美術館をめぐる。
・オランジュリー美術館
オペラ(Opéra)大通りを南下してチュイルリー(Tuileries)庭園へ入る。今日のパリは晴天。コンコルド(Concorde)広場のオベリスクの向こう側には、車の大群がうごめくシャンゼリゼ(Champs Élysées)大通りがのぞき、その奥、地図上では2kmくらい離れていると思われる場所に、凱旋門がある。この景色を眺めるのも三度目である。まずは、庭園の隅にあるオランジュリー美術館を訪れる。セキュリティー・チェックで「コンニチハ、カバンヲアケテクダサイ」と言われたのには笑ってしまった。日本人観光客が相当多いということか。せっかくなので、音声ガイドを聞きながら絵を観るとしよう。しかし音声ガイドの一式ごときでパスポートを預かられるとは思わなかった。
モネの睡蓮は自然光を取り入れた展示で、柔らかい光が天窓から差し込む設計。絵には空が描かれておらず、どこまでも吸い込まれそうな深みである。また楕円形の展示室も、その無限性の表現に一役買っているような気がする。楕円自体は閉じた曲線だが、それ自体で完結している真円とは異なり、無限遠まで飛んでいく放物線や双曲線に通じる何かを感じる。その感覚は、楕円が離心率をもつことと関係しているのかもしれない。閉じた図形でありながら、内的には無限性を秘めている、とでも言えば良いのか、とにかくその特徴は、閉じたキャンバスでありながら、無限の睡蓮の世界を表したこの絵画と見事に合致しているように思えるのである。
また、画家と写真家の違いは何か、という疑問もふと湧き起こる。この絵に描かれた光線の具合は、白神山地の青池の一角を切り取ったときのそれと実によく似ている。では、絵も写真も同じかと言われると、それは違う。絵を描くにしても写真を撮るにしても、どういう構図で題材を扱うか、そしてどのように扱うか、という二点は大きなポイントになるように思われる。抽象画とか、何だか訳の分からない絵とかを除けば、前者のポイントは絵も写真も大して変わることがない。しかし後者についていえば、画家は自らの感覚を再構成した産物をキャンバス上に自由に表現するのに対して、写真家はどこまでも絶対的な光線を自らの感覚のもとに操っているにすぎない。写真の材料はあくまで光線という外因子であり、その外因子が美しく姿を変える過程において、いかに内因子たる撮影者の感覚が関与できるか、というところに主眼が置かれる。画家は、視覚野で再構成された情報を自らの手で描くわけだから、いわば絵の材料もそれらに対する調味料も、ひとえに内因子だと言えるかもしれない。
もっとも、今のようなデジタル全盛の時代にあっては、写真を撮った後にいくらでも色調補正や効果をかけられたりするので、そういう意味においては外因子の占める割合がどんどん小さくなっている。極端な補正や効果に走ると、それは写真を撮っているというより、壮大な塗り絵をやっているか、あるいは下絵をもとに新しい絵を描いているのとあまり変わらない。上手い写真を撮ることと、上手い絵を描くことでは、目指すところは同一でも手法が根本的に違うはずなのだが、どうやらその境界が融け始めている部分があるのかもしれない。
睡蓮もさることながら、オランジュリーは地下のコレクションも大したもので、ルノワール(Renoir)やセザンヌ(Cézanne)の絵がそこら中に架けてある。この中のたった数点でも日本に来たとしたら、きっと美術館は大行列になるのだろう。それもそれで、何だかアホ臭い話である。ドゥラン(Derain)の絵がなかなか良かった。結局、何だかんだで午前中いっぱいを使う。
・ロダン美術館
いったん宿に戻った後、午後はロダン美術館を訪れる。地獄の門、考える人など、著名な彫刻が庭に展示されている。かつての邸宅は美術館に転用され、邸内にはおびただしい数の彫刻が置いてある。建物は改装中で、今はメインのものしか展示していないらしい。床が埃っぽく、仮設の展示方法もずいぶんと雑な感じだが、きっとすごいものがそこら中に転がっているのだろう。彫刻は、絵画とは全く違った面白さがあって良い。あまり流行っていないのかもしれないが、角度によって変わっていく陰影や表情は見飽きることがない。最後に、大理石の彫刻を見て回った。パンフレットには"THE FLESH THE MARBLE"と書かれていて、なるほど、大理石は肉体を表現するのに最適な素材なのだ。石の透き通った感じが、毛細血管の血流を透過する皮膚の質感に絶妙にマッチしているということだろう。
ナポレオン(Napoléon)が眠るアンヴァリッド(Invalides)廃兵院を外から眺め、アレクサンドル(Alexandre)三世橋と、プチ・パレ(Petit Palais)、グラン・パレ(Grand -)を遠方に望んでから、帰路についた。整然たる町並みである。ロンドンよりも圧倒的に美しい。
弓道部テストの作問に勤しむ夜。
写真
1枚目:印象派のコレクション
2枚目:考える人
3枚目:夕日に映えるアンヴァリッドのドーム
2502文字
3/15
徒歩による移動
オランジュリー(Orangerie)美術館
Quatre Septembre → St. Lazare
メトロ3号線
St. Lazare → Varenne
メトロ13号線
