南紀の海はコバルトブルー。
・那智山へ
強烈なにわか雨である。おさまるまで宿で待っていたら8時25分発のバスを逃してしまったが、まもなく雨雲が通り過ぎて晴れ間が広がってきた。水色の空にもくもくと雲が沸き立つ様は、暑い夏の一日を予感させる。那智山行のバスは30分後にもあるので、荷物を駅前の海産物センターに預けてからこれに乗車する。朝の勝浦の町は昨晩とは違っていくぶんか活気がある。港町というのは往々にして午前中の方が賑やかなのだろう。バスは那智川をさかのぼる形で山間部へ分け入る。「大門坂」バス停を過ぎると道路はつづら折りの山道となり、どんどん高度を稼いでいく。「大門坂」で降りれば杉並木に囲まれた熊野古道の石畳に入り、バスの終点である那智山観光センターまで登ることができたのだが、石畳は昨日の馬越峠で歩いたし、それに今日はあまり時間もないことだから今回はパスする。
まずは長い石段の道を登って熊野那智大社へ向かう。平日のはずだが、意外にも観光客が多い。本殿の近くから景色を見渡すと、なかなか高いところまで来たことが分かる。熊野那智大社のすぐ隣には那智山青岸渡寺が並んでいる。神道と仏教が那智山という同じ空間に共存しているのは不思議で、これがいわゆる修験道だろうか。那智山での滞在時間は1時間半ほどしかないので、最後は急ぎ目に那智の滝へと山道を下る。落差は133mで、見上げたところにある岩肌の崖からすらりとした白い瀑布が駆け下りる。せっかく来たことなので、神盃で滝の水を口に含む。帰りは11時前のバスで紀伊勝浦の駅前に戻る。バスの本数も比較的多いので、少し立ち寄るには最適な観光地であった。
・潮岬
荷物を預けていた海産物センターで地酒「熊野三山」を買い、正午前の普通列車で勝浦を去る。105系の2両編成、車内はオールロングシートだが、左手に展開する車窓は息をのむ美しさである。下里~紀伊浦神にはコバルトブルーの海が、紀伊田原~古座には独特の岩畳が広がり、緩急に富んだ表情を見せてくれる。右手に鬱蒼たる緑の山々が迫る中、短編成の列車は海のすぐそばを快走する。トンネルを抜けて次の入り江に出るたびに新しい景色が待っていて、まるで心が洗われるかのようだ。
串本で下車。タッチの差で潮岬行のバスは行ってしまっているので、やむなくタクシーで岬を目指す。滞在時間は2時間ほどであるから、灯台と本州最南端の地だけを訪れて帰ることにする。潮岬灯台は岩場の崖の上に立つ白亜の建築で、上に登れば陽光に煌めく太平洋が眼下に広がり、逆に陸の方を見渡せば駅からタクシーで走ってきた小さな半島が串本の湾を輪郭している。ここは陸、海、空の三者が一堂に会する場所である。黄昏を迎え海に光が放たれる頃、陸は黒い影となり、海は灰色の闇に沈み、そして空はかすかな燃え残りを映して赤く染まることだろう。下から灯台を見上げると、白昼の日差しをまぶしく反射する姿が青空や緑と強烈なコントラストをなす。今日はじりじりと焼け焦げるような暑さだ。
灯台からは徒歩10分弱で最南端の地に至る。さして岬といった風情ではなく、道路からは広い芝生が続く。休憩所の建物のそばに「本州最南端」と彫られた味気ない石が置いてあるのみで、しばらくベンチに座って茫然と過ごす。海を見渡すと、何隻もの大きな船が行き交っている。大半は貨物船だろう。船がゆっくりと海を滑ってゆくのを眺めるのはなかなか楽しい。あのスピードは、落ち着いた時空間の流れにちょうど合っているような気がするのである。帰りは潮岬始発のバスで駅まで戻った。
・紀伊浦神にて
元々は14時35分発の下り列車に乗り、黄昏時に初島~下津の石油コンビナートを撮影、夜は和歌山ラーメンでも食べようかと考えていたのだが、昼間に見た紀伊浦神の車窓が忘れられず、予定を変更し日の暮れるまで紀勢本線南部の撮影を行うことにする。14時33分発の新宮行で串本を去り、紀伊浦神へ向かった。島式ホームの小さなひなびた無人駅である。
国道を下里方面に向かうと、小規模な漁港が現れる。ここは玉の浦という入り江の最奥部にあたる。対岸を見渡せば小高い半島のふもとに集落があり、東方に目を向けると湾が太平洋に開いている。写真を撮りながら桟橋を歩いていると、魚の干物が並んでいるのを見つけた。胴体が正中断され、頭の残っている側とそうでない側が交互に整列して夕方の日差しをいっぱいに浴びている姿はなかなか面白い。その眼は死んでいるはずなのだが、何か言いたそうでもある。
