はやぶさの一夜 後篇
2008年9月15日 鉄道と旅行
幽かなアラームの音を彼方に感じて、次第に目が覚めた。4時50分である。1時過ぎに停車した大阪駅の構内放送を夢うつつながら耳にした気がするのだが、とりあえずは5時間ほど眠ったことになるのだろうか。まだ少し寝足りないような感じである。しかしながら、わざわざこの時間に起きたのにはちょっとした理由があって、「西の箱根」と称される所謂セノハチ越えを寝台の車内から体感してみたいという思いがあったのである。
・残夜
カーテンを少し開け、車窓に目をやる。案の定、外はまだ真っ暗である。ちょうど八本松駅を通過したところであった。列車は山間部の川沿いを走っているようだ。人家は見当たらず、並走する国道のナトリウムランプが美しい。下り富士・はやぶさは定刻ならば5時前後にかけてセノハチを越えるダイヤで走る。定時運転だと分かりひとまず安心して、再び車窓に見入った。線形は曲線の連続で、時折響く寂しげな汽笛がこだまする。各車両に規則的に並んだ行先幕の灯りが印象的である。途中、上りの貨物列車とすれ違った。最後尾に後補機のEF67が連結されていたようで、車体のオレンジ色と、尾灯の残像が一瞬のうちに目の前をよぎっていった。EF67はこの区間のみで補機として活躍する独特の機関車。長編成貨物列車の後押しを地道に担っているわけだが、昼夜を問わないそういった毎日の営みが大幹線の輸送を支えているのだと思うと、感慨深いものがある。そんな思いに耽っていると、やがて車窓は町が近づいてきたことを窺わせるようになった。そして、電灯だけがともった瀬野駅を列車は颯爽と通過していったのだった。あと20分もしないうちに広島に到着である。
寝るつもりはなかったものの、何気なく再び横になったが最後、また眠りに落ちてしまった。とはいえ折角寝台列車に乗ったのだから、寝台を存分に堪能するのも良いだろう。個人的にはいかにもといった雰囲気が出ているので好きなのだが、枕をはじめとして、B寝台の寝具は至って質素である。また、とりわけ開放寝台に感じる魅力のうちには、カーテン1枚で仕切られた個人空間といった要素がある。通路と空気を共有しつつも空間は隔てられているというこの絶妙な感覚は何ともいえない。カーテンを引いて読書灯を点ければ、実にコンパクトな「個室」の全容が浮かび上がり、通常では考えられないような寝台列車独特の不思議な空間が目の前に展開するのである。しかし、それが旅情とか風情とかいった言葉で肯定的に解釈されたところで、こうした移動形態をもはや時代は要求していないということは明白だと言わざるを得ない。プライバシーという観点があらゆる場面で求められ、それがいつにも増して強調される現在にあっては、30年前のままのサービスは「時代遅れ」の一言で片付けられてしまうほど実情から乖離してしまった。個室寝台は一定の人気を博しているようだけれども、大幅に向上した空路の利便性、さらなる進化を遂げた新幹線の速達性、はるかに安価な夜行高速バス網の発展などに鑑みれば、古くから走るこういった寝台列車が生き残る道は閉ざされてしまったと言ってよい。ごく最近のことであるが、私の知る限りでは、さくら、あさかぜを皮切りに、出雲、なは、あかつき、銀河・・・このわずか数年の間にどれほどのブルートレインが姿を消したことか。名門列車もあっさり切り捨てられる今となっては、辛うじて生き残る列車も既に過去の亡霊となっているのかもしれない。時代はこれらの列車を置き去りにしてますます先へ進んでいく。我々はただただ最後の日を待つばかりで、やがて「寝台列車」という言葉そのものが過去の彼方へと消し飛んでいくのだろう。
虚しい思いで胸がいっぱいになる。
・雨の山陽路
なんとおはよう放送で起きてしまった。6時前にスタンバイして一部始終を録音するつもりでいたのだが、またもや叶わず。結局小一時間の二度寝をしたことになる。既に広島、岩国を発車しており、日の出を迎えた車窓は明るくなっていた。岩国を出たばかりの列車は広島湾を左手に海岸を快走する。瀬戸内海が間近に迫り、遠くの地へ来たことを実感させられる。夜行列車で一晩運ばれて迎える朝は、非日常そのもの、それだけに感慨も大きい。残念ながら空は曇っており、今にも雨が降りそうである。やがて大島大橋が現れたと思うと、港の点在する町の風景が目につくようになった。そして柳井停車。いよいよ雨が降ってきたようだ。その後も列車はひたすら山陽本線を西進する。およそ20分後に下松に到着。さらに10分もしないうちに徳山、といったふうにこまめに主要駅に停まっていく。
