正午を挟んで代々木へ。今日みたいにcomposeしている感があると楽しい。改めて思うに「構成」という日本語ではこの感覚を表現しきれない。午後は道場へ。頬付けを目標に引き分けるとどうしても自分の方から弓矢を迎えに行く形になって、これでは会を得られるはずがない。むしろ首筋に矢を付けるつもりで最後まで辛抱しながら弓矢を待つと、自然と口割りに収まってくる。むろん、そこからの伸びが正しいかは別問題。
「会が短い」という意味で「早気」という言葉が何となく多用されるけれども、本当の意味で、つまり精神上の問題ゆえに会が短くなったり無くなったりしている場合は意外と少ないように思われる。形がまずいために力学的に会を持てない、あるいはそもそも会と呼べる状態に入っていない場合がかなり多い。たいていは勝手肘が回り込まずに前上方に浮いていたり、全体的に見て弓矢が上ずって浮いていたり、肩が抜けていたり、または押手を押し切れていなかったり、あるいは上肢帯ばかり力んで体幹がまったくはたらいていなかったり、そういうのが多いように思う。したがって、会を得るに十分な射型というのがある一方で、力学上どうみても会が有り得ない射型というのもまたあって、後者の場合は伸びの力だとか離れの方向だとか会を持つだとか、そもそもそういう話が始まっていない。では、両射型を分けているのは何なのかと考えてみると、結局は肩なのかなと思う。両肩が弓にはまれば肘も回るし押しも安定する。
写真:宗谷本線快速なよろ@旭川
夜の旭川駅。
678文字
「会が短い」という意味で「早気」という言葉が何となく多用されるけれども、本当の意味で、つまり精神上の問題ゆえに会が短くなったり無くなったりしている場合は意外と少ないように思われる。形がまずいために力学的に会を持てない、あるいはそもそも会と呼べる状態に入っていない場合がかなり多い。たいていは勝手肘が回り込まずに前上方に浮いていたり、全体的に見て弓矢が上ずって浮いていたり、肩が抜けていたり、または押手を押し切れていなかったり、あるいは上肢帯ばかり力んで体幹がまったくはたらいていなかったり、そういうのが多いように思う。したがって、会を得るに十分な射型というのがある一方で、力学上どうみても会が有り得ない射型というのもまたあって、後者の場合は伸びの力だとか離れの方向だとか会を持つだとか、そもそもそういう話が始まっていない。では、両射型を分けているのは何なのかと考えてみると、結局は肩なのかなと思う。両肩が弓にはまれば肘も回るし押しも安定する。
写真:宗谷本線快速なよろ@旭川
夜の旭川駅。
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