GRAND CHARIOT
2011年4月30日 日常
昼下がりに代々木へ。帰り道に散髪。休日勧誘は流れ、まったりとした週末が到来。しばらく経てば慌ただしくなることだし、少し休養。
「話す」論理と「書く」論理は果たして同じか。個人的には「書く」ありきの「話す」だと思っていて、基本的に「話す」とは、「書く」論理の産物を適切な話し言葉に変換して発信しているだけ。
したがって、「話す」論理は大部分を「書く」論理に依存しているわけで、少なくとも「筋の通らない文章は絶対に書かない」という考えをもっていれば、意味の分からない話、何が言いたいのか分からない話、主張の分散した話、こういったものが出てくる余地はない。ときに、たまたま思いついて適当に話そうとしていた考えについて「書く」という作業を行ってみると、その考えのあまりの脆弱性に驚かされることがある。「書く」論理は強い。
ところが、「話す」論理のうち「書く」論理に依存しない部分、どうもこの部分は人によって構成力が大幅に違っていて、そもそも「論理」という言葉で処理できるような単純明快な性質のものではない。これからは、この辺りについてもう少し考えて行く必要がある。
写真:特急北斗星車内
食堂車の名はGRAND CHARIOT。
560文字
「話す」論理と「書く」論理は果たして同じか。個人的には「書く」ありきの「話す」だと思っていて、基本的に「話す」とは、「書く」論理の産物を適切な話し言葉に変換して発信しているだけ。
したがって、「話す」論理は大部分を「書く」論理に依存しているわけで、少なくとも「筋の通らない文章は絶対に書かない」という考えをもっていれば、意味の分からない話、何が言いたいのか分からない話、主張の分散した話、こういったものが出てくる余地はない。ときに、たまたま思いついて適当に話そうとしていた考えについて「書く」という作業を行ってみると、その考えのあまりの脆弱性に驚かされることがある。「書く」論理は強い。
ところが、「話す」論理のうち「書く」論理に依存しない部分、どうもこの部分は人によって構成力が大幅に違っていて、そもそも「論理」という言葉で処理できるような単純明快な性質のものではない。これからは、この辺りについてもう少し考えて行く必要がある。
写真:特急北斗星車内
食堂車の名はGRAND CHARIOT。
560文字
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