徳山からは車内販売が始まるので、予め1号車に待機しておくことにした。関係ない話だが、1号車車端部の15番寝台は向かい側が壁になっていて、ちょっとした個室気分を味わえる面白いつくりになっている。さて、車内販売で手に入れようと思っていたのは「特製幕の内弁当」と呼ばれる弁当で、一見普通に思えるかもしれないが、駅弁ではなく、下り富士・はやぶさの車内販売のためだけに作られる極めて稀少な弁当である。聞いた話では、店主のおばあさんが毎朝早くに起きて十個ほどを作るそうである。つまり個数もかなり限定されるわけなので、早めに赴いて無事に手に入れたのだった。950円也。自席に戻って、雨の山陽路を眺めながらこの朝食を味わうことにした。御飯、焼鮭、焼卵、コロッケ、昆布、大根、かまぼこ、唐揚げ、かぼちゃ・・・など切りがないのだが、ちょうど良いボリュームである。御飯はまだかすかに温もりが残っている感じで、とりわけ美味しいと感じたのは唐揚げであった。別段特徴もない「幕の内弁当」なのだが、ごく普通ながら丁寧な味のこもった朝食を、朝を迎えた夜行列車の車内で食べる、これはたまらない。この列車ならではの魅力であろう。
列車は走る。防府、新山口、宇部の順に本線を快走。西に進むにつれて雨脚が強まって来た感があり、若干不安である。途中の通過駅はかつての名残か、2面3線の駅が本当に多い。町が近づき、去り、また別の町が近づいてくるということの繰り返しである。あまりに速すぎる新幹線では感じることのできない車窓であろう。新山口では国鉄急行色塗装のキハ58形2連を見かけた。ここのところ美祢線の臨時に充当されているようだが、こういった思いがけない出会いを車窓から眺めるのもまた一興。収穫を前にした秋の田んぼを横目に当たり前のように列車は足を進めるわけだが、東京から延々走って来た道のりを考えると長距離列車独特の気分を感じないわけにはいかない。やがて下関が近づいてきた。はやぶさとももうすぐお別れである。
荷物をまとめ、寝台を出る。座席として使うにはずいぶんとゆったりとしたスペースであった。それだけに贅沢な時間だったともいえる。下関では関門海峡を越えるためにEF81へと機関車を交換する。到着するや否やEF66はすぐに解放されるとのことだったので1号車のデッキへと向かったのだが、既に多くの人であふれ返っていた。そして、下関到着。扉が開くと、皆が前方に向かって急ぐ。記念撮影に勤しんだり、EF66の姿を収めたりする大勢の人々の合間で私もカメラを構えたのだが、本当にあっという間に解放されてEF66は編成を後にしたので、1枚を撮るのがやっとであった。やがて、EF81 410が雨の中ゆっくりと近づいてきた。隣の門司までわずか1区間のみの担当であるが、目まぐるしく機関車が交換されていく様は、長年受け継がれてきた関門の「儀式」ともいえよう。手際良い連結作業で、6分間の停車時間はすぐさま過ぎ去り、まもなく発車時刻。1号車に戻って簡易座席に腰かける。下関を滑り出した列車はほどなく関門トンネルに入るが、トンネルは意外なほど短い。すぐに門司に到着となった。そして門司では富士編成とはやぶさ編成が分割され、それぞれが九州島内の別々の行先を目指して発車してくことになる。はやぶさが発った後に富士が発車するまで、下関から続く実に充実した40分間である。思うままに色々と撮影を行ったが、充足感はこの上ない。富士がホームをゆっくり後にするのを見届けたところで、乗車行は終了となった。
さらば、富士・はやぶさ。
列車を見送った後に、小倉まで1駅移動。往復乗車券の「ゆき券」を全うした。さて、しかしながら休む暇もなく今度は帰路が待ち構えているのである・・・
参考:9月14日発1レ 富士・はやぶさの編成
(←熊本・大分)【はやぶさ】1号車スハネフ14 101・2号車オロネ15 3006・3号車オハネ15 2001・4号車オハネ15 1・5号車オハネ15 2・6号車スハネフ14 11
【富士】7号車スハネフ15 21・8号車オロネ15 3001・9号車オハネ15 2003・10号車オハネ15 1102・11号車オハネ15 6・12号車スハネフ14 3(東京→)