昨日とは大違いでとくに撮影地の下調べもしていなかったため、海岸線を絡められそうなところから適当に撮ることにする。最初の下り普通は駅から1kmほど歩いたところ、国道が岩屋崎を回り込んだ先にて撮影。しかしながらここは線形上、列車の正面にしか日が当たらなかったので、次にやってくる上下の特急2本と上り普通1本は駅に近い漁港付近にて撮影することにした。先ほどの地点に比べるとどうしても障害物が多いので絶景とは言い難いが、一応海と一緒に撮った感は出る。桟橋に座り、のんびりと列車を待つ。天気は良好。海と空、性格の異なる二つの寒色に身を包まれながら、西日を背中に受け止める。だんだんと赤みがかかってきたこの光線状態はいつも旅愁を誘う。
合計4本を撮り終え、駅へ引き返す。辺りはそろそろ黄昏を迎えようとしている。18時前の普通に乗り、紀伊浦神を去った。
・乗り継ぎ
あとはひたすらに普通列車を乗り継ぐのみである。日が沈んでしまうと車窓を眺めるわけにもいかない。こういう時のためにと思って『THE CASE-BOOK OF SHERLOCK HOLMES』を持参しておいた。一昨日のムーンライトながらの車中から読み始めたのだが、短編集なので細切れの時間に最適である。
紀伊田辺、御坊、和歌山、日根野と4回乗換えてようやく23時半頃に今宵の宿、鳳(おおとり)に到着。紀伊田辺では20分以上の時間があったので、駅前のラーメン屋で急いで夕食をとった。何より驚いたのは、和歌山から乗った阪和線の普通列車がいまだにスカイブルーの103系だったこと。首都圏ではすっかり過去の車両となってしまったが、関西ではまだまだ現役を続けているようだ。
これで紀伊半島をぐるりと回ったことになる。
写真
1枚目:那智の滝
2枚目:潮岬灯台
3枚目:玉の浦をゆく(@下里~紀伊浦神)
3623文字
8/23
勝浦駅855 → 那智山920
熊野交通バス 和歌山200か268
熊野那智大社、那智の滝
那智の滝前1056 → 勝浦駅1120
熊野交通バス
紀伊勝浦1151 → 串本1232
紀勢本線2330M クハ104-7
串本1240 → 潮岬灯台1250
タクシー
潮岬灯台、潮岬(本州最南端の地)
潮岬1350 → 串本駅1407
熊野交通バス
串本1433 → 紀伊浦神1506
紀勢本線2333M クモハ105-5
2338M・78M・63M・2335M撮影
紀伊浦神1751 → 紀伊田辺1956
紀勢本線2342M クハ104-8
紀伊田辺2020 → 御坊2105
紀勢本線2374M クモハ112-2058
御坊2110 → 和歌山2213
紀勢本線394M クハ116-12
和歌山2230 → 日根野2301
阪和線3722H クハ103-162
日根野2302 → 鳳2319
阪和線5228M 関空快速 クハ222-2503
鳳泊
ビジネスホテル なか
・那智山へ
強烈なにわか雨である。おさまるまで宿で待っていたら8時25分発のバスを逃してしまったが、まもなく雨雲が通り過ぎて晴れ間が広がってきた。水色の空にもくもくと雲が沸き立つ様は、暑い夏の一日を予感させる。那智山行のバスは30分後にもあるので、荷物を駅前の海産物センターに預けてからこれに乗車する。朝の勝浦の町は昨晩とは違っていくぶんか活気がある。港町というのは往々にして午前中の方が賑やかなのだろう。バスは那智川をさかのぼる形で山間部へ分け入る。「大門坂」バス停を過ぎると道路はつづら折りの山道となり、どんどん高度を稼いでいく。「大門坂」で降りれば杉並木に囲まれた熊野古道の石畳に入り、バスの終点である那智山観光センターまで登ることができたのだが、石畳は昨日の馬越峠で歩いたし、それに今日はあまり時間もないことだから今回はパスする。
まずは長い石段の道を登って熊野那智大社へ向かう。平日のはずだが、意外にも観光客が多い。本殿の近くから景色を見渡すと、なかなか高いところまで来たことが分かる。熊野那智大社のすぐ隣には那智山青岸渡寺が並んでいる。神道と仏教が那智山という同じ空間に共存しているのは不思議で、これがいわゆる修験道だろうか。那智山での滞在時間は1時間半ほどしかないので、最後は急ぎ目に那智の滝へと山道を下る。落差は133mで、見上げたところにある岩肌の崖からすらりとした白い瀑布が駆け下りる。せっかく来たことなので、神盃で滝の水を口に含む。帰りは11時前のバスで紀伊勝浦の駅前に戻る。バスの本数も比較的多いので、少し立ち寄るには最適な観光地であった。
・潮岬
