早春の大糸線 Part 4
2009年3月15日 鉄道と旅行 コメント (2)
交通量の多い国道を歩いて北上するわけだが、そもそも歩行者の存在があまり想定されていないので狭い歩道には柵が無く、あるいは歩道すら無い場所もある。間近を車が高速で通過していきかなり恐ろしい。長大なトンネルをいくつも抜け、30分ほど歩いてようやく開けた場所にやってきた。河原も広くなり、平地に出てきたことを窺わせる。根知駅も近い。開けた場所にぽつんと大きな岩が一つ鎮座している。袴岩という名前があるようだ。姫川の流れに乗って上流から運ばれてきたのだろうか。この岩の近くで、しばし時刻表を眺める。予想外に日差しの衰えるのが早いので、当初の予定を繰り上げ、帰京を早めることにした。最後の撮影は、根知駅での交換風景に決めた。
日差しは急速に衰える。先ほどまで構内には夕日が差していたのだが、今となっては日陰になってしまった。やがて時刻である。まずは下りの431Dがやって来る。A1運用なので青い125号。ゆっくりと停車し、対向の434Dを待つ。ホームに降りる撮影者もちらほら見受けられる。間もなく434Dがトンネルを抜けて構内に進入してきた。所属する3両全てが国鉄色となった今、大糸北線では毎日のように国鉄色同士の交換を拝むことができるわけである。赤い115号もゆっくりと停車し、ほんのわずかの時間だが両列車が顔を並べる。程なくして発車時刻を迎え、共に力行を開始。冷え始めた空に排煙を噴き上げ、じりじりとホームを滑り出してゆく。至福のひと時。やがて、再び静寂が訪れた。撮影終了である。
待合室に戻り、茫然と座る。思えばなかなか長い旅行であった。新幹線と特急をとことん利用しただけあって費用はかさんだが、最終富士・はやぶさを追跡して最後まで見送ったし、大糸線も堪能したし、そして3月10日の0.4222に始まる一連の大学入試結果にまつわる思考の整理もついたのではないか。かつてなく意義深い旅行になった感がある。そろそろ帰路につかねばならない。
帰宅は1時前であった。
写真
1枚目:交換して発車する夕刻の列車(@根知)。
2枚目:山奥に去ってゆく上り列車(@根知~小滝)。
3枚目:黄昏の糸魚川駅(@糸魚川)。
2163文字
@根知袴岩の先で国道は大糸線の線路を跨ぐ。脇道に逸れてしばらく歩くと根知駅構内を見渡せる踏切に到着した。名前を西ノ沢踏切という。16時56分に発車する431Dと434Dの交換をここから狙うことになる。その後は次の糸魚川行までおよそ1時間待たねばならない。2本の列車を一度に撮影するため、交換の撮影は「贅沢」であると言われるのも理解できる。
日差しは急速に衰える。先ほどまで構内には夕日が差していたのだが、今となっては日陰になってしまった。やがて時刻である。まずは下りの431Dがやって来る。A1運用なので青い125号。ゆっくりと停車し、対向の434Dを待つ。ホームに降りる撮影者もちらほら見受けられる。間もなく434Dがトンネルを抜けて構内に進入してきた。所属する3両全てが国鉄色となった今、大糸北線では毎日のように国鉄色同士の交換を拝むことができるわけである。赤い115号もゆっくりと停車し、ほんのわずかの時間だが両列車が顔を並べる。程なくして発車時刻を迎え、共に力行を開始。冷え始めた空に排煙を噴き上げ、じりじりとホームを滑り出してゆく。至福のひと時。やがて、再び静寂が訪れた。撮影終了である。
待合室に戻り、茫然と座る。思えばなかなか長い旅行であった。新幹線と特急をとことん利用しただけあって費用はかさんだが、最終富士・はやぶさを追跡して最後まで見送ったし、大糸線も堪能したし、そして3月10日の0.4222に始まる一連の大学入試結果にまつわる思考の整理もついたのではないか。かつてなく意義深い旅行になった感がある。そろそろ帰路につかねばならない。
根知1752 → 糸魚川1807先刻の115号が平岩で折り返して戻って来た。後追いの形で構内に佇む姿を踏切から撮った後、急いでホームに戻って乗り込む。今度は125号が糸魚川方から姿を現し、交換する。そろそろ日は暮れたようで、車窓は寒々しくなってきた。乗客は私含め2人。昼間の混雑が嘘のようである。心地よいエンジン音と振動に揺られ、ふかふかのボックスシートに腰かける。「センヌキ」がぼろぼろのテーブルに依然として装備されている。車齢40年を超えるキハ52、今なお現役である。今回のダイヤ改正で米坂線からキハ52・58が駆逐されてしまった。大糸北線はキハ52が生き残る最後の線区ということになる。いつまでも国鉄型・国鉄色の聖地であって欲しいものだが、果してどうなるだろうか。
大糸線433D キハ52 115
糸魚川1820 → 新潟20281935着の長岡で降りて1944発の東京行Maxとき348号に乗り継ぐ予定だったが、目が覚めたらなんと20時過ぎであった。つまり、寝過ごしたことになる。いつだかの酒田行いなほでもそうだったが、東日本の485系には寝過ごしの思い出がつきまとう。現に、今日またやってしまった。ほとんどの乗客が長岡で降りたのだろうか、がらがらの車内で終着の新潟まで行かざるを得なくなり、まことに虚しい心境。さすがに今日は疲れたか。
北陸本線・信越本線1057M 特急北越7号 モハ484-1043
新潟2131 → 東京2340しかも新潟での接続が悪い。10分ほど前に東京行が出発してしまっている。結局、元の行程と変わらない最終列車に乗る羽目に。しかし、繰り下げない行程で寝過ごしたら東京に帰れなくなっていたわけだから、これでも良かったと見るべきか。上越新幹線は2時間あまりの旅。大宮まで来ると帰京感が湧いてくる。東の空には昇ったばかりの太った下弦の月が黄色く浮かぶ。旅も終焉である。
上越新幹線352C Maxとき352号 車番記録忘れ
帰宅は1時前であった。
写真
1枚目:交換して発車する夕刻の列車(@根知)。
2枚目:山奥に去ってゆく上り列車(@根知~小滝)。
3枚目:黄昏の糸魚川駅(@糸魚川)。
2163文字
コメント
また今後も接点あった時にはよろしくです(^^) 無視しないでねw
今後ともよろしくお願いします。