東京→下関 EF66 48
下関→門司 EF81 410
門司→熊本 ED76 69(はやぶさ)
門司→大分 ED76 90(富士)
写真:特急はやぶさ@門司
3960文字
・残夜
カーテンを少し開け、車窓に目をやる。案の定、外はまだ真っ暗である。ちょうど八本松駅を通過したところであった。列車は山間部の川沿いを走っているようだ。人家は見当たらず、並走する国道のナトリウムランプが美しい。下り富士・はやぶさは定刻ならば5時前後にかけてセノハチを越えるダイヤで走る。定時運転だと分かりひとまず安心して、再び車窓に見入った。線形は曲線の連続で、時折響く寂しげな汽笛がこだまする。各車両に規則的に並んだ行先幕の灯りが印象的である。途中、上りの貨物列車とすれ違った。最後尾に後補機のEF67が連結されていたようで、車体のオレンジ色と、尾灯の残像が一瞬のうちに目の前をよぎっていった。EF67はこの区間のみで補機として活躍する独特の機関車。長編成貨物列車の後押しを地道に担っているわけだが、昼夜を問わないそういった毎日の営みが大幹線の輸送を支えているのだと思うと、感慨深いものがある。そんな思いに耽っていると、やがて車窓は町が近づいてきたことを窺わせるようになった。そして、電灯だけがともった瀬野駅を列車は颯爽と通過していったのだった。あと20分もしないうちに広島に到着である。
寝るつもりはなかったものの、何気なく再び横になったが最後、また眠りに落ちてしまった。とはいえ折角寝台列車に乗ったのだから、寝台を存分に堪能するのも良いだろう。個人的にはいかにもといった雰囲気が出ているので好きなのだが、枕をはじめとして、B寝台の寝具は至って質素である。また、とりわけ開放寝台に感じる魅力のうちには、カーテン1枚で仕切られた個人空間といった要素がある。通路と空気を共有しつつも空間は隔てられているというこの絶妙な感覚は何ともいえない。カーテンを引いて読書灯を点ければ、実にコンパクトな「個室」の全容が浮かび上がり、通常では考えられないような寝台列車独特の不思議な空間が目の前に展開するのである。しかし、それが旅情とか風情とかいった言葉で肯定的に解釈されたところで、こうした移動形態をもはや時代は要求していないということは明白だと言わざるを得ない。プライバシーという観点があらゆる場面で求められ、それがいつにも増して強調される現在にあっては、30年前のままのサービスは「時代遅れ」の一言で片付けられてしまうほど実情から乖離してしまった。個室寝台は一定の人気を博しているようだけれども、大幅に向上した空路の利便性、さらなる進化を遂げた新幹線の速達性、はるかに安価な夜行高速バス網の発展などに鑑みれば、古くから走るこういった寝台列車が生き残る道は閉ざされてしまったと言ってよい。ごく最近のことであるが、私の知る限りでは、さくら、あさかぜを皮切りに、出雲、なは、あかつき、銀河・・・このわずか数年の間にどれほどのブルートレインが姿を消したことか。名門列車もあっさり切り捨てられる今となっては、辛うじて生き残る列車も既に過去の亡霊となっているのかもしれない。時代はこれらの列車を置き去りにしてますます先へ進んでいく。我々はただただ最後の日を待つばかりで、やがて「寝台列車」という言葉そのものが過去の彼方へと消し飛んでいくのだろう。
虚しい思いで胸がいっぱいになる。
・雨の山陽路
なんとおはよう放送で起きてしまった。6時前にスタンバイして一部始終を録音するつもりでいたのだが、またもや叶わず。結局小一時間の二度寝をしたことになる。既に広島、岩国を発車しており、日の出を迎えた車窓は明るくなっていた。岩国を出たばかりの列車は広島湾を左手に海岸を快走する。瀬戸内海が間近に迫り、遠くの地へ来たことを実感させられる。夜行列車で一晩運ばれて迎える朝は、非日常そのもの、それだけに感慨も大きい。残念ながら空は曇っており、今にも雨が降りそうである。やがて大島大橋が現れたと思うと、港の点在する町の風景が目につくようになった。そして柳井停車。いよいよ雨が降ってきたようだ。その後も列車はひたすら山陽本線を西進する。およそ20分後に下松に到着。さらに10分もしないうちに徳山、といったふうにこまめに主要駅に停まっていく。