ロダン(Rodin)美術館
La Tour Maubourg → Opéra
メトロ8号線
パリ泊
Hotel France d’Antin
・オランジュリー美術館
オペラ(Opéra)大通りを南下してチュイルリー(Tuileries)庭園へ入る。今日のパリは晴天。コンコルド(Concorde)広場のオベリスクの向こう側には、車の大群がうごめくシャンゼリゼ(Champs Élysées)大通りがのぞき、その奥、地図上では2kmくらい離れていると思われる場所に、凱旋門がある。この景色を眺めるのも三度目である。まずは、庭園の隅にあるオランジュリー美術館を訪れる。セキュリティー・チェックで「コンニチハ、カバンヲアケテクダサイ」と言われたのには笑ってしまった。日本人観光客が相当多いということか。せっかくなので、音声ガイドを聞きながら絵を観るとしよう。しかし音声ガイドの一式ごときでパスポートを預かられるとは思わなかった。
モネの睡蓮は自然光を取り入れた展示で、柔らかい光が天窓から差し込む設計。絵には空が描かれておらず、どこまでも吸い込まれそうな深みである。また楕円形の展示室も、その無限性の表現に一役買っているような気がする。楕円自体は閉じた曲線だが、それ自体で完結している真円とは異なり、無限遠まで飛んでいく放物線や双曲線に通じる何かを感じる。その感覚は、楕円が離心率をもつことと関係しているのかもしれない。閉じた図形でありながら、内的には無限性を秘めている、とでも言えば良いのか、とにかくその特徴は、閉じたキャンバスでありながら、無限の睡蓮の世界を表したこの絵画と見事に合致しているように思えるのである。
また、画家と写真家の違いは何か、という疑問もふと湧き起こる。この絵に描かれた光線の具合は、白神山地の青池の一角を切り取ったときのそれと実によく似ている。では、絵も写真も同じかと言われると、それは違う。絵を描くにしても写真を撮るにしても、どういう構図で題材を扱うか、そしてどのように扱うか、という二点は大きなポイントになるように思われる。抽象画とか、何だか訳の分からない絵とかを除けば、前者のポイントは絵も写真も大して変わることがない。しかし後者についていえば、画家は自らの感覚を再構成した産物をキャンバス上に自由に表現するのに対して、写真家はどこまでも絶対的な光線を自らの感覚のもとに操っているにすぎない。写真の材料はあくまで光線という外因子であり、その外因子が美しく姿を変える過程において、いかに内因子たる撮影者の感覚が関与できるか、というところに主眼が置かれる。画家は、視覚野で再構成された情報を自らの手で描くわけだから、いわば絵の材料もそれらに対する調味料も、ひとえに内因子だと言えるかもしれない。
もっとも、今のようなデジタル全盛の時代にあっては、写真を撮った後にいくらでも色調補正や効果をかけられたりするので、そういう意味においては外因子の占める割合がどんどん小さくなっている。極端な補正や効果に走ると、それは写真を撮っているというより、壮大な塗り絵をやっているか、あるいは下絵をもとに新しい絵を描いているのとあまり変わらない。上手い写真を撮ることと、上手い絵を描くことでは、目指すところは同一でも手法が根本的に違うはずなのだが、どうやらその境界が融け始めている部分があるのかもしれない。
睡蓮もさることながら、オランジュリーは地下のコレクションも大したもので、ルノワール(Renoir)やセザンヌ(Cézanne)の絵がそこら中に架けてある。この中のたった数点でも日本に来たとしたら、きっと美術館は大行列になるのだろう。それもそれで、何だかアホ臭い話である。ドゥラン(Derain)の絵がなかなか良かった。結局、何だかんだで午前中いっぱいを使う。
・ロダン美術館
いったん宿に戻った後、午後はロダン美術館を訪れる。地獄の門、考える人など、著名な彫刻が庭に展示されている。かつての邸宅は美術館に転用され、邸内にはおびただしい数の彫刻が置いてある。建物は改装中で、今はメインのものしか展示していないらしい。床が埃っぽく、仮設の展示方法もずいぶんと雑な感じだが、きっとすごいものがそこら中に転がっているのだろう。彫刻は、絵画とは全く違った面白さがあって良い。あまり流行っていないのかもしれないが、角度によって変わっていく陰影や表情は見飽きることがない。最後に、大理石の彫刻を見て回った。パンフレットには"THE FLESH THE MARBLE"と書かれていて、なるほど、大理石は肉体を表現するのに最適な素材なのだ。石の透き通った感じが、毛細血管の血流を透過する皮膚の質感に絶妙にマッチしているということだろう。
ナポレオン(Napoléon)が眠るアンヴァリッド(Invalides)廃兵院を外から眺め、アレクサンドル(Alexandre)三世橋と、プチ・パレ(Petit Palais)、グラン・パレ(Grand -)を遠方に望んでから、帰路についた。整然たる町並みである。ロンドンよりも圧倒的に美しい。
弓道部テストの作問に勤しむ夜。
写真
1枚目:印象派のコレクション
2枚目:考える人
3枚目:夕日に映えるアンヴァリッドのドーム
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