稚内港

2011年8月11日 弓道
稚内港
東医体第三日。われらが副将が個人戦優勝、さすがです。あと他校の同級生がみなバシバシ中てているのを見ると、毎度のことながら自分も頑張らねばと思う。いや、2年以上も弓をやっていればそのくらい中るのはわりと当然なのかもしれない。どうも無用な回り道や、行き止まりの道を歩んでいる気がしてならない。いつまで経っても正道に戻れず、したがって正道を歩めないでいる。

『弓道入門』によれば、弓を始めて3年の者は7割、5年の者は8割、10年の者は9割の的中をつねに出すべきで、個々人の性格や特性などを考慮してもこれらの数字から1割ずつ減じた的中がいつも出て然るべきであり、この的中率に満たない場合は間違いなく射型がおかしい、とある。「同じところからスタートしたにもかかわらず、中る人と中らない人が出てくるのは何故なのか」という疑問はかなり前から考えてきたことではあるが、してみると、中る・中らないというよりもむしろこれは「正しい射型を習得できる人とできない人が出てくるのは何故なのか」という疑問に帰結する。みなが同じような練習を積んだという仮定で話を進めているので、練習量に関してはここでは論外。上達の秘訣としてよく言われるのは、自分で考えて工夫すること。そのプロセスの巧拙が射型の巧拙に直結する。あとは精神の持ちようか。偏屈だったりひねくれた考え方しかできない人間、一つの物事に拘泥して思い込みの強い人間は、まず間違いなく上達への道のりは遠い。飽きっぽかったり、忍耐がないような場合もまた然り。

結局のところ、弓は心を直に反映する鏡であって、うまくいかないということは心に何らかの欠陥があるとしか考えられない。神経活動の結果として筋肉の運動、ひいては射であったりその結果たる的中があるわけだから、考えてみれば当然のことである。こう言ってしまうと身も蓋もないが、同じ講義を受けて同じような勉強をしたにもかかわらず、試験で点の取れる人と取れない人が出てくることと似たような話ではないか。

しかしながら、こんな結論では何の解決にもならない。個々人の特性や才能といった「どうにもならない部分」と、練習方法や指導内容といった「改変可能な部分」をしっかりと分けて考えねばならない。「どうにもならない部分」がどんなものであれ、強制しさえすれば一定以上の水準には必ず達するといったような「改変可能な部分」を確立することが最大の理想といえる。もちろん、そこから先の進捗は「どうにもならない部分」の内容如何で大幅に変わってくる。ただ、これぞという「改変可能な部分」が確立できていない、あるいはその完成度が低い場合、自分に適した「改変可能な部分」を勝手に編み出していける人とそうでない人との間で徐々に差が生まれてくることになる。結局は個々人の問題になるとはいえども、注目すべきはこの部分ではないか。

写真:稚内港
正午過ぎ。

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