徳山からは車内販売が始まるので、予め1号車に待機しておくことにした。関係ない話だが、1号車車端部の15番寝台は向かい側が壁になっていて、ちょっとした個室気分を味わえる面白いつくりになっている。さて、車内販売で手に入れようと思っていたのは「特製幕の内弁当」と呼ばれる弁当で、一見普通に思えるかもしれないが、駅弁ではなく、下り富士・はやぶさの車内販売のためだけに作られる極めて稀少な弁当である。聞いた話では、店主のおばあさんが毎朝早くに起きて十個ほどを作るそうである。つまり個数もかなり限定されるわけなので、早めに赴いて無事に手に入れたのだった。950円也。自席に戻って、雨の山陽路を眺めながらこの朝食を味わうことにした。御飯、焼鮭、焼卵、コロッケ、昆布、大根、かまぼこ、唐揚げ、かぼちゃ・・・など切りがないのだが、ちょうど良いボリュームである。御飯はまだかすかに温もりが残っている感じで、とりわけ美味しいと感じたのは唐揚げであった。別段特徴もない「幕の内弁当」なのだが、ごく普通ながら丁寧な味のこもった朝食を、朝を迎えた夜行列車の車内で食べる、これはたまらない。この列車ならではの魅力であろう。
列車は走る。防府、新山口、宇部の順に本線を快走。西に進むにつれて雨脚が強まって来た感があり、若干不安である。途中の通過駅はかつての名残か、2面3線の駅が本当に多い。町が近づき、去り、また別の町が近づいてくるということの繰り返しである。あまりに速すぎる新幹線では感じることのできない車窓であろう。新山口では国鉄急行色塗装のキハ58形2連を見かけた。ここのところ美祢線の臨時に充当されているようだが、こういった思いがけない出会いを車窓から眺めるのもまた一興。収穫を前にした秋の田んぼを横目に当たり前のように列車は足を進めるわけだが、東京から延々走って来た道のりを考えると長距離列車独特の気分を感じないわけにはいかない。やがて下関が近づいてきた。はやぶさとももうすぐお別れである。
荷物をまとめ、寝台を出る。座席として使うにはずいぶんとゆったりとしたスペースであった。それだけに贅沢な時間だったともいえる。下関では関門海峡を越えるためにEF81へと機関車を交換する。到着するや否やEF66はすぐに解放されるとのことだったので1号車のデッキへと向かったのだが、既に多くの人であふれ返っていた。そして、下関到着。扉が開くと、皆が前方に向かって急ぐ。記念撮影に勤しんだり、EF66の姿を収めたりする大勢の人々の合間で私もカメラを構えたのだが、本当にあっという間に解放されてEF66は編成を後にしたので、1枚を撮るのがやっとであった。やがて、EF81 410が雨の中ゆっくりと近づいてきた。隣の門司までわずか1区間のみの担当であるが、目まぐるしく機関車が交換されていく様は、長年受け継がれてきた関門の「儀式」ともいえよう。手際良い連結作業で、6分間の停車時間はすぐさま過ぎ去り、まもなく発車時刻。1号車に戻って簡易座席に腰かける。下関を滑り出した列車はほどなく関門トンネルに入るが、トンネルは意外なほど短い。すぐに門司に到着となった。そして門司では富士編成とはやぶさ編成が分割され、それぞれが九州島内の別々の行先を目指して発車してくことになる。はやぶさが発った後に富士が発車するまで、下関から続く実に充実した40分間である。思うままに色々と撮影を行ったが、充足感はこの上ない。富士がホームをゆっくり後にするのを見届けたところで、乗車行は終了となった。
さらば、富士・はやぶさ。
門司914 → 小倉920
鹿児島本線
列車を見送った後に、小倉まで1駅移動。往復乗車券の「ゆき券」を全うした。さて、しかしながら休む暇もなく今度は帰路が待ち構えているのである・・・
参考:9月14日発1レ 富士・はやぶさの編成
(←熊本・大分)【はやぶさ】1号車スハネフ14 101・2号車オロネ15 3006・3号車オハネ15 2001・4号車オハネ15 1・5号車オハネ15 2・6号車スハネフ14 11
【富士】7号車スハネフ15 21・8号車オロネ15 3001・9号車オハネ15 2003・10号車オハネ15 1102・11号車オハネ15 6・12号車スハネフ14 3(東京→)
東京→下関 EF66 48
下関→門司 EF81 410
門司→熊本 ED76 69(はやぶさ)
門司→大分 ED76 90(富士)
写真:特急はやぶさ@門司
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