昼前に道場へ。木曜と金曜はゆとりである。
・自主学習
今日は継代操作を行った後、細胞数をカウントして96穴プレートに撒き、MTTの準備を行う。そういえばこの間やった継代操作は一部間違っていたことが判明し、萎えた。
本来ならここまでを1時間程度で行うのが理想のようだが、すでに2時間半が経過ww 慣れの問題とはいえ、手際の悪さを実感。その後は薬剤の希釈系列を作成。中学入試レベルの算数とはいえ、濃度の計算にはどうも毎回気を使う。
夕方は代々木へ直行。ずいぶんと綺麗で快適な場所に変貌していました。自分が「楽しさ」を提供できていないことは重々承知しているので、その代わり、と言ってはさすがに語弊があるけれども、いかに「納得」してもらえるかを常に考えているつもりではある。
・家路
渋谷を22時27分に発車した通勤客満載の急行列車(61S)は、いつも通り梶が谷通過後にぐいぐいと速度を上げて、高架を駆け抜けて宮崎台の駅にさしかかったところであった。今まで体感したことのないような非常ブレーキがかかり、緩解もなく、強烈な衝撃をもって急停車。6号車の端に乗っていたのだが、ちょうど窓外でホームが終わっている。どうやら前の4両ははみ出しているらしい。人身事故である。
乗務員が現場に駆けつけてから15分ほど経って、サイレンの音が聞こえてくる。警察と消防が到着したらしい。しばらくすると最後尾車両のドアを開放したとのアナウンスがあり、乗客は順々に降りることができるようになった。一応再開を待つことにしたもののずいぶんと時間がかかりそうで、そうこうしているうちに先頭車両からぞろぞろと乗客がやって来て、みな押し合いながら後方へと進んでゆく。鷺沼から先は折返し運転をしているらしいので自分も後ろへ向かって降りることにした。
程なくしてパンタグラフを下ろすとの放送があり、車内照明が落ちた。ホームの灯りが窓から差し込んでくる。一つ後ろ、5号車の車内は騒然としていた。反対側のホームから大勢の救助隊員と警察官が線路に降り、床下の捜索を続けているようだ。「よし、そっちの脚の方からいこう」「大体でいいよ、大体で」「外を見ないでください」「視線を向けないでください」など数々の声が錯綜し、やがてブルーシートで厳重に目隠しされながら大勢の手で轢死体が床下から運び出され、反対側のホームへと引き上げられた。そして担架に載せられ、急ぎ足で搬送されてゆく。救助隊員の手袋は血と脂にまみれ、線路にも血痕が点々としていて生々しい。
宮崎台の駅を出て、鷺沼まで歩く。道が線路沿いに通っていないので20分以上かかった。鷺沼始発の中央林間行に乗り込んで発車を待っていると、隣のホームに事故編成が入ってきた。ここで全員乗客を降ろして接続を取り、当該編成は回送扱いとなるようだ。乗っていた列車が人身事故を起こしたことは初めてである。将来的には人の死に日常的に直面することになるわけだが、やはり、今まさに、この同じ時空間を共有しながら一人の人間が絶命したという状況は、にわかには受け入れがたいものがある。乗客・乗員全員が何の脈絡もなく突然、その絶命の瞬間に立ち会ったわけだ。非常ブレーキがかけられた最後の一瞬までどういう人生を送ってきたのかとか、なぜああいう悲惨な死に方をしなければならなかったのかとか、思いを巡らせればもう切りがない。
日記にこういうことを書くのもどうかと思ったが、とりあえず記録まで。
写真:仲町
うだるような暑さ。
1553文字
・自主学習
今日は継代操作を行った後、細胞数をカウントして96穴プレートに撒き、MTTの準備を行う。そういえばこの間やった継代操作は一部間違っていたことが判明し、萎えた。
本来ならここまでを1時間程度で行うのが理想のようだが、すでに2時間半が経過ww 慣れの問題とはいえ、手際の悪さを実感。その後は薬剤の希釈系列を作成。中学入試レベルの算数とはいえ、濃度の計算にはどうも毎回気を使う。
夕方は代々木へ直行。ずいぶんと綺麗で快適な場所に変貌していました。自分が「楽しさ」を提供できていないことは重々承知しているので、その代わり、と言ってはさすがに語弊があるけれども、いかに「納得」してもらえるかを常に考えているつもりではある。
・家路
渋谷を22時27分に発車した通勤客満載の急行列車(61S)は、いつも通り梶が谷通過後にぐいぐいと速度を上げて、高架を駆け抜けて宮崎台の駅にさしかかったところであった。今まで体感したことのないような非常ブレーキがかかり、緩解もなく、強烈な衝撃をもって急停車。6号車の端に乗っていたのだが、ちょうど窓外でホームが終わっている。どうやら前の4両ははみ出しているらしい。人身事故である。
乗務員が現場に駆けつけてから15分ほど経って、サイレンの音が聞こえてくる。警察と消防が到着したらしい。しばらくすると最後尾車両のドアを開放したとのアナウンスがあり、乗客は順々に降りることができるようになった。一応再開を待つことにしたもののずいぶんと時間がかかりそうで、そうこうしているうちに先頭車両からぞろぞろと乗客がやって来て、みな押し合いながら後方へと進んでゆく。鷺沼から先は折返し運転をしているらしいので自分も後ろへ向かって降りることにした。
程なくしてパンタグラフを下ろすとの放送があり、車内照明が落ちた。ホームの灯りが窓から差し込んでくる。一つ後ろ、5号車の車内は騒然としていた。反対側のホームから大勢の救助隊員と警察官が線路に降り、床下の捜索を続けているようだ。「よし、そっちの脚の方からいこう」「大体でいいよ、大体で」「外を見ないでください」「視線を向けないでください」など数々の声が錯綜し、やがてブルーシートで厳重に目隠しされながら大勢の手で轢死体が床下から運び出され、反対側のホームへと引き上げられた。そして担架に載せられ、急ぎ足で搬送されてゆく。救助隊員の手袋は血と脂にまみれ、線路にも血痕が点々としていて生々しい。
宮崎台の駅を出て、鷺沼まで歩く。道が線路沿いに通っていないので20分以上かかった。鷺沼始発の中央林間行に乗り込んで発車を待っていると、隣のホームに事故編成が入ってきた。ここで全員乗客を降ろして接続を取り、当該編成は回送扱いとなるようだ。乗っていた列車が人身事故を起こしたことは初めてである。将来的には人の死に日常的に直面することになるわけだが、やはり、今まさに、この同じ時空間を共有しながら一人の人間が絶命したという状況は、にわかには受け入れがたいものがある。乗客・乗員全員が何の脈絡もなく突然、その絶命の瞬間に立ち会ったわけだ。非常ブレーキがかけられた最後の一瞬までどういう人生を送ってきたのかとか、なぜああいう悲惨な死に方をしなければならなかったのかとか、思いを巡らせればもう切りがない。
日記にこういうことを書くのもどうかと思ったが、とりあえず記録まで。
写真:仲町
うだるような暑さ。
1553文字
コメント