダイヤである。途中駅はキングスコート、ホーステッド・ケインズの2つで、いずれの駅も鉄道黄金時代のまま時が止まってしまったかのような姿で良好に保存されている。ホーステッド・ケインズでは上下列車が交換するダイヤが組まれている。唯一残念なのは、機関車の頭が常にイースト・グリンステッド側に向いていることで、線路はほぼ南北に走っているため、北上する上り列車はすべて逆光になってしまう。イースト・グリンステッドに転車台がないのが難点と思われる。保存されているのは蒸気機関車と駅だけではなく、往時の客車はもちろん、腕木式信号や、タブレット閉塞など、ありとあらゆる鉄道設備が昔のまま残されている。まさに保存鉄道という名前そのものであり、日本にこのような場所はなかなかないだろう。
シェフィールド・パークでは機回しが行われ、反対側のホームで炭水車に水が補給される。蒸気機関車の給水風景を見たのは初めてで、レンガ造りのいかめしい給水塔こそないものの、やはり機関車が生き物であることを実感する。その後、駅近くから折返しイースト・グリンステッド行の列車の撮影を試みたが、まったく線路に近付くことができない。そこで望遠でサイドを狙う方針に切り替えたものの、なんと線路は丘陵の窪地のようなところを走っていた。結局列車自体が見えず、牧草地の地平に煙だけが噴き上がるという滑稽な空振り撮影に終わってしまった。
駅へ戻り、併設のショップと博物館を訪れる。ショップは一見子供向けのおみやげがたくさん並んでいるかと思いきや、奥の一角にはガチヲタ向けのコーナーがあり、とくに鉄道書籍の古本が素晴らしかった。SL関連の本、鉄道雑誌のバックナンバーなどなど、いつまでもここで時間を潰せそうである。厳選の上、
"Complete Atlas of Railway Station Names"
"BRITISH RAIL TRACK DIAGRAMS, Eastern & Anglia Regions"
の2冊を購入。前者は廃線、廃駅まで含めたイギリス全土の鉄道線区と鉄道駅を網羅した地図で、眺めているだけで面白い。日本の時刻表とは違いこちらでは全線全駅を載せた地図というのは意外と存在しないので、こういう本はありがたい。後者は配線図で、キングス・クロス(Kings Cross)から始まる東海岸のメインラインを中心に、職人芸の手書きで線路形態が記されている。各駅の側線、引上線、貨物ヤードの配線、連絡線など、あらゆる線路という線路が正確に表現されており、はたから見れば相当にキチガイじみたおみやげw 駅の博物館は反対側のホームにあり、イギリスの鉄道の歴史が充実した資料とともに解説されている。信号システムの仕組み、転轍機の仕組みなどなど、内容はかなりマニアックで面白い。本当はもっとゆっくりと見たかったのだが、発車時刻が迫っているので駆け足になってしまった。
走行写真の撮影は、ホーステッド・ケインズの駅を降りて少しイースト・グリンステッド方面に歩いたところにある、レンガ造りの跨線橋から行うことにした。この辺りは本当にのどかで、牧草地を通る散歩道が整備されている。黙々と草をはむヒツジの群れを見ながら、昼下がりの丘を逍遥する。ヒツジという動物を観察すると意外に面白く、大部分の個体はただひたすら牧草に熱中している一方、木陰に座ってまったりしているのもいれば、寝ているらしきのもいる。また遠くを見ていると、ある一頭が走り出したかと思えば、近くにいた他の数頭もそれについていくように走り出し、やがて群れ全体が何となくその方向へ動き出し、あっという間に牧草地の端に群れが固まってしまうこともある。さて、撮影地の線形はゆるやかなカーブで、少し遠くにはホーステッド・ケインズの構内が見える。相変わらずイースト・グリンステッド行はド逆光。反対のシェフィールド・パーク行は良い光線状態だが、炭水車が先頭になる後進運転ではどうも迫力に欠けてしまう。上下列車が駅で交換するので、2本をほぼ立て続けに撮影できた。煙を期待できるかと思いきや、チョロチョロと漏れ出すのみ。しかし正面打ちを終えて後追いに移行したときにようやく吐いてくれた。
残りの時間はホーステッド・ケインズの駅構内でまったりして過ごす。鉄道全盛時代の雰囲気がそのまま残されている。いかにもテーマパーク的に作りました、といったようなわざとらしさもない。古い設備を復活させ、綺麗にメンテナンスしている様子がうかがえる。16時過ぎの列車でイースト・グリンステッドに戻った。一日を通して見たところ、小さい子供を連れた家族連れ、そして老夫婦が乗客の大半を占めているように思われた。では鉄ヲタが一人で来るのは珍しいかと思いきや、少数派ながら何人かは見かけた。こんなところまでわざわざ蒸気機関車の写真を撮りに来るアジア人が珍しいのか、話しかけてくる人もいる。この国では、鉄道趣味は紳士的な趣味だそうだw
ナショナル・レールの車中、おみやげに買った"Complete Atlas of Railway Station Names"を開きながら車窓に目をやると、当たり前だが地図に書いてある通りに駅名が進んでゆく。面白いのは、イースト・クロイドン(East Croydon)やクラプハム・ジャンクション(Clapham Junction)といった分岐駅周辺の配線も正確に描かれていることで、よくぞここまで調べ上げたものだと感嘆する。ロンドンに戻ってきたのは18時過ぎ。異国の地で鉄道を満喫する、楽しい一日であった。
写真
1枚目:機回し中のSL(@Sheffield Park)
2枚目:跨線橋からの後追い(@Horsted Keynes - Kingscote)
3枚目:入線(@Horsted Keynes)
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