荷物を預けていた海産物センターで地酒「熊野三山」を買い、正午前の普通列車で勝浦を去る。105系の2両編成、車内はオールロングシートだが、左手に展開する車窓は息をのむ美しさである。下里~紀伊浦神にはコバルトブルーの海が、紀伊田原~古座には独特の岩畳が広がり、緩急に富んだ表情を見せてくれる。右手に鬱蒼たる緑の山々が迫る中、短編成の列車は海のすぐそばを快走する。トンネルを抜けて次の入り江に出るたびに新しい景色が待っていて、まるで心が洗われるかのようだ。
串本で下車。タッチの差で潮岬行のバスは行ってしまっているので、やむなくタクシーで岬を目指す。滞在時間は2時間ほどであるから、灯台と本州最南端の地だけを訪れて帰ることにする。潮岬灯台は岩場の崖の上に立つ白亜の建築で、上に登れば陽光に煌めく太平洋が眼下に広がり、逆に陸の方を見渡せば駅からタクシーで走ってきた小さな半島が串本の湾を輪郭している。ここは陸、海、空の三者が一堂に会する場所である。黄昏を迎え海に光が放たれる頃、陸は黒い影となり、海は灰色の闇に沈み、そして空はかすかな燃え残りを映して赤く染まることだろう。下から灯台を見上げると、白昼の日差しをまぶしく反射する姿が青空や緑と強烈なコントラストをなす。今日はじりじりと焼け焦げるような暑さだ。
灯台からは徒歩10分弱で最南端の地に至る。さして岬といった風情ではなく、道路からは広い芝生が続く。休憩所の建物のそばに「本州最南端」と彫られた味気ない石が置いてあるのみで、しばらくベンチに座って茫然と過ごす。海を見渡すと、何隻もの大きな船が行き交っている。大半は貨物船だろう。船がゆっくりと海を滑ってゆくのを眺めるのはなかなか楽しい。あのスピードは、落ち着いた時空間の流れにちょうど合っているような気がするのである。帰りは潮岬始発のバスで駅まで戻った。
・紀伊浦神にて
元々は14時35分発の下り列車に乗り、黄昏時に初島~下津の石油コンビナートを撮影、夜は和歌山ラーメンでも食べようかと考えていたのだが、昼間に見た紀伊浦神の車窓が忘れられず、予定を変更し日の暮れるまで紀勢本線南部の撮影を行うことにする。14時33分発の新宮行で串本を去り、紀伊浦神へ向かった。島式ホームの小さなひなびた無人駅である。
国道を下里方面に向かうと、小規模な漁港が現れる。ここは玉の浦という入り江の最奥部にあたる。対岸を見渡せば小高い半島のふもとに集落があり、東方に目を向けると湾が太平洋に開いている。写真を撮りながら桟橋を歩いていると、魚の干物が並んでいるのを見つけた。胴体が正中断され、頭の残っている側とそうでない側が交互に整列して夕方の日差しをいっぱいに浴びている姿はなかなか面白い。その眼は死んでいるはずなのだが、何か言いたそうでもある。
昨日とは大違いでとくに撮影地の下調べもしていなかったため、海岸線を絡められそうなところから適当に撮ることにする。最初の下り普通は駅から1kmほど歩いたところ、国道が岩屋崎を回り込んだ先にて撮影。しかしながらここは線形上、列車の正面にしか日が当たらなかったので、次にやってくる上下の特急2本と上り普通1本は駅に近い漁港付近にて撮影することにした。先ほどの地点に比べるとどうしても障害物が多いので絶景とは言い難いが、一応海と一緒に撮った感は出る。桟橋に座り、のんびりと列車を待つ。天気は良好。海と空、性格の異なる二つの寒色に身を包まれながら、西日を背中に受け止める。だんだんと赤みがかかってきたこの光線状態はいつも旅愁を誘う。
合計4本を撮り終え、駅へ引き返す。辺りはそろそろ黄昏を迎えようとしている。18時前の普通に乗り、紀伊浦神を去った。
・乗り継ぎ
あとはひたすらに普通列車を乗り継ぐのみである。日が沈んでしまうと車窓を眺めるわけにもいかない。こういう時のためにと思って『THE CASE-BOOK OF SHERLOCK HOLMES』を持参しておいた。一昨日のムーンライトながらの車中から読み始めたのだが、短編集なので細切れの時間に最適である。
紀伊田辺、御坊、和歌山、日根野と4回乗換えてようやく23時半頃に今宵の宿、鳳(おおとり)に到着。紀伊田辺では20分以上の時間があったので、駅前のラーメン屋で急いで夕食をとった。何より驚いたのは、和歌山から乗った阪和線の普通列車がいまだにスカイブルーの103系だったこと。首都圏ではすっかり過去の車両となってしまったが、関西ではまだまだ現役を続けているようだ。
これで紀伊半島をぐるりと回ったことになる。
写真
1枚目:那智の滝
2枚目:潮岬灯台
3枚目:玉の浦をゆく(@下里~紀伊浦神)
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